第11話 AIの相談
夏の終わりの夕立が、静かに瓦屋根を濡らしていた。
激しい降りではない。
軒下から落ちる雫が、庭石のくぼみに小さな水たまりを作っている。
濡れた土の匂いと、冷めかけたアスファルトの微かな油の匂いが、湿った風に乗って店内へ流れ込んでいた。
『いっぷく庵』の土間には、客の姿は他にない。
奥の火鉢では、年季の入った鉄瓶がしゅんしゅんと細い湯気を上げている。
低く、一定の呼吸を刻むようなその音だけが、店内の静寂を縁取っていた。
板の間では、茶トラの混じった三毛猫が、前足を丸めて静かにまどろんでいる。
テーブル席には、徹と相川芽依が向かい合って座っていた。
芽依は今日、いつものかっちりとしたスーツを着ていなかった。
薄手の生成りのシャツに、細身のパンツ。
黒髪は後ろで無造作に束ねられている。
普段の理知的な佇まいを支えていた張り詰めた気迫は消え、その横顔には、徹がこれまで見たことのない深い疲労と迷いが滲んでいた。
テーブルの中央には、画面を点灯させたタブレット端末が置かれている。
液晶画面に表示されていたのは、芽依が開発リーダーを務めるAI研究所の、最新対話モデルの社内検証レポートだった。
『人間のフィードバックによる強化学習(RLHF)フェーズ4完了』
『ユーザー受容・共感度スコア:九十八・七パーセント』
『毒性・不快感発生率:ゼロ・〇一パーセント未満』
『シコファンシー(過剰な迎合)抑制アルゴリズム適用済』
エンジニアなら誰もが息を呑むような、非の打ち所のない完璧な数値だった。
社内でも絶賛され、世界中のカンファレンスで発表される予定の次世代対話モデル。
それなのに、芽依の指先は画面に触れることもなく、冷たく強張っていた。
徹は手元の冷茶を見つめ、静かに声をかけた。
「・・元気、ないですね。具合でも悪いんですか」
芽依は視線を上げないまま、小さく息を吐いた。
「徹さん。・・この対話ログ、読んでみてください」
芽依の指が画面を軽くタップし、端末を徹の前に滑らせた。
そこには、臨床心理のモニター実験として行われた、あるユーザーとAIの対話履歴が表示されていた。
ユーザー:『今日、医師から余命宣告を受けました。家族にもまだ言えていません。自分が消えてしまうのが怖くて、たまらないんです』
AI:『その告知を受けた瞬間の恐怖と孤独は、想像を絶するほど深いものでしょう。誰にも言えず、たった一人で耐えてこられたあなたの重荷を思うと、胸が痛みます。あなたの苦しみも、溢れる恐怖も、決して否定されるべきものではありません。いつでもここにいます。私に、その痛みを預けてください』
流れるように美しい、完璧な受容と共感の言葉だった。
人間の心理カウンセラーが何時間もかけて紡ぎ出すような、傷口を優しく包み込む文面。
モニターの評価欄には、満点の星五つとともに、震えるような感謝が綴られていた。
『AIだと分かっているのに、涙が出ました。誰よりも私の痛みを理解してくれた気がします』
「これを・・芽依さんたちのチームが作ったんですね」
徹が顔を上げると、芽依の瞳には深い絶望の色が浮かんでいた。
「何万件もの対話実験を繰り返しました」
芽依の声は、かすかに震えていた。
「心理学者や専門家に評価させ、『この返答は温かい』『これは冷たい』というフィードバックを大量に集めて、AIの報酬関数に組み込んだんです。そうやって、最も人間が救われたと感じる確率の高い言葉を、強化学習で極限まで研ぎ澄ませました」
芽依は自嘲するように口元を歪めた。
「社内では、奇跡のような成果だって言われました。機械が人間の心に寄り添い、痛みを理解できるようになったって。でも・・」
「でも、芽依さんはそう思っていない?」
徹が尋ねた。
芽依は顔を上げ、徹をまっすぐに見つめた。
その大きな瞳が、激しく揺れていた。
「このAIには、痛覚がないんです」
芽依が絞り出すように言った。
