第一章 『またあとで』その三
あの店に行った翌日の夜、シャワーを浴びて、ドライヤーとブラシを引き出しから出した。
濡れた髪が背中に張りついて、いつもより重い。
まずタオルでゆっくり押さえて、水気を取る。
毛先から水が落ちなくなってから、机の前に座った。
長い髪は濡れると、いくつかの束にくっつきやすい。指で真ん中から少しずつ分けて左右に寄せ、毛先の近くで絡んでいるところをブラシで梳かす。
面倒でも、ここは省けない。
いきなりドライヤーで適当に乾かしたら、最後には全部絡まる。
そうなったら、余計に時間がかかる。
ヘアケア用品を手元に置いて、スマホは机の端に立てかけて音楽を流した。
ドライヤーをつけると、部屋のほかの音はすぐに聞こえなくなる。
右側がだいたい乾いたところで風を止めて、もう一度髪を分け直す。
部屋が急に静かになった。
ちょうど曲が変わる。
イントロに少し聞き覚えがあった。
画面を見る。
水野さんが数日前に送ってきたバンドだった。
最初に送ってもらった曲は、もう何度か聴いている。
そのまま流しておいてもよかったのに、スマホを手に取ってバンドのページを開いた。
まだ聴いたことのない曲がいくつも並んでいる。
上から適当に一曲選ぶ。
一曲目は途中で飛ばした。
二曲目はそのまま聴いた。
前半は悪くない。
ギターとボーカルの間に少し空間があって、聴きやすかった。
でも、サビに入った途端、ドラムと後ろに重なる音がその隙間を一気に埋めた。
悪いわけじゃない。
ただ、前のほうが好きだった。
最後まで聴いて、お気に入りには入れなかった。
三曲目がサビの少し前まで進んだころには、もう一度ドライヤーを手に取っていた。
そこで、ボーカルが一瞬止まった。
代わりにギターがメロディを引き継ぐ。
数拍してから、また歌が入った。
ドライヤーを机に戻す。
再生位置を少し戻した。
もう一度聴く。
二回目はサビに入る前に、お気に入りを押した。
指が、その横の共有ボタンで止まる。
最初に浮かんだのは水野さんだった。
別におかしくない。
このバンドを教えてくれたのは水野さんだ。
この曲もたぶん知っている。
知らなくても、少なくとも何の話をしているかは分かる。
ほかの誰かに話すより、水野さんに送るほうが早い。
共有する。
> この曲もいい
スマホを机の端に戻して、ドライヤーを持った。
一束を少し乾かしたところで、画面が光る。
もう指はスイッチに触れていた。
まだ濡れている毛先を見る。
結局、止めなかった。
ここだけ先に乾かす。
手に取った束から湿った感じがなくなってから、ようやく風を止めた。
水野紫苑。
> これ?
> 私も好き
その二行を見る。
やっぱり水野さんも好きなんだ。
さっきのところまで再生位置を戻した。
> サビ前のところのほうが好き
すぐに返事が来る。
> 私はライブ版のほうが好き
> そんなに違う?
今度は、すぐには文字が出てこなかった。
少しして、十数秒のボイスメッセージが届く。
スマホを見て、それから手に持ったドライヤーを見る。
左側はまだ半分以上濡れている。
> 先に髪乾かす
> あとで聴く
> うん
スマホを伏せて机に置いた。
今度こそ、本当にドライヤーをつけた。
* * *
明日、どっち着よう。
ベッドの端に座ったまま、もう五分近く見ている。
スカートはとっくに決まっていた。
クリーム色の薄手ニットなら、少しやわらかい感じになる。
チャコールグレーのショート丈シャツなら、もう少しすっきりする。
どっちも同じスカートに合うし、明日は普通に授業があるだけだ。
どちらかじゃなきゃいけない理由もない。
だから決まらない。
白いほうを手に取って、体の前に当ててみる。
スマホが光った。
なんとなく見るだけのつもりだった。
通知に出ている名前を見て、先に服をベッドへ戻した。
高瀬花梨。
向こうから送ってきた。
開くと、一曲だけ届いていた。
曲名は知っている。
数日前に私が送った曲ではない。
私も好きな曲だ。
ただ、このバンドから一曲だけ人に勧めるなら、最初には選ばない。
自分でほかの曲まで聴いたんだ。
先に口元が少し緩んだ。
返事を打つ。
> これ?
