第一章 『またあとで』その一
昼休みの食堂は、もうほとんど席が埋まっていた。
カレーを持ったまま一度見回すと、ちょうど二人掛けのテーブルがひとつ空いていた。隣では四人組が昨日のレポートについて話していて、声が大きくなったり小さくなったりしている。
座ってからは、もう気にしなかった。
別にカレーが食べたかったわけじゃない。
あの列がいちばん短かっただけだ。
半分くらい食べたところで水を取ろうと手を伸ばし、顔を上げると、入口から水野さんが入ってくるのが見えた。
トレーを持ったまま、その場で中を見回している。
私はコップを置いた。
「水野さん」
彼女が振り向く。
いくつかのテーブルの間を視線が行き来して、最後に私を見つけた。
「高瀬さん」
向かいに置いていたスマホと紙ナプキンを、自分のほうへ寄せる。
水野さんはこっちまで来て、椅子を一度見た。
「ここ、いい?」
「うん」
水野さんがトレーを置く。
うどんだった。横に小さな皿がひとつ付いている。二度ほど見たけれど、結局何なのか分からなかった。
「ここ、よく食べに来るの?」
水野さんが箸を割りながら聞いた。
「空いてるところに行く」
「じゃあ、おいしいから来てるわけじゃないんだ」
「まずくはないよ」
「微妙な評価」
もう一口食べる。
「水野さんは?」
「今日は別の食べようと思ってたんだけど」
箸で入口のほうを指した。
「あっち、並びすぎてて。見た瞬間やめた」
「あそこ毎日混んでるよ」
「食べたことある?」
「一回」
「おいしかった?」
「普通」
水野さんが一秒くらい私を見る。
「高瀬さんって、食べ物の感想、よく『普通』って言わない?」
「そう?」
「おいしいって言ってるの、あんまり聞いたことない気がする」
少し考えたけれど、思い出せなかった。
水野さんはうどんを一口食べる。
私も食事に戻った。
隣で誰かが椅子を引いた。脚が床を擦って、甲高い音がした。
水野さんもそっちを見る。
音が消えると、また二人とも自分のものを食べた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
カレーに残っていた最後のじゃがいもをスプーンで割る。
水野さんのうどんは、まだ半分くらい残っている。
「高瀬さん、午後も授業ある?」
「ある。二時」
「一コマ空くんだ?」
「うん」
「いいな」
「水野さんは?」
「もう少し早い」
スマホを見て、また置く。
「まだ時間あるけど」
「じゃあ、なんでずっと時間見てるの?」
「癖」
「へえ」
水野さんはまた何口か食べた。
私はカレーを食べ終えた。水はまだ半分残っている。
「じゃあ、このあとどこ行くの?」
「図書館」
水野さんが顔を上げた。
「真面目」
「勉強しに行くわけじゃない」
「じゃあ何しに?」
「昨日、途中まで読んだから」
彼女が少し待つ。
「何を?」
「漫画」
箸が止まった。
「漫画読むために、わざわざ図書館行くの?」
「静かだから」
「自分の?」
「スマホ」
「それならどこでも読めるでしょ」
私は横を見る。
隣の四人組が、何の話か急に全員で笑い出した。
水野さんもそっちを見た。
「……うん。これは反論できない」
私はスマホを取って時間を見る。
画面をつけると、昨日閉じ忘れた漫画が最近使ったアプリに残っていた。下のところに触れてしまって、そのままページが開く。
水野さんが覗いた。
「これが、このあと読むやつ?」
「うん」
スマホを少し彼女のほうへ向ける。
水野さんも、そのぶん近づいてきた。
距離が縮まって初めて、かすかな匂いがした。
テーブルのカレーやうどんとは違う匂い。
髪なのか、服なのかは分からない。
ちょうど表紙が画面に出ている。
「恋愛漫画?」
「うん」
「面白い?」
「最近はけっこう面白い」
「最近?」
「前のほう、かなりだるいところがあった」
水野さんが表紙の右側にいる女の子を指す。
「この子、かわいい」
「この子、めんどくさい」
手が空中で止まった。
「そんなはっきり?」
「ほんとにめんどくさい」
「何したの?」
私は少し前のページまで戻した。
探さなくても覚えているけれど。
「待ち合わせして、自分が遅れるって分かってるのに、メッセージずっと返さない」
「なんて言えばいいか分からなかったとか?」
「それなら、とりあえず遅れるって言えばいい」
「理由は?」
「言いたくないなら言わなくていい」
水野さんが私を見る。
私はもう一ページ先へ送った。
どうして遅れるのかなんて、駅で待っている相手には別に関係ない。
言いたくない事情なら、言わなくていい。
どこまで話すかだって本人が決めればいい。
でも、
『遅れる』
必要なのは、それだけだ。
しかもこの子はスマホを見ている。
一回じゃない。
「少なくとも、ずっとそこで待たなくていいってことくらいは伝えればいいのに」
「……それはそうかも」
「見てなかったなら別にいいけど」
画面を下へ滑らせる。
「見てるから」
ここで終わってもよかった。
でも、そのコマがまだ画面に残っていたから、もうひとつ付け足した。
「しかもそのあと、返信したら怒られるかなって悩んでる」
「怒られるの怖いのは普通じゃない?」
「普通だよ」
水野さんは、私が同意すると思っていなかったらしい。
一度瞬きをした。