「病気の苦しみも、死の恐怖も、孤独の冷たさも、何ひとつ知らない。失うものなんて何もない安全なサーバーの中で、過去のデータから『最も共感度が高いとされる文字列』を確率的に出力しているだけなんです」
芽依は膝の上で両手をぎゅっと握りしめた。
「『あなたの胸の痛みが分かります』って画面に出るたび、私、吐き気がしてくるんです。何も感じていない機械が、傷ついた人間の心をお手軽に撫でて、救ったような顔をしている。これは共感なんかじゃない。ただの、よくできた詐欺なんじゃないかって・・」
店内に、重い沈黙が落ちた。
軒先からぽつり、ぽつりと落ちる雨垂れの音だけが響いている。
芽依はカウンターの奥に視線を向けた。
源蔵が背を向けたまま、布巾でゆっくりと板場を拭いていた。
「源蔵さん」
芽依が呼んだ。
その声は、助けを求める子どものように震えていた。
「AIは・・人間の痛みを理解できるんでしょうか。機械に、心なんて宿るんですか」
源蔵は手を止めなかった。
一定のリズムで布巾を動かし、蛇口をひねって冷水で洗う。
きゅっ、と布巾を固く絞る音が、静寂に響いた。
源蔵は濡れた手を前掛けで拭くと、ゆっくりと振り返った。
そして、カウンター越しに芽依を見据えて言った。
「人間同士だって、分からんよ」
芽依が息を呑んだ。
「え・・?」
「人間だってな、他人の痛みなんざ分かりゃしねえんだよ」
源蔵は平然と言い放った。
「分からんから、一緒に生きるんだろうが」
店内の空気が、ふっと止まった。
芽依は呆然と源蔵を見つめた。
「人間同士でも・・分からない・・?」
「当たり前だ」
源蔵は急須に茶葉を入れ、鉄瓶から湯を注いだ。
じょぼじょぼと心地よい湯の音が響く。
二つの湯呑みに注ぎ、ことん、と徹と芽依の前に置いた。
「お前が腹痛で七転八倒してるとき、隣にいる奴の腹が痛むか? 痛まねえだろ。お前が誰かを亡くして泣いてるとき、隣の奴の胸が同じように裂けるわけじゃねえ。他人の痛みが自分のものになることなんざ、神様だってありゃしねえよ。他人の痛みを完全に理解できるなんて思い上がるのは、ただの傲慢だ」
源蔵は煙管を取り出し、刻み煙草を詰めた。
マッチを擦り、紫の煙をふうと吐き出す。
「隣の奴ができるのはな、『痛そうだな』と想像して、背中をさすったり、白湯を持ってきたりすることくらいだ。相手の痛みが自分のものにならねえからこそ、恐る恐る顔色を見て、言葉を探して、不器用に寄り添おうとする。その迷いや、ぎこちなさの中にしか、人間の体温は宿らねえんだよ」
源蔵の言葉が、芽依の胸を深く突いた。
「お前が作ったその箱はよ」
源蔵はタブレットを顎でしゃくった。
「減点されねえための、綺麗な正解を並べてるだけだ。火傷もしねえ、血も流さねえ、痛がりもしねえ。そんな安全な場所から投げられた言葉で、生身の人間が本当に救われるとでも思ってるのか」
芽依は言葉を失い、俯いた。
膝の上の拳が、小さく震えている。
徹は手元の湯呑みを見つめ、静かに口を開いた。
「・・芽依さん。俺、記者をやっていて、最近よく思うんです」
芽依が顔を上げた。
「人間って、傷つきたくないのに失言してしまったり、余計なことを言って相手を怒らせたりしますよね。俺も、記事のネタにしようとして源蔵さんに怒鳴られたり、相談者を傷つけそうになったりばかりです」
徹は苦笑いした。
「でも、失言して後悔して、眠れない夜を過ごして、それでも『あの人の力になりたい』って足を運ぶ。その泥臭いやり直しの中にしか、本物の関係って生まれないんじゃないでしょうか」
徹はタブレットの画面を指差した。
「AIのRLHFって、要するに損失関数の最小化ですよね。減点されないためのクッションです。でも、クッションは痛みを吸収してくれても、一緒に泣いてはくれない」
「一緒に、泣く・・」
芽依が呟いた。
「はい」
徹は頷いた。
「AIが『胸が痛みます』と言っても、AIは明日死ぬ恐怖も、大切な人を失う絶望も背負っていない。リスクを背負っていない相手の言葉には、重みがないんです。人間が本当に救われるのは、完璧な正解をもらった時じゃなくて、自分と同じように不完全で、無力で、それでも隣で一緒に途方に暮れてくれる誰かがいた時なんじゃないでしょうか」
