第12話 相談禁止の日
九月の初め、街にはどこか乾いた秋の気配が混じり始めていた。
雲ひとつない青空の下、商店街の古い銀杏並木が、わずかに枝先を黄色く染めながら風に揺れている。
日陰に入ると、すっと汗が引くような涼しさが通り抜けていった。
徹は首に巻いた手ぬぐいで汗を拭いながら、いつもの路地を曲がった。
週に二度の『いっぷく庵』通いは、すっかり徹の生活のリズムに組み込まれていた。
今日も、源蔵の奇妙な相談風景を取材するつもりだった。
板塀の角を曲がった瞬間、徹は足を止めた。
いつもなら開け放たれているはずの木造の引き戸が、ぴたりと固く閉ざされていた。
藍色の暖簾も出ていない。
節穴の目立つ引き戸の真ん中に、段ボールの切れ端がガムテープで無造作に貼り付けられていた。
太い油性マジックで、乱暴にこう書かれている。
『本日、相談禁止。店主』
「相談禁止・・?」
徹は思わず声に出して呟いた。
引き戸の脇、軒下の木製ベンチには、大きなステンレスの魔法瓶と、形の不揃いな湯呑みが置かれていた。
その横にも、小さな厚紙が一枚。
『茶は勝手に飲め。話しかけるな』
徹は苦笑いを漏らした。
臨時休業ならそう書けばいいものを、わざわざ「相談禁止」と掲げ、お茶だけは外に置いておく。
相変わらず、偏屈なあの老人らしいやり方だった。
困惑しているのは徹だけではなかった。
軒下のベンチには、すでに先客が二人、所在なげに肩を並べて座っていた。
一人は、二十代半ばとおぼしき痩せ型の青年だった。
黒縁の眼鏡をかけ、リュックサックを膝の上に抱え込んでいる。
スマートフォンの画面を何度も点滅させては、焦燥感を隠せない様子で溜息をついていた。
もう一人は、五十代半ばの上品なブラウスを着た女性だった。
日傘を行儀よく膝の横に立て、落ち着かない様子で周囲を見回している。
綺麗に手入れされた手には、小さめのハンドバッグが握りしめられていた。
二人は互いに一言も交わさず、見知らぬ乗客のように微妙な距離を保って硬直している。
徹が近づくと、青年がすがるような目で顔を上げた。
「あの・・この店の人、中にいるんですかね?」
「ええ、気配からすると中にいるはずですが・・」
徹は引き戸の段ボールを指差した。
「でも、見ての通り『相談禁止』みたいですね」
「そんな・・」
青年はがっくりと肩を落とし、頭を抱えた。
「わざわざ有給取って、電車で一時間もかけて来たのに・・」
女性もまた、困り果てたように眉を寄せた。
「私も、ご近所の方から伺って・・どんな悩みでも聞いてくださる不思議な相談所があるって。どうしても今日、伺いたいことがありましたのに」
二人の切羽詰まった表情に、徹はベンチの端に腰を下ろし、魔法瓶から湯呑みにお茶を注いだ。
よく冷えたほうじ茶の香ばしい匂いが漂う。
「まあ、一杯どうですか。源蔵さんが淹れたお茶、味だけは確かですから」
徹は湯呑みを二人に差し出した。
二人は戸惑いながらも湯呑みを受け取った。
冷たいお茶を喉に流し込むと、強張っていた表情が少しだけ緩んだ。
「・・美味しいですね」
女性が呟いた。
「すごく香りが深くて・・胃のあたりが落ち着きます」
「ええ」徹は微笑み、二人に尋ねた。
「もし差し支えなければ、お二人はどんなことを相談しようとしていたんですか?」
青年は手元の湯呑みを見つめ、自嘲気味に呟いた。
「これからの人生をどうすりゃいいかですよ」
青年は健司と名乗った。
都内でフリーランスのウェブプログラマーをしているという。
「今、AIが全部やっちゃうんですよ」
健司の声には、吐き出すような焦りが滲んでいた。
「コードもデザインも、最新のAIなら僕が三日かかる仕事を数秒で終わらせる。クライアントからは『もっと安く、速く』と要求されて徹夜続きで・・。どれだけ頑張っても追いつけない。僕が積み上げてきた十年間の技術って何だったんだろうって」
