第18話 第四話・第二章『サトウは数字の意味を知る』ー見落とされた兆候
サトウは数字の意味を知る 第二章 見落とされた兆候
黒川の指示
黒川部長は、厳秘と朱印が押されたメンタル検査結果を再読し、深く息を吐いた。
中林敦雄 -営業部の三本柱の一人。誠実で、数字に強く、部下からの信頼も厚い。
その彼が、基準値をはるかに超えるストレス反応を示している。
黒川は内線電話で三枝を自室に呼んだ。
「三枝課長、今月実施した中林のメンタル検査結果が前回より悪化している。
昨年の検査結果をもとに、君に中林の定期的な見守りと面談を命じたな。
彼の状態に気づかなかったのか? 面談記録を見せてみろ」
三枝は一瞬だけ眉をひそめた。
「……わかりました。
現在、アリーナでのイベントの手伝いに手を取られています。本日中にお送りします」
その返事はどこか上の空だった。
黒川は違和感を覚えたが、イベント準備が忙しいという三枝の言い訳に押され、深追いはしなかった。
この判断が、後に黒川自身を苦しめることになる。
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三枝の「指示」
三枝は、現在進行しているイベントの体制が面白くなかった。
本来、課長である自分がイベントの責任者であるべきだった。
しかし黒川部長は、三人いる課長代理の最年少の美咲を責任者に指名し、三枝自身と中林、ワンの三人を彼女のサポート要員とした。
黒川の意向は、三枝たちが担当している職務を優先しつつ、美咲への補助的支援を求める程度だった。
だが三枝本人は、自分の顧客対応があるにもかかわらず、美咲の支援まで求められ、不満が溜まっていった。
三枝の心には黒い憎悪の塊ができていた。
黒川から昨年、中林のメンタル面のサポートを命じられた。
管理者として部下の監督は仕事のうちと理解していたが、メンタル面のサポートなど面倒なことだと感じていた。
三枝は、中林と第三者を入れず、月一回程度の面談を行っていた。
その中で三枝は、中林は優秀だが生真面目で融通がきかない男だと感じた。
中林の担当する顧客の数は他の課長代理と大差ないが、難しい顧客が多かったのは偶然だった。
それが次第に中林の精神を蝕んでいることに三枝も気づいていた。
しかし三枝は、中林の仕事を見直し負担を減らすことはせず、放置していた。
中林の負担を減らせば、三枝達がそれを被らなければならない。余分な戦力は無いのだ。
中林の仕事の質が落ち始めたのは、面談が始まって二ヶ月後だった。
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住宅設備増設の見積書の件
その日、三枝は中林が作成した住宅設備増設の見積書を見て激怒した。
増設設備を工事する業者が、三枝の命じた業者ではなかったからだ。
「中林、なぜA工務店を使わない?
俺の指示を忘れたのか?」
中林はしどろもどろになりながら答えた。
「黒川部長より、今回の増設設備で契約する業者は相見積もりを取るよう命じられました。
そ、その結果、B建設事務所に決定しました。
A工務店の見積もりは、B建設事務所や他の入札業者より三割も高額で、競争自体無理がありました。」
「おまえは誰の指示で動いている? おまえの直属上司は俺だ!」
「し、しかし、入札は終わりました。結果は曲げられません。」
中林は勇気を振り絞って反論した。
「課長のご指示がありましたが、部長の指示を優先しました。それに、経理の契約担当からも……」
「契約担当? なんで奴らが、おまえに何を言った?」
「A工務店は手抜き工事や契約違反があり、近々取引停止にする予定だそうです。
ですから……」
「もういい! 好きにしろ。おまえの契約決裁が回ってきても、俺は承認しないからな!」
三枝はそう言い捨て、中林を下がらせた。
「くそ、黒川部長の差し金か。それに経理まで俺の邪魔をするのか……」
三枝とA工務店の関係は癒着と言えた。
長年、三枝は自分の担当する工事にはA工務店を指名し、見積金額を水増しさせバックマージンを得ていた。
黒川と中林に、それを邪魔されたのだ。
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中林の困惑
中林は三枝の席から戻り、決裁システムの稟議過程を確認した。
起案した中林 → 三枝課長 → 黒川部長という承認プロセスだが、案の定、三枝は承認せず放置していた。
中林は焦燥感に駆られ、爪を噛んだ。
三枝が承認しない限り、決裁は完了しない。
その背後から、心配そうにワン課長代理が声をかけた。
「中林君、決裁が終わらないのか? 僕もそうなんだ。三枝課長が先ほど外出してしまった」
三枝は本気で決裁から逃げたのだ。
ワンは中林の背後から静かに離れていった。
どこか余裕のある足取りだった。
中林は自分の起案した決裁が進まないことで頭がいっぱいだった。
ふと、ディスプレイの決裁システムの通信欄にメッセージが入っていることに気づいた。
