第一章 『またあとで』その四
授業が終わって校舎を出ると、階段の近くに水野さんがいた。
人が多い。
水野さんは壁際でスマホを見ていて、その前を何人もの学生が通り過ぎていく。
最初に目に入ったのは、服だった。
クリーム色。
昨日の写真で、左にあったほう。
足が少しだけ遅くなった。
写真に写っていたのは、ベッドの上に平置きされた服だった。
色と襟元は分かっても、実際に着たらどうなるかは、ほとんど想像するしかない。
昨日は、クリーム色だと少し淡すぎるかもしれないと思っていた。
でも実際に着ているのを見ると、むしろちょうどいい。
襟元と髪、それに今日のメイクまで合わさると、写真で見たときよりずっとまとまって見えた。
やっぱり右よりこっちだ。
それに、本当に着てきた。
昨日もう「じゃあ明日は左にする」と言っていたんだから、別に驚くようなことじゃない。
それでも、もう一度見た。
視線に気づいたのか、水野さんが顔を上げる。
すぐに私を見つけた。
「高瀬さん」
スマホをしまって、こっちへ歩いてくる。
また服に目がいった。
「本当に着たんだ」
水野さんが一瞬きょとんとして、自分の服を見る。
「高瀬さんが選んだんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ何に驚いてるの?」
少し考える。
別に、驚いているわけでもない。
昨日はただ、二つのうちどっちがいいか聞かれて答えただけだった。
今こうして、その答えを実際に水野さんが着ているのを見ると、画面越しに選んだときとは少し違う。
「驚いてない」
「じゃあ何?」
もう一度見る。
「選んで正解だった」
水野さんが二秒くらい私を見る。
「それ、私を褒めてるの? 自分を褒めてるの?」
「両方」
水野さんが笑った。
「よく言うね」
「だって正解だったし」
「はいはい。高瀬さんの勝ち」
本人が認めたなら、本当に私の選び方がよかったということでいい。
少し緩みかけた口元を戻して、それ以上は言わなかった。
水野さんが袖口を整える。
あれだけ上から下まで見られたら、私でも少し気になると思う。
もう何も言わなかった。
どうしてこっちを選んだのかは昨日もう話した。
これ以上言っても同じことになる。
一緒に階段を下りる。
「次、何時から?」
「二時四十分」
「私も」
「どの棟?」
水野さんが、ここからそれほど離れていない建物の名前を言った。
私とは違うけれど、途中までは同じ方向だ。
「今からどこ行くの?」
「生協。ちょっと買うものあるから」
「じゃあ私も見ていこうかな」
そう言って、そのまま一緒に外へ出た。
校舎を出たところで、あとから気づく。
さっき、どちらも「一緒に行く?」とは聞かなかった。
水野さんが行き先を聞いた。
私が答えた。
気づけば、隣を歩いていた。
そのとき、横から水野さんを呼ぶ声がした。
「紫苑」
水野さんが止まる。
知らない女子だった。
「次の授業、行くよね?」
「行くよ。どうしたの?」
「グループで、今日先生が出席取るかもって言ってる人いて」
「ほんと?」
「分かんない。だから聞いてる」
「じゃあ余計行かないと」
「この前もそう言って、結局遅刻しかけたじゃん」
「あれは不可抗力」
「紫苑、毎回理由あるよね」
水野さんが笑いながら何か言い返す。
二人の会話は速かった。
全部説明しなくても、どのときの話なのかお互い分かっている。
私は、その「この前」がいつなのか知らない。
水野さんが遅刻しかけたときに何があったのかも知らない。
別に、知る必要のあることでもない。
それでも横で聞いていると、少しだけ気になった。
水野さんがその子と話している感じは、私と話しているときとは少し違う。
どっちがいいとかじゃない。
ただ、すごく慣れている。
私の知らないことが、二人の間ではもういくつも起きている。
最後に、その子がこっちを見た。
水野さんも私のほうを向く。
「友達の、高瀬さん」
ちょうど頷こうとしていた動きが、半拍遅れた。
友達。