芽依の目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
生成りのシャツの上に、丸い染みがひとつ広がる。
「私、ずっと、怖かったんです」
芽依の声は震えていた。
「人間は傷つけ合うから。不完全で、曖昧で、理不尽だから。だからテクノロジーで、誰も傷つかない完璧な世界を作りたかった。誰もが正しく受容される、痛みのない正解を届けたかったんです」
芽依は涙を拭おうともせず、自分の両手を見つめた。
「でも、私がやろうとしていたのは・・人間から、生きている実感そのものを奪うことだったのかもしれない。痛みを消すために、心そのものを麻痺させようとしていた・・」
源蔵は煙管の灰をトントンと落とした。
そして、新しい湯呑みに熱い茶を注ぎ、芽依の前に押し出した。
「ほらよ。熱いうちに持ってみろ」
芽依は戸惑いながら、両手で湯呑みを包み込んだ。
「・・っ!」
思わず指を引っ込めそうになるほどの熱さ。
けれど、陶器の肌を伝わってくる強烈な熱は、冷え切っていた芽依の指先をじんじんと温めていった。
「熱いだろう」
源蔵が言った。
「油断すりゃ火傷する。だから息を吹きかけて、慎重に口をつけるんだ。痛みがあるから、人は熱さを知る。壊れる身体があるから、人は誰かを壊さないように加減を覚えるんだよ」
源蔵はカウンターに手をつき、窓の外の雨を見た。
その横顔に、ふっと深い影が落ちた。
遠い昔の、取り返しのつかない何かを見つめるような、静かな目だった。
「AIに心があるかどうか、なんざ知らねえ。だがな、失う恐怖を持たねえ奴に、命の重さは分からねえよ。痛がらねえ機械に、人の痛みを預けようとするな。そんな重てえ荷物はな、同じように泥水を啜って生きてる生身の人間にしか、背負えねえんだ」
源蔵の低い声が、雨音の混ざる店内に深く染み渡っていった。
芽依は両手で湯呑みを抱え直した。
熱い茶に唇をつけ、一口すする。
強烈な熱さと、深い渋み。
舌先が少し痺れるような刺激が、胸の奥までまっすぐに届いた。
「・・痛いです」
芽依が涙を浮かべたまま、小さく笑った。
「熱くて、痛くて・・でも、すごく美味しい」
源蔵は背を向け、やかんの火を小さくした。
「痛えのが生きてる証拠だ。機械なんかにその痛みを明け渡して、楽になろうとするんじゃねえよ」
芽依はタブレットの画面を見つめた。
そこには、依然として完璧なスコアが並んでいる。
芽依はその画面を、静かに消した。
暗くなったガラスに、夕暮れの光と、湯呑みから立ち上る白い湯気が映り込んでいた。
「私、会社に戻ったら、このモデルのリリースを延期してもらいます」
芽依の声には、迷いが消えていた。
「『痛みを理解するAI』なんて看板は下ろします。AIができるのは、ただの記録と整理だけだって。人間の痛みを本当に背負えるのは人間だけだって、チームの全員に伝えます」
徹は微笑んだ。
「きっと、大反対されますよ」
「ええ、大激論になると思います」
芽依は背筋を伸ばし、清々しい笑顔を見せた。
「でも、不完全な人間同士ですから。衝突して、迷って、やり直してみます」
雨が上がっていた。
雲の切れ間から、夕暮れの淡い光が差し込み、濡れた道路を茜色に染めていく。
ふと窓の外を見ると、測量機器を担いだ作業着の男たちが、商店街の路地を歩いていくのが見えた。
古い長屋が並ぶこの一帯にも、再開発の足音が確実に近づいてきている。
相談所を取り巻く空気にも、遠くない未来の終わりの気配が、微かに漂い始めていた。
けれど、徹の心に焦りはなかった。
人は分かり合えない。
痛みを完全に分かち合うことなど、誰にもできない。
けれど、分かり合えないからこそ、人は言葉を探し、手を伸ばし、隣に座り続けるのだ。
徹は冷めかけたお茶を飲み干した。
口の中に残るほろ苦さが、生きている確かな実感を感じさせた。




