第1話 AI相談お断り
朝の冷たい雨が上がったのは、気象予測システムがはじき出していた通り、午前十時十五分だった。
アスファルトに残った水たまりが、重く垂れ込めた灰色の空をぼんやり映している。
駅前を行き交う人々の歩みは速い。
誰も足を止めない。
耳元の小型デバイスや、網膜に映像を投影するグラス型端末が、目的地までの最短ルートを知らせている。
水たまりを避けるための歩幅まで、端末が細かく指示していた。
空を見上げる人はいない。
道を間違えて引き返す人もいない。
二〇三八年のこの街では、効率と最適化が当たり前になっていた。
それを疑う人間も、ほとんどいなかった。
神谷徹は、グレーのトレンチコートの襟を少し立て、首元に入り込む風を防いだ。
二十八歳。
地方紙の記者になって五年目になる。
徹自身も、この便利な社会を嫌ってはいなかった。
新聞記事の一次稿は、今ではほとんどシステムが作ってくれる。
記者の仕事は、事実に間違いがないかを確認し、読者に伝わりやすいよう、最後に少し手を入れること。
それだけになりつつあった。
楽でいい。
徹はそう思っていた。
無駄がない。
大きな間違いも起こりにくい。
誰が担当しても、一定の品質の記事ができる。
完璧とは言わないまでも、ずいぶん快適な世界になった。
徹は、そう考えていた。
ナビゲーションの無機質な音声に従い、徹は大通りから細い路地へ入った。
角を一つ曲がると、景色ががらりと変わった。
さっきまで並んでいたガラス張りのビルは消え、背の低い木造やモルタル塗りの建物が両側に現れた。
シャッターの下りた店。
赤茶色に錆びた街灯。
色あせて、何の広告なのかも分からない飲料水の看板。
再開発から取り残された、市のはずれの古い商店街だった。
人の気配がない。
ここだけ、時間が何十年も前で止まっているようだった。
足元の舗装もひび割れている。
最短ルートだと案内されているのに、歩きやすい道とはとても言えなかった。
徹は端末を開き、今日の取材予定を確認した。
『AIを無視する相談所・・時代遅れの奇人か、それとも』
徹が仮につけた見出しだった。
何でもシステムに相談し、示された最適解に従って生きるのが当たり前の時代。
そんな時代に、「機械には相談しない」と掲げる人生相談所があるらしい。
ネットの片隅で見つけた、小さな噂だった。
どうせ、新しい技術についていけない頑固な老人だろう。
若者をつかまえて、昔話や説教を聞かせているだけに違いない。
徹はそう決めつけていた。
少し皮肉を効かせた記事にして、さっとまとめればいい。
今日は早めに仕事を終わらせよう。
帰れば、体調管理システムが勧めてくる夕食を食べる。
栄養バランスもカロリーも、すでに決まっている。
今日の予定は完璧だった。
端末の地図が示す場所で、徹は足を止めた。
そこにあったのは、周囲の建物よりさらに古い木造の平屋だった。
入り口には藍色の暖簾がかかっている。
白い文字で「いっぷく庵」と染め抜かれていた。
自動ドアではない。
すりガラスの入った、昔ながらの引き戸だった。
電子看板も、案内用のディスプレイもない。
徹は小さく息を吐き、木枠に手をかけた。
カラカラ。
乾いた木の音が、静かな通りに響いた。
妙に大きく聞こえる。
引き戸を開けて中へ入ると、焙じ茶の香りがした。
深く煎った茶葉の、少し土っぽくて温かい匂いだった。
オフィスでは空気清浄機の風ばかり浴びている。
だからだろうか。
その匂いが妙に懐かしく感じられた。
同時に、少し落ち着かなかった。
店内は薄暗い。
古びたリノリウムの床の中央には、使い込まれて角の丸くなった低い木のテーブルがあり、その周りに形の違う椅子がいくつか置かれている。
部屋の隅には座布団が一枚。
その上で、丸々とした三毛猫が気持ちよさそうに眠っていた。
奥の木製カウンターには、老人が一人いた。
色あせた紺色の作務衣を着ている。
古い鉄瓶から急須へ、ゆっくりと湯を注いでいた。
八十近くだろうか。
顔には深い皺が刻まれ、背中も少し曲がっている。
それなのに、湯を注ぐ手だけは驚くほど静かだった。
徹が入ってきても、老人は顔を上げなかった。
「あの・・ごめんください」
声をかけると、老人は湯を注ぎ終えた。
鉄瓶をコンロに戻してから、ようやく徹を見る。
鋭い目だった。
怒っているわけではない。
ただ、静かにこちらを見ている。
徹は、なぜか一瞬だけ足を止めた。
「うちは何も買わんよ」
老人の声はかすれていたが、よく通った。
「いえ、セールスじゃありません。昨日お電話した、新聞社の神谷徹です。今日は取材で伺いました」
「ああ。新聞屋か」
老人はそれだけ言った。
急須から厚手の湯呑みに茶を注ぐ。
そしてカウンター越しに、トン、と置いた。
「飲め」
「え?」
「冷えとるだろ」
徹は少し迷った。