> 私も好き
送信を押す直前になって、通知を見てほとんどそのまま打ち終えていたことに気づいた。
指が少し止まる。
今さらわざと時間を置くほうが変か。
そのまま送った。
すぐに、サビ前のところが好きだと返ってくる。
曲を流した。
そこまで来ると、どの部分のことかすぐ分かった。
あそこなら、ライブ版のほうがもっと分かりやすい。
最初は文字で返そうとした。
二行ほど打って、全部消す。
「ちょっとラフ」とだけ書くと、演奏が下手みたいに見える。
そういう意味じゃない。
ちゃんと説明しようとすると、音源とライブで何が違うのかから話さないといけなくなる。
もうボイスメッセージでいい。
録音を押す。
一回目は途中まで話して、自分でも話が散らかっていると思った。
止める。
もう一度。
「ライブ版は前のほうがちょっとラフで、ギターも音源より前に出てる。あと後半、ボーカルの語尾が何か所かきっちり収まってなくて……まあ、聴いたほうが早いよ」
十数秒。
今度はこれでいい。
送ってから、その音声をしばらく眺めた。
友達にボイスメッセージを送ること自体は珍しくない。
でも、今は部屋が静かだった。
これから自分の声が高瀬さんのスマホから流れると思うと、いつも面と向かって話しているのとは少し違う感じがした。
すぐに返事が来る。
> 先に髪乾かす
> あとで聴く
髪を乾かしてるんだ。
一昨日、カフェで高瀬さんが言っていたことをすぐ思い出した。
――髪は時間かけてる。
あのときは、ちゃんと手入れしてるんだな、くらいにしか思っていなかった。
今は急に、かなり具体的な姿が浮かんだ。
お風呂上がりの高瀬さんが、まだ濡れた長い髪を部屋で少しずつ乾かしている。
そこで一度、思考が止まった。
ちょっと具体的に想像しすぎたかも。
> うん
送って、スマホを膝の上に置いた。
それ以上は何も送らない。
あとで聴くって言ってるんだから。
もう一度、白い服を持ち上げる。
体に当てている途中で、またスマホに目がいった。
画面はもう暗くなっていた。
* * *
左側は、思っていたより乾きにくかった。
襟足のあたりは触っただけならもう大丈夫そうなのに、指を入れるとまだ湿っている。
もう一度髪を分けて、一束ずつ下まで乾かしていく。
途中で一度、スマホが光った。
机の上に明かりが見えたけれど、ドライヤーは止めなかった。
最後の毛先まで乾いてから、ようやくスイッチを切る。
部屋がまた静かになった。
毛先を手で確かめる。
くっついているところがないのを確認して、上から下まで一度ブラシを通した。
これでいい。
スマホはさっきと同じ場所にある。
手に取ると、光ったのは別の通知だった。
水野さんからは何も来ていない。
たぶん、本当に私があとで聴くのを待ってる。
トークを開く。
ボイスメッセージはそのまま残っている。
再生する。
水野さんの声がスマホから流れた瞬間、少しだけ手が止まった。
毎日のように話している声なのに。
今、部屋にいるのは私だけだ。
食堂の食器の音もない。
カフェの話し声もない。
声が急に近くなった。
「ライブ版は前のほうがちょっとラフで、ギターも音源より前に出てる。あと後半、ボーカルの語尾が何か所かきっちり収まってなくて……まあ、聴いたほうが早いよ」
最後の一言は、自分でも説明するのが面倒になったみたいだった。
最後まで聴く。
もう一度再生した。
二回目は、水野さんの話しているところと曲を一つずつ合わせながら聴いた。
それから、言っていたライブ版を探す。
確かに、音源ほどきれいに整ってはいない。
ギターは元の音源より前に出ていて、ドラムも少しラフに聞こえる。
後半になると、ボーカルも語尾を最後まできっちり収めないところがいくつかあった。
でも、飛ばしたいとは思わなかった。
音源のほうがきれいだ。
こっちは、曲全体がそのまま前へ進んでいく感じがする。
音源に戻す。
またライブ版に戻す。
同じところを二回聴くと、水野さんが何を好きなのか、少し分かってきた気がした。
> なんとなく分かった
返事が来る。
> でしょ
> 音源のほうがきれい
> でもライブのほうがいいときある
その二行を見る。
きれいに聴こえるのと、いいと思うのは、水野さんの中では同じじゃないらしい。
この前、服の話をしたときと少し似ている。
もう悪くない答えがあっても、別のものを試したくなる。
> だからよくライブ行くの?
