第10話 花は黙って咲く
梅雨が明け、照りつける日差しが商店街の石畳を白く焼いていた。
遠くで蝉の声が途切れなく響き、熱気が陽炎のように揺れている。
『いっぷく庵』の店先で、源蔵が竹の柄杓を傾けていた。
じゃっ、と水が撒かれ、乾いた石畳が濃い濡れ色に変わる。
立ち上る湯気の中に、冷たい土の匂いが混ざり合った。
藍色の暖簾をくぐると、店内には外の暑さを忘れさせる静けさが満ちていた。
扇風機が首を振り、奥のカウンターでは鉄瓶が細い湯気を上げている。
三毛猫は冷たい板の間に腹ばいになり、気持ちよさそうに目を細めていた。
テーブル席には、徹の向かいに相川芽依が座っていた。
サマージャケットを着て、冷たい麦茶のグラスに手を添えている。
グラスの表面についた水滴が、コースターの上に小さな輪を作っていた。
あれ以来、芽依は休日に時折、この店に立ち寄るようになっていた。
「商店街の購買データを見直していたんです」
芽依がタブレットを操作しながら言った。
「大型商業施設ができてから、この通りの売上は全体で三十パーセント落ちています。客足が戻らない個人商店が生き残るには、徹底した在庫管理と需要予測が不可欠です」
「データ通りにいけば、世の中に倒産する店はねえよ」
源蔵が手ぬぐいで手を拭きながらカウンターへ戻ってきた。
「いいえ、現代の流通AIは極めて高精度です」
芽依は真剣な目で反論した。
「無駄な仕入れを削り、売れ筋だけに絞り込む。需要のないものを排除して回転率を最大化する。それが、体力の乏しい個人商店が生き残る唯一の合理的な道です」
徹はお茶をすすりながら、二人のやり取りを聞いていた。
すべてを数値とアルゴリズムで解き明かそうとする芽依と、理屈の外側で生きている源蔵。
水と油のようだが、芽依の表情には以前のような頑なさはなく、どこか答えを探し求めるような柔らかさがあった。
引き戸が、ガラガラと重い音を立てて開いた。
入ってきたのは、緑色のエプロンを着けた若い男だった。
三十代前半。
日に焼けた精悍な顔立ちだが、その表情は疲れ果てていた。
エプロンのポケットには剪定ばさみが差され、指先は植物のアクと土で黒ずんでいる。
商店街の角にある生花店『花正』の二代目店主、俊介だった。
「源蔵さん・・すみません、冷たい水、もらえますか」
俊介は力なく笑い、テーブル席の端に崩れ落ちるように腰を下ろした。
源蔵が無言で氷水を差し出す。
俊介は両手でグラスを掴み、喉を鳴らして一気に飲み干した。
そして、深いため息をついた。
その溜息の重さに、店内の空気がわずかに沈む。
「どうした、俊介。景気が悪そうな顔だな」
源蔵が言った。
俊介は両手で頭を抱えた。
「もう・・限界かもしれません。今月も、完全に赤字です。親父から店を継いで三年、一番ひどい数字が出ました」
俊介はスマートフォンを取り出し、テーブルに置いた。
画面には、グラフとパーセンテージが並んでいる。
芽依が小さく眉を動かした。
「それ・・『フローラ・オプティマ』ですね」
俊介が顔を上げた。
「ご存知なんですか?」
「ええ。大手流通が開発した、生花店向けの需要予測マーケティングAIです」
芽依が画面を覗き込んだ。
「地域住民の年齢層、購買履歴、SNSのトレンドまで網羅して、仕入れるべき花を最適化するシステムです」
「そうなんです」
俊介はすがるように頷いた。
「赤字が続いてどうしようもなくなって、三ヶ月前に導入しました。AIの指示通りに仕入れを根本から変えたんです」
画面には、AIが推奨した仕入れリストが表示されていた。
『第一推奨:赤バラ、ピンクカーネーション、ガーベラ』
『推奨アレンジメント:千五百円均一の無難なビタミンカラーブーケ』
『仕入れ禁止:需要確率五パーセント以下の野草、枝物、山野草全般』
「無駄を徹底的に排除しました」
俊介の声が震えていた。
「親父の代から仕入れていた珍しい山野草や、日持ちのしない野草の仕入れを全部やめました。売れ筋トップテンの花だけに絞り、AIが指定した通りの価格で、誰にでも好まれる花束を並べました。廃棄率は、前の半分以下に減ったんです」