だが、断る理由もなく、カウンターへ近づいた。
湯呑みを持つと、ずしりと重い。
一口すすると、強い渋みのあとに、ほんのり甘さが残った。
冷えていた体に、温かさがゆっくり広がっていく。
ふと店の隅を見ると、もう一人、老人が座っていた。
真っ白な髭を生やし、湯呑みを両手で包んでいる。
こちらには目も向けず、じっと前を見ていた。
常連客だろうか。
それ以上は気にせず、徹はデジタルメモ帳を開いた。
「坂井源蔵さん、ですね」
「そうだ」
「では、さっそくですが・・『いっぷく庵』について、お話を聞かせてください」
源蔵は答えず、カウンターを布巾で拭いている。
「今の時代、就職でも結婚でも、健康管理でも、まずシステムに相談する人がほとんどです。膨大なデータをもとにした予測なら、人間の勘より精度も高い。失敗する可能性も減らせます」
徹はメモを確認しながら続けた。
「それなのに、ここでは『機械には相談しない』と掲げている。どうしてですか?」
源蔵は顔を上げなかった。
「答えなんてもんは、人からもらうもんじゃない」
「でも、システムの予測なら、人生で大きな失敗をする確率を下げられます。合理的に考えれば・・」
「ここは理屈をこねる場所じゃない」
源蔵が布巾を置いた。
「茶を飲む場所だ」
徹が言葉に詰まった、そのときだった。
背後で、引き戸がカラカラと鳴った。
振り返ると、入り口に若い男が立っていた。
徹と同じくらいの年齢だろう。
くたびれたグレーのスーツに、少し緩んだネクタイ。
それより気になったのは顔色だった。
目の下には濃い隈がある。
何日も眠っていないような顔だった。
若い男は徹の存在に気づいていないらしい。
ふらふらと店の中へ入り、テーブルの椅子に腰を落とした。
源蔵は何も聞かなかった。
新しい湯呑みを出し、茶を注いで男の前に置く。
男は湯呑みを見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて、小さな声で言った。
「どうすればいいのか、分からないんです」
声がかすれていた。
徹はメモ帳を持ったまま、黙って耳を傾けた。
「キャリア診断のシステムに言われました。今の仕事は、僕の適性と九十八パーセント合っていないって」
源蔵は何も言わない。
「このまま続けると、三か月以内に深刻な不調になる可能性が高い。だから、今すぐ退職して、別の部門に移ったほうがいいって」
徹は思わず頷きそうになった。
九十八パーセント。
それだけはっきり数字で出ているなら、答えは決まっている。
今の仕事を辞めるべきだ。
少なくとも徹には、そう思えた。
「でも・・」
若い男が湯呑みの縁を指でなぞった。
「仕事はきついです。でも、お客さんから『ありがとう』って言われると、やっぱり嬉しいんです」
男は一度、言葉を切った。
「先輩たちも、不器用な僕を見捨てずに教えてくれる。だから、もう少し頑張ってみたいんです」
その声には、かすかな力が戻っていた。
「でもシステムは、それも一時的な感情だって。数字が全部証明しているって言うんです」
男は顔を上げた。
「僕、間違ってるんでしょうか」
源蔵を見つめる。
「辞めたほうがいいんですか。それとも、もう少し続けてもいいんですか。どうしたらいいのか・・分からなくて」
徹は思った。
きっと、この老人に答えを求めている。
人生経験のある人間なら、何か言ってくれる。
「自分の気持ちを信じろ」とか、「もう少し頑張ってみろ」とか。
そんな言葉を待っているのだろう。
だが、源蔵は男の顔を見なかった。
視線は、男の足元に落ちていた。
徹もつられて見る。
黒い革靴だった。
泥と埃で白っぽく汚れている。
つま先には細かな傷があり、かかともかなりすり減っていた。
源蔵が言った。
「お前さん」
「はい」
「今日は靴を磨け」
男が目を瞬いた。
徹も思わず顔を上げた。
「え?」
「靴を磨くんだ」
源蔵は淡々と続けた。
「ブラシで埃を落として、クリームを塗る。それから布で磨け。光ってくるまで、ゆっくり磨けばいい」
「でも、仕事のことは」
「今日は靴だけでいい」
「診断結果が・・」
「茶が冷めるぞ」
それだけ言うと、源蔵は立ち上がった。
流しへ行き、湯呑みを洗い始める。
それ以上、話すつもりはないらしい。
若い男は、しばらく源蔵の背中を見ていた。
やがて自分の足元を見る。
汚れた靴。
男は何も言わなかった。
長い沈黙のあと、ふう、と息を吐いた。
「・・分かりました」
その声は小さかった。
男は茶を飲み干し、立ち上がった。
源蔵に深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
源蔵は振り向かなかった。
若い男は引き戸を開け、店を出ていった。
カラカラという音がして、やがて足音も聞こえなくなった。
「今の、何なんですか」