中林はメッセージを開いた。
それは、経理担当のサトウからだった。
『中林さん、この第XXXX番の決裁ですが、添付された見積書を確認したところ、本文の一箇所と齟齬があります。錯誤と思われますので、至急引き戻して修正後再起案してください。
なお、決裁期日が迫っていますので、修正箇所を経理が確認後、最終決裁者へ稟議が届くよう、代行決裁を依頼してください。』
中林は文面を読み終えると、ぼやけた頭が鮮明になった。
そうか――。
三枝が外出したとワンが言った時は、目の前が暗くなった。
だが、サトウのメッセージで冷静さを取り戻した。
中林はすぐに決裁を引き戻し、誤りを修正した。
そして何度も本文と見積書を照合し、再起案した。
中林は、黒川部長に「三枝課長が外出中のため、代行決裁をお願いします」と連絡した。
サトウは、その起案が上がると直ちに経理の「確認済み」として稟議を回した。
黒川は、すぐに決裁システムにアクセスし、経理のチェック済みを確認した。
そして代行決裁のボタンを押し、三枝のプロセスを飛ばして最終承認を与えた。
ワンの思惑
ワンは、中林の席に近づく少し前、三枝課長と面談していた。
三枝は、ワンが担当するホテルの内装工事とソファ等の調度品を納入するための契約決裁をチェックしていた。
三枝が内装工事の見積書を見て、ワンに尋ねる。
「この内装工事の担当業者だが......A工務店だが見積額が低いな」
「はい、三枝課長。今回の工事は、基礎工事だけの見積もりです。ホテルの”要望”で、期間を変えて、追加工事を行います。
その時点で改めてA工務店から見積もりをとり、発注する予定です。今回の決裁は、追加工事を含めて総額を稟議するため、追加工事時点で再決裁は必要ありません」
ワンがそう答えると、三枝は満足そうに頷いた。
「ワン、さすがだ。私の意図をよく理解している。中林にお前の爪の垢を飲ませてやりたいものだ。
俺は今から外出する。戻り次第承認するから決裁を起案しておけ」
三枝は、ワンに手を振り得意先に出かけると言い捨て、外出した。
ワンは、三枝の後ろ姿をしばらく見つめたのち、中林のデスクに近寄った。
「中林君、決裁が終わらないのか? 僕もそうなんだ。三枝課長が先ほど外出してしまった」
あとがき
第18話に出た用語を解説します。
用語解説一覧
1. 朱印
解説: 朱肉(赤いインク)を使って押された、重要な印鑑やスタンプのこと。
中学生でもわかる例:
学校から配られるプリントに、大きな赤いハンコで「保護者用」「重要」と押してあるのを見たことがあると思います。あの赤いスタンプのことです。「絶対に他の人に見せてはいけない」という強い警戒を示すために、目立つ赤色で押されています。
2. 相見積もり(あいみつもり)
解説: 複数の業者に同じ内容の見積書(金額の一覧)を出させ、値段やサービス内容を比べること。
中学生でもわかる例:
クラスTシャツを作る時に、A社・B社・C社の3つの業者に「同じデザインで30枚作ったらいくらになるか」を聞いて比べることです。1社だけに頼むと損をするかもしれないので、一番安くて丁寧なところを選ぶために行います。
3. バックマージン
解説: 特定の業者を贔屓して仕事を回す見返りに、裏でこっそり受け取る不正なお金のこと。
中学生でもわかる例:
給食のパンを買うお店を決める時に、委員長が「Aパン屋にしてくれたら、僕にだけ毎日お小遣いを100円くれるって言われたからAパン屋にしよう」と裏でお金をもらう行為です。ずるをして自分だけが得をする悪事です。
4. 稟議
解説: 会社で買い物や契約などの決定を行うために、書類を作成して関係する上司たちに順番に回し、承認(OK)をもらう手続きのこと。
中学生でもわかる例:
文化祭で新しい準備物を出したい時に、実行委員が計画書を書き、部活の顧問の先生 → 学年主任の先生 → 校長先生へと順番に書類を渡して「これでOKです」というサインを一つずつ集めていく仕組みのことです。
5. 起案
解説: 会社で許可をもらうための申請書類(稟議書)を、一番最初に作成して提出すること。
中学生でもわかる例:
「球技大会のルールを変えたいです」という提案書を、一番最初に紙に書いて提出する最初のステップのことです。
6. 引き戻し(ひきもどし)
解説: 提出・申請した書類に間違いがあった時、上司のチェックが終わる前に、一度自分の手元にキャンセルして回収すること。
中学生でもわかる例:
提出箱に宿題を出した直後、「あ、名前を書き忘れた!」と気づいて、先生が採点し始める前に一度自分の机に持ち帰って書き直すことです。
7. 代行決裁
解説: 本来承認する立場の人(上司など)が不在の時に、代わりに別の上の立場(さらに上の上司など)の人が承認すること。
中学生でもわかる例:
部活動の練習計画に担任の先生のサインが必要なのに、先生が出張でいないため、代わりに教頭先生が内容を確認して「私が代わりにサインしておくね」とOKを出すことです。