水野さんは、一気に長い説明を送ってはこなかった。
同じ曲でも、ライブでは毎回まったく同じにはならないこと。
音源ほど安定して歌えていない日でも、そっちのほうがずっと覚えていることがあること。
それだけだった。
前は、わざわざライブに行く理由があまり分からなかった。
曲を聴くだけなら、家のほうが楽だ。
今は少なくとも、音源をただ大きな音で流しているだけじゃないことは分かる。
> 時間あるとき、ほかのライブ版も聴いてみて
> いいの何個か探しとく
> うん
今は、本当に聴いてみたいと思った。
* * *
その「うん」を見る。
高瀬さんは、勧められたものを何でもそのまま試す人じゃない。
だから聴くと言うなら、たぶん本当に聴く。
そう思うと、気分がよかった。
自分の好きなものを相手も受け取ってくれるのは、やっぱりうれしい。
そこでようやく、ベッドの上の二着を思い出した。
音楽の話は、もう終わった。
白。
グレー。
まだ決まらない。
またスマホを見る。
一昨日、ちょうど服の話もした。
それに、高瀬さんは本当に似合うかどうかを見ている。
何でも「どっちもかわいい」で終わらせるタイプじゃない。
ハーフアップのどこがよかったのかまで、本当に言えた。
二着をもう一度並べて、写真を撮った。
ベッドの横のラグが少し写る。
適当に置いてあった鞄も入っている。
撮り直そうかと思った。
でも、別にいいか。
> 左と右、どっち
すぐには返ってこなかった。
白いほうを持ち上げて、もう一度体に当てる。
ベッドへ戻したころ、スマホが光った。
> 左
少し笑う。
> 早い
> ちゃんと見た
次の一文は、少し間を置いて届いた。
> 服だけなら右のほうが好き
> 左のほうが水野さんに似合う
手が止まった。
もう一度読む。
右のほうが服としては好き。
でも、左のほうが私に似合う。
同じことじゃない。
クリーム色のほうを少し手元へ引き寄せる。
高瀬さんの頭の中では、どうやってこの服を私に着せて見ているんだろう。
急に気になった。
> なんで?
白いほうを持ち上げて、また体に当ててみる。
今度は自分でも、襟元と色を比べ始めていた。
服を下ろしたころ、画面が光る。
> 色が水野さんに合う
> 襟元も
もう一つ届いた。
> 着たら写真より似合うと思う
その一行を見る。
すぐには返さなかった。
一昨日もそうだった。
「似合ってる」
あのときも、かなり直接言われた。
店に行ってからは、ハーフアップのどこがよかったのかまで分かっていた。
今日は、まだ着ていない服を見ただけで、着たときのことまで考えている。
ほかの人なら、話の流れで褒めているだけだと思ったかもしれない。
でも、高瀬さんは雰囲気に合わせて適当にこういうことを言う人じゃない。
少なくとも、今はそうじゃないと分かる。
白いほうを手に取る。
さっきまでは、どっちでもいい二択だった。
今見ると、本当にこっちのほうがよく見えてきた。
ちょっとずるい。
一言言われただけなのに。
> じゃあ明日、左着る
すぐに返事が来る。
> いいと思う
笑った。
私の服なのに。
本当に高瀬さんの許可が必要だったみたいだ。
* * *
水野さんが、明日は左を着ると言った。
その文字を数秒見ていた。
本当にそっちにしたんだ。
明日、見られる。
そう思うと、自分の選んだほうで本当によかったのか、少し確かめたくなった。
写真は写真だ。
実際に着たら、また違う。
しかも、水野さんが着る。
スマホを置いて、机の上を片づけ始める。
ドライヤーを引き出しへ戻す。
ブラシに絡んだ髪を何本か取る。
ヘアケア用品も元の場所へ戻した。
水も一杯入れてくる。
部屋へ戻っても、スマホに通知はなかった。
音楽の話は終わった。
服も決まった。
もう話すことはないはずだ。
机の前に座って、スマホを持つ。
プレイヤーは、さっきのライブ版で止まっていた。
そのあと、自動で別の曲が流れている。
片づけている間に、半分以上は聴いていた。
最初の曲ほどではない。
でも、最後のところは悪くなかった。
トークを開く。
> さっき次に流れた曲も悪くない
すぐに既読がついた。
> ほんとにまだ聴いてる
> 聴いてみてって言ったの水野さんでしょ
> 時間あるときでいいって言っただけ
> 今そのままずっと聴いてるとは思わなかった
> もう流れてたから
少し間が空く。
> だからそのまま?