今まで、誰かに聞かれたら水野さんが私のことを何と呼ぶのか、考えたことがなかった。
それを今、水野さんはすごく自然に言った。
最初からそこにあったものに、今になって名前がついたみたいだった。
「こんにちは」
相手が先に笑って挨拶する。
「こんにちは」
返してからも、意識がまださっきの一言に残っていることに気づいた。
水野さんはもう、その子と何か一言話していた。
ほどなくして、その子は先に行った。
「ごめん、待たせた」
「そんなに待ってない」
「行こ」
「うん」
また生協へ向かって歩き出す。
何歩か進んだところで気づいた。
さっき「友達」と言われたとき、最初に感じたのは驚きじゃなかった。
今まで特に考えたことのなかったことを、誰かに先に言葉にされた感じだった。
しかも、嫌じゃなかった。
* * *
生協に入ると、私はそのまま文房具売り場へ向かった。
水野さんもしばらくついてきたけれど、すぐ横の棚に気を取られた。
「私、ちょっとあっち見てくる」
「うん」
別の列へ曲がっていく。
いつも使っているノートを見つけて、替え芯も一袋取った。
「いつも同じの買うんだ?」
横から声がした。
振り向く。
いつの間にか水野さんが戻ってきていた。
「だいたい」
「ノートも?」
「これ使いやすいから」
私の手元を見て、それから隣に並んでいるほかの種類を見る。
「私、使ったことないの見ると試したくなるんだよね」
「使いにくかったら?」
「次また別のにする」
「面倒」
「でも、今のより使いやすいかもしれないじゃん」
「私はわざわざ変えない」
水野さんが、私の持っているノートを見る。
「じゃあ高瀬さんって、一回使いやすいの見つけたら本当にあんまり変えないんだ」
「うん」
隣にあったノートを一冊手に取る。
三、四ページめくって、また閉じて棚へ戻した。
さっきは新しいものを試したいと言っていたのに。
これは買わないらしい。
一度見る。
もう別のものを見ていた。
しばらくして、少し離れたところから声がする。
「高瀬さん」
棚を回り込む。
水野さんは、小さな付箋を二つ持っていた。
一つは無地の薄いグレー。
もう一つには、妙な顔をしたキャラクターが描かれている。
「どっち取ると思う?」
二秒見る。
「グレー」
ほとんど間を置かず、もう片方を持ち上げた。
「はずれ」
「へえ」
「こっち」
その顔を見る。
「これ好きなの?」
「かわいいじゃん」
「どこが?」
「なんか、すごい間抜けな顔してない?」
「だから?」
「だからかわいい」
やっぱり分からない。
でも、水野さんが好きならそれでいい。
「じゃあ私が外した」
水野さんは付箋を見ていたけれど、その言葉で顔を上げた。
「それだけ?」
「ほかに何があるの?」
すぐには答えなかった。
「グレーのほうが私っぽい、とか言うかと思った」
「私はグレー選ぶと思った」
「うん」
「でも違った」
「うん」
「じゃあ、私が外しただけ」
少し黙る。
「高瀬さんって、こういうところすごくあっさりしてるよね」
「外したら、それ以上何するの?」
少しのあいだ私を見ていた。
「別に」
口元がゆっくり上がる。
「それでいい」
その付箋をかごに入れた。
もう一度見る。
やっぱり変な顔だと思う。
* * *
――私が外しただけ。
高瀬さんがあまりにもすぐ言うから、かえって少し考えた。
私はもう、
「でも、こういうの選ぶタイプじゃなくない?」
とか、
「グレーのほうが水野さんっぽいのに」
とか、そんな言葉が続くのを少しだけ予想していた。
でも、何もなかった。
私が答えを出したら、高瀬さんは自分の予想をそれ以上引っ張らなかった。
別に、人に当てられるのが嫌いなわけじゃない。
何を食べそうか。
どっちを着そうか。
二つあったら、どっちを先に取るか。
当てられれば、ちょっと嬉しい。
少なくとも、その人が自分を見ていたということだから。
外れても、それ自体は何とも思わない。
ただ、外したあとで昔の私を持ち出してくる人がいる。
前はこういうの好きだったじゃん。
こっちのほうが水野さんっぽくない?