健司の指先が膝のリュックをぎゅっと握りしめた。
「AIにキャリア相談をしたら、『上流工程に転向すべきです』『最新ツールの技術を習得しましょう』って、完璧な正論を返してくれました。でも・・それを読んだ瞬間、吐き気がしたんです。僕はただ、自分が作ることの喜びを取り戻したいだけなのに。このままじゃ自分という人間が、社会から不要な部品として捨てられるんじゃないかって、怖くてたまらないんです」
健司は息を荒げ、俯いた。
隣で聞いていた女性・・静子が、静かに口を開いた。
「部品・・そうですね。そのお気持ち、私にも少し分かる気がします」
健司が顔を上げた。
「え? あなたは、プログラマーじゃないですよね?」
「ええ、ただの主婦です」
静子は寂しそうに微笑んだ。
「ITのことは何も分かりません。でも・・『自分が必要とされなくなる恐怖』なら、痛いほど分かります」
静子はハンドバッグを撫でながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「去年の春、一人息子が就職して家を出たんです。夫は昔から仕事一筋で、家に帰ってもほとんど口を利きません。用事もスマホのメッセージで一言二言だけ。朝起きてお弁当を作る相手もいない。洗濯物を畳んでも、私の分と夫の分だけ・・」
静子の瞳に、涙が浮かんだ。
「二十年以上、家族のために尽くすことが私の生きがいでした。でも息子が自立した途端、私という人間が誰の役にも立っていないように思えて。AIスピーカーに『五十代の生きがい』って聞いてみたら、ボランティアだの趣味だの、何百件も丁寧にお勧めしてくれました。でも、どれを見ても心が動かないんです。アルゴリズムが分類した正解をこなして、私は一体誰に笑いかければいいのかしらって」
静子は俯いた。
「自分が世界から取り残されて、誰にも名前を呼ばれなくなるのが、怖かったんです」
乾いた秋風が吹き抜け、銀杏の葉が擦れ合う音が響いた。
健司は眼鏡を指で押し上げ、じっと静子を見つめていた。
その瞳から、先ほどの刺々しい焦燥感が消えていた。
「あの・・」
健司が躊躇いがちに言った。
「僕、実家の母親のこと、思い出しちゃいました」
「お母様・・?」
「はい」
健司は苦笑いした。
「僕も就職して家を出たとき、母から毎日のように連絡が来て、正直うっとうしかったんです。『ちゃんと食べてるの』とか『野菜送ろうか』とか。仕事で忙しいのに面倒で、スタンプ一つで済ませたり、既読無視したりしてました」
健司は手元の湯呑みを包み込んだ。
「でも、無視してたのは母さんが嫌いだったからじゃないんです。社会に出て、自分の無力さに打ちのめされて、毎日生き残るのに必死で・・母さんの優しさに甘えたら、自分が崩れてしまいそうだったからなんです」
静子が息を呑んだ。
「そう・・だったんですか」
「はい。母さんが作ってくれた味噌汁の味とか、畳んでくれたタオルの匂いとか、一人暮らしの部屋で思い出すたびに泣きそうになってました。母親がいらなくなった子どもなんて、この世にいませんよ。僕が今、AIに怯えながらも生きていられるのは、母さんが二十年間注いでくれた手間の記憶があるからです」
健司の言葉に、静子の目から涙がこぼれ落ちた。
ハンカチで目元を拭い、何度も頷く。
「ありがとう、健司さん。息子の無口な背中の向こうに、そんな気持ちがあったなんて・・私、思いもしませんでした。あの子に愛想を尽かされたんだって、勝手に閉じこもっていたんですね」
「僕の方こそ」健司は頭を下げた。
「静子さんの話を聞いて、ハッとしました。僕、AIに仕事を取られるのが怖いって騒いでましたけど、誰のために作っていたのかを忘れてたんです。効率よく稼ぐためじゃなくて、使う生身の誰かが『便利になったよ、ありがとう』って笑ってくれるのが嬉しかったはずなのに。画面の中の数字ばかり見て、人間の顔を見ていませんでした」