「素晴らしい成果じゃないですか」
芽依が言った。
「廃棄ロスを減らすことこそ、生花ビジネスの生命線です」
「でも!」
俊介は声を張り上げた。
目には涙が滲んでいた。
「客が、来ないんです・・。前よりもずっと、素通りされていくんです」
重い沈黙が落ちた。
「駅前のスーパーに行けば、同じようなバラが七割の値段で並んでいます。大型チェーンの仕入れ力には勝てません。うちの前を通る人たちは、店の前を一瞥して通り過ぎていく・・」
俊介の拳が震えていた。
「親父の代は、店に入ると土の匂いがして、山から採ってきた野薊や風知草が並んでいました。でも俺、借金が怖くて、親父のやり方を全部捨てて、効率のいい花ばかり並べたんです。その結果がこれです」
俊介は机に突っ伏した。
「売れ残った花が、ショーケースの中で綺麗に並んだまま萎れていくんです。夜、誰も買わなかった真っ赤なバラを毎晩ゴミ袋に詰めるとき、胸が張り裂けそうになる。あのバラは綺麗だけど、セロファンの匂いしかしない。花を捨てるたび、自分の魂までゴミ箱に放り込んでるような気がするんです・・!」
俊介の慟哭が、静かな店内に響いた。
「データ通りにやっているのに、一番売れるはずの花を並べているのに・・どうして、誰も足を止めてくれないんですか!」
芽依は唇を噛み、黙り込んだ。
アルゴリズムに間違いはない。
統計的には、それが最も需要の高い正解のはずだった。
けれど現実の店は、その正解のせいで息絶えようとしていた。
源蔵が急須から湯を注ぎ、湯呑みを俊介の前に置いた。
「飲め。腹を冷やすと弱気になる」
俊介は顔を上げ、湯呑みを受け取った。
香ばしい苦味が、喉を通っていく。
源蔵はカウンターの小窓を指差した。
古いガラス瓶に、薄紫の露草が一輪だけ挿してある。
派手な色はないが、瑞々しい佇まいが店内に凛とした涼を運んでいた。
「俊介」
源蔵が低く呼んだ。
「お前、いまの自分の店の花を見て、胸が躍るか?」
俊介は息を呑んだ。
「え・・?」
「毎朝届く花を見て、『いいな』って愛おしくなるか。どうなんだ」
俊介は言葉を失った。
視線が宙を泳ぐ。
「それは・・データで決まった売れ筋ですから。効率よく売るための商品ですから・・」
「訊いてるのは商品じゃねえ。お前の心だ」
源蔵は煙管に火をつけた。
紫の煙が立ち上る。
「お前自身が惚れてもいねえ花を、他人が金を出して欲しがるわけがねえだろうが」
俊介の身体が跳ねた。
「スーパーと同じ花を並べて、店主が死んだ魚のような目で突っ立ってる。そんな店で誰が花を買うんだ。花は生き物だぞ。命を売る場所に計算機を持ち込んでどうする」
源蔵は小窓の露草を見つめた。
「この露草を見ろ。石垣の隙間に勝手に生えてたやつだ。誰も肥料もやってねえし、品種改良もされてねえ。だが、なぜ目を引くか分かるか? ここで咲こうと、命を張ってるからだ」
源蔵は煙管の灰を落とし、俊介を見据えて言った。
「お前が好きな花だけ置け」
店内の空気が止まった。
芽依が立ち上がった。
「無責任です、源蔵さん!」
芽依の声に焦りが滲んでいた。
「好きな花だけ仕入れるなんて、ビジネスの自殺行為です! 需要のない花を置いたら、売上はゼロになり倒産します!」
「なら、数字の奴隷になって干からびるか?」
源蔵は芽依を見据えた。
「AIは平均値の需要は計算できるだろうよ。だがな、人の心を一突きにする『狂気』は計算できねえ」
源蔵は俊介に顔を近づけた。
「客はな、花を買ってるんじゃねえ。その花を選んだ人間の『目』を買ってるんだ。『こいつが惚れ込んだ花なら間違いない』ってな。正解の花なんざ、どこでも買える。だが、お前が愛した花はお前の店にしかねえんだよ」
源蔵は静かに言った。
「惚れた花と心中する覚悟で店を埋め尽くしてみろ。それで潰れたら、俺が葬式代くらい出してやる」
俊介の全身が震えていた。