> だいたい
水野さんから、楽しそうに笑っているスタンプが届いた。
何がおかしいのかは分からない。
でも、聞かなかった。
* * *
服はもう決まった。
音楽の話も終わった。
それなのに、高瀬さんからまたメッセージが来た。
「さっき次に流れた曲も悪くない」を見たとき、最初に浮かんだのは曲のことじゃなかった。
本当にあとで戻って聴いたんだ。
しかも、私が送ったライブ版だけで終わっていない。
それが、妙にうれしかった。
だからあのスタンプを送った。
そのあと何を話したのか、自分でも途中からあまり覚えていない。
曲の話から、明日の一限の先生の話になった。
前にその先生がスライドの順番を間違えたと言うと、高瀬さんは私がその授業について話したことまで覚えていた。
先生の話から、大学の自販機で最近入れ替わった飲み物の話になった。
まずかった、と言う。
高瀬さんが聞いた。
> じゃあなんで全部飲んだの
> お金払ったから
> それは分かる
その一言を数秒見た。
笑った。
途中で、私からもう一曲送った。
半分くらい聴いたところで返ってくる。
> 最初のほうがいい
遠慮がない。
でも、そのほうが高瀬さんらしい。
> 高瀬さんこれ好きじゃないと思ってた
> じゃあなんで送ったの
少し考える。
> 確認したかった
今度は少し間が空いた。
> 暇だね
笑った。
> でも最後まで聴いたでしょ
否定はされなかった。
そのあと、高瀬さんがどこかで見つけた画像を一枚送ってきた。
しばらく見ても分からない。
> これどこが面白いの
> 面白いとは言ってない
> じゃあなんで送ってきたの
少し間が空く。
> たまたま見たから
その文字を見る。
急に、覚えがあると思った。
プリンを見たとき、私は高瀬さんに送った。
曲を聴いたとき、高瀬さんが私に送ってきた。
今は、全然面白くない画像まで送ってくる。
しばらく画面を見ていた。
スマホが光って、そこに高瀬さんの名前があると、少しうれしい気がする。
時間に気づいたときには、もう十一時半近かった。
明日は一限。
急に現実に戻った。
ベッドに横になる。
クリーム色のトップスは、まだ隣に置いたままだ。
> もう寝る
> 明日一限
すぐに返ってくる。
> じゃあ早く寝て
布団を少し上まで引き上げた。
> おやすみ
今度は数秒空いた。
> おやすみ
ようやくトークが静かになった。
すぐには閉じなかった。
少し上へスクロールする。
最初は、一曲だけだった。
それがライブ版になって、二着の服になって、先生になって、自販機の飲み物になった。
最後には、全然面白くない画像まである。
途中で終わろうと思えば、いくらでも終われた。
でも、どちらも本当には止めなかった。
画面を消す。
部屋が暗くなった。
しばらくして、また起き上がる。
スマホを見るためじゃない。
ベッドの上に、白いトップスがまだ残っていた。
手に取る。
クローゼットに戻そうとした。
ハンガーに手をかけたところで止まる。
明日着るんだった。
しまっても、また出さないといけない。
クローゼットのいちばん手前に掛けた。
明日の朝なら、手を伸ばせばすぐ届く。
掛け終わってから、もう一度見る。
それからやっと、ベッドに戻った。