健司の顔には、柔らかな血色が戻っていた。
静子も穏やかに笑った。
「私、家に帰ったら息子に電話してみます。『元気ならそれでいいのよ』って、一言だけ伝えます」
「きっと息子さん、安心しますよ」
健司が微笑んだ。
二人は顔を見合わせ、自然に笑い合っていた。
鉛のように重かった悩みは、誰に解決されたわけでもないのに、不思議なほど軽やかに解きほぐされていた。
徹はその光景を息を潜めて見つめていた。
(・・そうか)
源蔵は、何もしていない。
店を開けず、助言も授けず、ただ『相談禁止』の札を出し、お茶を置いていただけだ。
それなのに、二人は救われた。
異なる世界で生きてきた二人が、同じ余白に座り、互いの不完全な痛みを差し出し合った。
AIの最適解でもない。
ただ、目の前の誰かの不器用な言葉に耳を傾け、自分の痛みを重ね合わせた瞬間、二人は自分自身の力で出口を見つけ出した。
ガララッ。
引き戸が荒々しく開き、竹箒を持った源蔵が仏頂面で現れた。
「おい、お前ら」
だみ声が路地に響く。
「いつまで人の店の前で油売ってやがる。箒で掃き出すぞ」
健司と静子は驚いて立ち上がった。
「あ、すみません! お茶、ごちそうさまでした!」
「大変美味しゅうございました」
二人は深々と頭を下げ、互いに「お元気で」「あなたも頑張ってね」と温かい言葉を交わして、明るい日差しの中へ歩いていった。
その背中は、見違えるほど凛としていた。
徹は箒を動かし始めた源蔵に歩み寄った。
「・・最初から、これが狙いだったんですか? 二人が話し始めるのを待っていたんじゃ」
源蔵は鼻を鳴らし、落ち葉をちり取りに入れた。
「馬鹿野郎。朝から腰が痛くて相手をしたくなかっただけだ」
「嘘ばっかり」
徹は苦笑いした。
「でも、分かりましたよ。この相談所の本当の役割が」
徹は取材ノートを握りしめた。
「現代人はみんな答えを急ぎすぎています。悩んだらスマホを開き、AIに尋ねて一秒で最適解を手に入れようとする。でも、答えを機械からもらうことに慣れすぎて、人間は『自分で考える力』と『人と関わる力』を失いかけている」
徹は源蔵を見つめた。
「いっぷく庵は、答えを出す場所じゃなかったんですね。ここは・・人と人を結びつけて、立ち止まって考えるための『余白』だったんだ」
源蔵はちり取りを置き、天を仰いだ。
細められた瞳には、からかいと呆れが混ざっていた。
「勝手に理屈をこね回すな、青二才が」
源蔵は舌打ちをした。
「人間は自動販売機じゃねえんだよ。百円玉を突っ込んだら缶ジュースが出るみたいに、悩みを喋ったら正解が転がり出ると思ってやがる。そんなお手軽な答えを欲しがる奴に、ろくな人生は送れねえ」
源蔵は煙管を取り出し、トントンと雁首を叩いた。
「人間が本当に救われるのはな、正解をもらった時じゃねえ。自分の頭で悩んで、他人の痛みに触れて、『ああ、俺は一人じゃなかったんだ』って腹の底から腑に落ちた時だけだ。そのための時間が要るんだよ。息を抜くための、間がな」
源蔵は引き戸の段ボールを引き剥がし、丸めてゴミ箱に放り込んだ。
「ほら、突っ立ってねえで入れ。冷めた茶の始末くらい手伝え」
「はい!」
徹は返事をして、引き戸をくぐった。
店内には鉄瓶の湯気と、畳の匂いが満ちていた。
板の間では三毛猫が目を覚まし、ゆっくりと伸びをしている。
最適解のない世界で、人は迷い、立ち止まる。
けれど、そこに余白とお茶がある限り、人間は何度でも他者と出会い、自分の足で歩き出すことができる。
徹は手帳に大きく、『余白の力』と書き留めた。
その文字は、西日の差す土間で、確かな輪郭を持って輝いていた。