最後には、相手が外したんじゃなくて、今日の私が急に自分らしくないものを選んだみたいになる。
あれは少し面倒だった。
高瀬さんは、そうしなかった。
私がこっちだと言ったら、それで終わり。
あまりにもあっさりしていたから、もう一回聞いてみたくなった。
ちょうど隣に、二種類のクリアファイルがある。
一つは柄が多め。
もう一つは、かなりシンプル。
二つとも手に取る。
「じゃあ、これは?」
高瀬さんが見る。
「また当てるの?」
「違う。今度は本当に、どっちがいいか聞いてる」
手を伸ばして、二つとも受け取った。
すぐには答えない。
片方を見て、もう片方に持ち替える。
高瀬さんは、こういうとき本当にちゃんと見る。
返事をするためだけに、適当にどちらかを指したりしない。
昨日、服を選んでもらったときもそうだった。
ただどっちがいいか聞いただけなのに、あれだけ真面目に見られると、こっちまで答えを待ってしまう。
「右」
「なんで?」
「左、ちょっと要素多い」
「ごちゃごちゃしてる?」
「そこまでじゃないけど」
私のかごに入っている、さっきの付箋を見る。
「これがもううるさいから、ファイルまで左だと多い」
自分のかごを見る。
「じゃあ右?」
「私なら右」
二つとも返された。
もう一度比べる。
もともと、どちらでもよかった。
最後に右をかごへ入れた。
顔を上げると、高瀬さんはもう自分の買い物に戻っていた。
結局どっちを選んだのか、確認もしない。
聞けば、本当に考えてくれる。
でも答えたあとは、もう私がどうするかには口を出さない。
こういうの、いい。
かごに入れたファイルを見る。
次にまた何か迷うことがあったら、たぶん最初に高瀬さんが浮かぶ。
指でファイルをかごの底へ少し押してから、次の棚へ向かった。
* * *
会計へ行く前に別の棚を通ると、妙な生き物が印刷された修正テープがあった。
ちょっと間抜けな顔をしている。
水野さん、こういうの好きそう。
そう思ってから、手に取った。
持ち上げると、見せたら何を言うかまで浮かんできた。
周りを見る。
水野さんはいない。
スマホはポケットに入っている。
写真を撮って送ってもいい。
でも、同じ店にいる。
さっき向かったほうを探しに行った。
棚を二列回って、ペンケースのところで見つける。
「水野さん」
振り返った。
「ん?」
修正テープを差し出す。
「これ」
水野さんが下を見る。
二秒くらい黙った。
「……何これ、ぶさいく」
やっぱり。
「うん」
もう一度見る。
「でもかわいい」
さっき頭に浮かんだ通りだった。
考えるより先に、笑い声が出た。
「何?」
水野さんが顔を上げる。
まだ少し止まらない。
「当たった」
「何が?」
「本当に最初にぶさいくって言って、そのあとかわいいって言った」
「そんなに面白い?」
考える。
修正テープ自体は面白くない。
今の言葉も、別に面白くない。
「分かんない」
言ってから、また少し笑った。
さっきの付箋は外した。
今度は当たった。
それだけだ。
でも、水野さんが本当に想像した通りの反応をすると、妙に得意な気分になった。
手に持っている修正テープを見る。
こういうの、本当に好きなんだ。
覚えておこう。
* * *
高瀬さんが急に声を出して笑ったから、少し驚いた。
普段だって笑わないわけじゃない。
ただ、だいたい短い。
少し口元が動くとか、小さく声が出るとか、それですぐ終わる。
今のは違った。
先に目元が緩んで、それから声が出た。
手に持っていた修正テープのことまで、一瞬忘れた。
「そんなに面白い?」
少し考える。
「分かんない」
それなのに、また少し笑った。
本当に面白いときは、こんなふうに笑うんだ。
二秒くらい見ていた。
そこで、別のことに気づく。
「ていうか、これ見せるためにわざわざ私探しに来たの?」
「ほかに何があるの?」
当たり前みたいに返ってくる。
「写真送ればいいじゃん」
「水野さん、ここにいるし」
一度止まった。
「それに、当たった」
まだそこを喜んでいるらしい。
私まで少し笑いたくなった。
高瀬さんは、私のことを少し分かったと思えたとき、本当に嬉しそうにする。
不思議なのは、自分でも特に言葉にしたことのない好みをこんなふうに覚えられても、嫌な感じがしないことだった。
外したときは、自分が外したと言う。
当たったときは、こんなに喜ぶ。
少し高瀬さんを見てから、手元の修正テープへ視線を落とした。