徹は、とうとう我慢できずに口を開いた。
「本気で悩んでいましたよね。仕事を辞めるかどうかで悩んでいた。なのに、靴を磨けって・・」
源蔵は蛇口をひねり、手を洗った。
水を止め、手ぬぐいで手を拭いてから徹を見る。
「そんなことで、ミスマッチの数字が変わるわけじゃないでしょう」
「変える必要はない」
「え?」
源蔵は、男が出ていった引き戸を見た。
「汚れた靴を毎日見てる人間はな、だんだん足元を見なくなる」
「足元?」
「自分の足元も見えん人間が、三年先のことばかり考えてどうする」
徹は反論しかけた。
「でも、システムの予測は・・」
「数字、数字と・・」
源蔵が小さく息を吐いた。
「数字が間違ってるとは言っとらん」
徹は黙った。
「ただな、お前さんたちは数字に時間を食われすぎだ」
源蔵はカウンターの椅子に腰を下ろした。
「靴を磨けば、手が汚れる。革の匂いもする。傷があれば気になる。汚れが残ってりゃ、もう一度布をかける」
源蔵は自分の足元を指した。
「そうやって目の前の靴を見ている間だけは、明日のことを考えなくて済む」
「それが、何になるんですか」
徹は思わず聞き返した。
源蔵は少しだけ笑った。
「息が詰まってる人間に必要なのは、正しい答えじゃない」
静かな声だった。
「少し息ができる隙間だ」
徹は何も言えなかった。
隙間。
そんなものが、仕事の悩みを解決するわけではない。
三か月後の診断結果が変わるわけでもない。
頭ではそう分かっている。
それでも、さっきの男が「分かりました」と言ったときの顔が、妙に気になった。
「今日はもう帰れ」
源蔵が言った。
「まだ取材が・・」
「邪魔だ」
徹は口を閉じた。
これ以上話を聞けそうな雰囲気ではない。
「分かりました」
小さく頭を下げ、徹はいっぷく庵を出た。
外へ出ると、空はさらに暗くなっていた。
街灯が一つ、また一つと点いていく。
冷たい風が頬を打った。
駅へ向かいながら、徹は記事の構成を考え直した。
やっぱり、ただの偏屈な老人だ。
データを信用せず、靴を磨けと言う。
時代遅れの精神論を若者に押しつけている。
そう書けば、少しは面白い記事になる。
徹は端末に手を伸ばしかけた。
そのときだった。
駅へ向かう道の脇に、小さな公園がある。
何気なくそちらを見ると、ベンチに人が座っていた。
さっきの男だった。
スーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの袖をまくっている。
その足元には、脱いだ革靴。
手には、小さな靴クリームの缶と布があった。
徹は足を止めた。
男は右の靴を手に取り、クリームを塗っている。
急ぐ様子はない。
少し塗っては布で拭き、また別の場所を磨く。
端末を見ていない。
イヤホンから何かを聞いている様子もない。
ただ、靴だけを見ていた。
徹は少し離れた場所から、その様子を眺めた。
布をかけるたび、曇っていた革に少しずつ光が戻っていく。
そのとき、公園の前を小さな子どもが通りかかった。
子どもはベンチの男を不思議そうに見た。
男は手を止めた。
そして子どもに気づくと、ふっと笑った。
さっき、いっぷく庵で見た顔とは別人のようだった。
徹は、思わず息を止めた。
仕事のミスマッチが消えたわけではない。
明日の朝になれば、また仕事が待っている。
九十八パーセントという数字も、きっと変わらない。
それでも、今の男は苦しそうには見えなかった。
ただ、自分の手元にある靴を磨いている。
それだけだった。
徹は、さっき源蔵が言った言葉を思い出した。
少し息ができる隙間。
もしかすると、あの老人が渡したのは答えではなかったのかもしれない。
答えを出すことを、いったんやめる時間だった。
徹は端末を取り出した。
画面には、システムが自動生成した記事の見出しが表示されていた。
『時代遅れの偏屈老人と、失われた合理性』
徹はしばらく、その文字を見つめた。
それから画面をスワイプした。
文章をすべて削除する。
画面が白くなった。
端末を閉じ、コートのポケットにしまった。
冷たい風は相変わらずだった。
けれど、いっぷく庵を出たときより、少しだけ呼吸が楽になっている気がした。
徹は立ち止まり、振り返った。
暗くなった古い商店街の向こうに、いっぷく庵の暖簾が見える。
あの老人は、いったい何者なのだろう。
そんな疑問が、初めて徹の中に残った。
これまでの徹なら、疑問が浮かべば端末に尋ねていた。
関連する情報を集め、過去の事例を調べ、もっとも可能性の高い答えを出す。
けれど、今は端末を開く気にならなかった。
答えが欲しいわけではない。
ただ、あの店で見たものを、もう少し自分の頭で考えてみたかった。
徹はコートの襟を直した。
雨上がりの路地には、まだ水たまりが残っている。
その一つを避けながら、徹は駅へ向かって歩き出した。