恐怖と、心の奥底でずっと眠っていた熱い衝動が疼いた。
「・・俺の、好きな花」
俊介が呟いた。
「そうだ。誰が何と言おうと、お前が美しいと思う花だ」
俊介は立ち上がり、深く頭を下げた。
「・・やってみます。どうせ潰れるなら、最後に自分の愛した花で埋め尽くしてやります」
俊介の目に、確かな光が戻っていた。
エプロンを締め直し、足早に店を出ていく。
芽依は呆然と見送っていた。
一週間が過ぎた。
徹と芽依は、商店街の角にある『花正』の前までやってきていた。
芽依はタブレットを抱え、緊張した面持ちだった。
角を曲がった瞬間、二人は足を止めた。
そこには、まったく別の店が広がっていた。
画一的なバラやカーネーションは、一つもなかった。
店先を埋め尽くしていたのは、うねるような緑と、野趣あふれる植物たちだった。
しなやかに枝を伸ばす野茨。
風にそよぐ素朴な風知草。
青紫の実をつけた山葡萄の蔓。
足元には、苔むした溶岩石に植えられた小さな山野草が涼しげに並んでいる。
森の小道をそのまま切り取ってきたような空間だった。
濃い土の匂いと、青葉の瑞々しい香りが、夏の通りを満たしている。
店の奥では、俊介が夢中で作業をしていた。
汗だくになりながら、一本の野茨の枝を剪定している。
その横顔は、少年のように瞳が輝いていた。
通りがかった年配の女性が足を止めた。
「まあ・・珍しいわね。山葡萄かしら」
俊介がパッと顔を上げた。
「奥多摩の原種です! 秋になると実が黒くなって、朝陽に透かすと硝子細工みたいになるんですよ。裏側の産毛が風で銀色に光って、すごく綺麗なんです!」
少年のように熱っぽく語る俊介に、女性が笑った。
「素敵ね。あなた、本当に植物が好きなのね。玄関に飾るわ」
続いて、若い男が足を止めた。
病気の母親に見舞いの花を探しているという。
俊介は小さなリンドウの鉢を手渡した。
「リンドウはね、雨が降っても上を向いて咲くんです。派手じゃないけれど、静かな勇気をくれる花ですよ」
青年は胸を打たれたように頷き、その鉢を大切そうに抱えていった。
客が絶えなかった。
立ち止まる客の一人ひとりが、俊介の言葉に耳を傾け、愛おしそうに植物を抱えていく。
俊介の熱量が、植物を通して客に伝染していた。
「花を買う」のではなく、「俊介の愛した命を分けてもらう」ように、人々が笑顔になっていた。
芽依はタブレットを見つめたまま立ち尽くしていた。
画面には、需要確率三パーセントという過去のデータ。
「データには・・この人の熱量なんてパラメータ、どこにも入っていませんでした」
芽依の瞳に、日差しが反射していた。
「AIの需要予測は、過去の平均値しか計算できません。でも、人が心を動かされるのは平均値なんかじゃない。たった一人の偏愛と、圧倒的な熱量なんですね」
芽依はタブレットの電源を切った。
黒い画面に、初夏の青空が映る。
「敵わないな・・」
芽依は小さく笑った。
清々しい笑顔だった。
夕暮れ時、二人は『いっぷく庵』に戻ってきた。
小窓には一輪の露草が揺れている。
源蔵が二人に茶を出した。
「どうだった」源蔵が訊いた。
徹が笑って答えた。
「繁盛してましたよ。俊介さん、全身泥だらけで、すごくいい顔をしてました」
芽依は湯呑みを持ち、小窓の露草を見つめた。
「花は、自分から『私を買って』とは言えませんね」
源蔵が煙管に火をつけた。
紫の煙が夕暮れに溶けていく。
「花は黙って咲くだけだ」
源蔵は言った。
「だがな、それに惚れ込んだ人間の熱は、黙っちゃいられねえんだよ」
煙を吐き出し、窓の外の商店街を見る。
「人が人を動かすのは、いつだって言葉の正しさじゃねえ。その人間の奥にある、火の熱さだ。数字で冷え切った世の中に、火を灯すのが商売ってもんだろうが」
芽依は目を伏せ、お茶を口に含んだ。
熱い茶が、身体の芯に火を灯すようだった。
外の空が茜色から藍色へと移り変わっていく。
黙って咲く花のように、熱い想いは人から人へ伝わっていく。
徹は大きく息を吸い、前を向いた。