「ちょっと高い」
「本当に買うの?」
「買わない」
もう一度見る。
「でも、やっぱりかわいい」
「ぶさいくなのに」
「両立するから」
棚へ戻す。
二歩くらい進んでから、やっぱりあの顔は間抜けだなと思って、もう一度振り返った。
前を向くころには、自分でも笑っていた。
まあ。
こういうの、たぶん本当に好きなんだと思う。
* * *
買い物を終えて、出口近くの席に座った。
次の授業までは、まだ少し時間がある。
水野さんが買ったものを出して整理している。
さっきの付箋もテーブルの上に置かれた。
一度見る。
すぐ気づかれた。
「もう何も言わないで」
「何も言ってない」
「顔に出てる」
「分かる?」
「分かる」
付箋をペンケースへしまう。
私は買ったばかりのノートを出して、次の授業に使うものを整理した。
しばらくすると、テーブルの上は静かになった。
水野さんはいくつかメッセージを返したあと、自分のノートを出した。
隣のテーブルでは誰かがレポートの話をしている。
少し離れたところから大きな笑い声がする。
途中で、椅子を引きずりながら誰かが通った。
私たちは話さなかった。
何ページか読む。
途中で、水野さんが聞いた。
「今何時?」
スマホを見る。
「あと十数分」
「そっか」
また下を向く。
私も続きを読んだ。
一ページめくったところで、もうしばらく話していないことに気づいた。
まだあまり親しくない人と一緒にいると、会話が止まったときは多少気になる。
何か話したほうがいいのか。
それとも、相手はもう自分のことをしたいのか。
それを考えるだけでも、たまに面倒だ。
でも、今は全然考えていなかった。
水野さんは自分のことをしている。
私は私で読んでいる。
普段はよく喋るのに、喋らない水野さんと一緒にいても、間に何か足りないような感じはしなかった。
またノートに目を落とす。
隣から、ちょうどページをめくる音がした。
しばらくして、時間を見る。
「そろそろ」
水野さんが顔を上げる。
「行く?」
「うん」
荷物を片づけ始める。
さっきのクリアファイルも、鞄に入った。
ファイルの柄を見て、私が選んだ右のほうだったと思い出す。
昨日は服。
今日はこれ。
水野さんがファイルを鞄に入れて、ファスナーを閉めるまで見てから、自分のものを片づけた。
次にまた別のものを持ってきて聞かれたら、たぶん今日と同じようにちゃんと考えると思う。
一緒に休憩スペースを出た。
次の校舎の前で分かれる。
「私こっち」
水野さんが別の道を指す。
「うん」
鞄を肩へかけ直した。
「じゃ、行くね」
「うん。またあとで」
もう向こうを向きかけていた水野さんが、振り返った。
「うん、またあとで」
今度こそ歩いていった。
私も自分の教室へ向かう。
あとで何をするのかは、どちらも言っていない。
しばらく歩いても、振り返って確かめることはしなかった。
ただ、「またあとで」という言葉だけが残っていた。
* * *
教室に着いても、まだ先生は来ていなかった。
席に座って、新しいノートを机に置く。
スマホを取って、通知を見る。
いくつか名前が並んでいた。
水野さんはいない。
そこで、視線が少し止まった。
それからスマホを鞄へ戻す。
先生はまだ来ていない。
ノートを開く。
しばらくして、ようやく最初の一行が頭に入った。
もう一度スマホを取り出すことはしなかった。
* * *
教室に入って、荷物を一つずつ出した。
最後にクリアファイルが鞄から滑り出る。
右のほう。
それを見て、高瀬さんが棚の前で二つとも手に取って、本当にしばらく見比べていた姿を思い出した。
その隣には、間抜けな顔の付箋。
でも、先に浮かんだのは付箋じゃなかった。
さっき急に笑い出した高瀬さん。
普段はあんなに簡単には笑わないのに。
私が何を言うか当てただけで、あんなに嬉しそうだった。
何がそんなに嬉しいのか、やっぱりよく分からない。
でも、あの顔を思い出すと、こっちの口元まで少し緩んだ。
スマホはすぐ横にある。
手に取る。
トークの最後は、まだ昨日の夜のままだった。
今は別に、どうしても送るものはない。
曲もない。
写真もない。
どっちの服がいいか聞きたいわけでもない。
それなのに、指はもう高瀬さんの名前を開いていた。
しばらく入力欄を見る。
まだ、何を送るかは思いついていない。
それでも、すぐには閉じなかった。