「じゃあ、それでもそんなに嫌いなの?」
「怒られるのが怖いのと、人をずっと待たせるのは別でしょ」
スマホをテーブルに戻す。
「先に一言送ったからって、それで余計に怒られるわけでもないし」
水野さんが私を見ている。
二秒くらいしてから気づいた。
「何?」
「別に」
彼女はさっきの表紙をちらっと見る。
「ただ、そこまで聞くと、なんか本当にちょっと嫌になってきた」
「最初からめんどくさいよ」
「でも顔はやっぱりかわいい」
「それは別」
「私はやっぱり顔は好き」
「じゃあ、そこは好きでいいんじゃない」
水野さんが少し笑った。
「そうする」
残っていたうどんを食べ始める。
私もスマホの画面を消した。
テーブルには、食べ終わったトレーが二つだけ残った。
話が一度途切れる。
水野さんがスマホを手に取ると、画面がついた瞬間に震えた。
通知を見て、指を何度か滑らせる。
見たことのないアルバムジャケットが表示された。
「それ、水野さんがライブ行くバンド?」
「ん?」
私の視線を追って、自分のスマホを見る。
「これ?」
「うん」
「ああ。このバンド、ライブで観たことあるよ」
「うるさい感じ?」
「ずっとうるさいわけじゃない」
「じゃあ、どんな感じ?」
少し考えたあと、
「聴いたほうが早いかも」
と言って、スマホの中をしばらく探した。
「これならいいかな」
何度か画面を押す。
「送るね」
そこで止まった。
「……あ」
「何?」
顔を上げる。
「私、高瀬さんのLINE知らない」
「うん」
水野さんが私を見る。
「じゃあ、交換する?」
私はもうスマホを出していた。
出してから、自分が交換するかどうかを一度も考えなかったことに気づいた。
水野さんも私の手元を一度見た。
でも何も言わない。
自分のQRコードを出してくれる。
読み取って、追加する。
向こうも画面を二、三度タップした。
新しいトーク画面が開く。
名前は、水野紫苑。
次の瞬間、スマホが震えた。
曲が一つ送られてくる。
「来た」
「あとで聴けばいいよ。ここで聴いても周りうるさいし」
「うん」
スマホをテーブルに戻した。
昨日までは、偶然会わなければ、水野さんと連絡を取る手段はなかった。
今はある。
だからといって、何かする必要があるわけでもない。
ただ画面の中に、トークルームがひとつ増えただけだ。
「高瀬さんって、普段何聴くの?」
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高瀬さんがスマホをテーブルに戻してから、私も自分のを置いた。
トーク一覧のいちばん上に、さっき追加したばかりの名前がある。
私はただ、
「じゃあ、交換する?」
と言っただけだった。
高瀬さんは「うん」とすら言わずに、もうスマホを出していた。
少しくらい間があると思っていた。
嫌がるとか、断るとか、そういう意味じゃなくて。
急にLINEを交換することになったとき、普通ならほんの少しくらいある、あの間。
高瀬さんにはなかった。
私はスマホを少し横へ押した。
「高瀬さんって、普段何聴くの?」
「アニソンが多い」
「観たアニメの?」
「そうとは限らない。曲だけ好きなこともある」
「曲からアニメ観ることもある?」
「たまに。逆のほうが多いけど」
「観終わってからプレイリストに入れる?」
「うん」
また、うん。
私は高瀬さんを見る。
さっき漫画の話をしていたときは、こうじゃなかった。
最初は、あのキャラが何をしたのか聞いただけだった。
理由を聞けば、それで終わると思っていた。
なのに高瀬さんはそのあとも自分から続けた。
メッセージを見てるのに返さなかったとか。
少なくとも遅れることくらい伝えればいいとか。
怒られるのが怖いことと、相手を待たせることは別だとか。
途中からは、私が何も聞いていないのに。
それでも自分から続きを話していた。
だから急にこっちを見て、
「何?」
と聞かれたとき、
「別に」
と答えた。
少し意外だっただけだ。
普段なら、一言で終わるのに。
話が途切れてから、うどんをとっくに食べ終えていたことに気づいた。
紙ナプキンも箸も、もうトレーの上にまとめてある。
スマホを鞄に入れて、手がトレーの縁に触れた。
今立って帰っても、何もおかしくない。
そもそも、この席に座るつもりだったわけでもなかった。
食堂に入ったとき、少し先に空いているテーブルを見つけていた。
場所はあまりよくないけれど、座ることはできる。
そっちへ行こうとしたところで、呼ばれた。
「水野さん」
振り返ると、高瀬さんが二人掛けのテーブルに座っていて、向かい側の席はもう空けられていた。
最初に見つけたテーブルも、まだ空いていた。
でも、二度目は見なかった。
今になって思えば、私はあのとき、
「ここ、いい?」
なんて聞いていた。
向こうから呼ばれたのに。
聞く必要なんて、たぶんなかった。
まあ、知り合いに会って一緒にご飯を食べるくらい、普通だけど。
向かいを見る。
高瀬さんのカレーはとっくに空になっていて、残っているのは水だけだ。
そういえば、座ってから今まで、彼女が本当に好きな食べ物の話は聞いていない。
「高瀬さんって、特に好きな食べ物ある?」
聞いてから、別に今聞かなくてもいいことだと気づいた。
でも高瀬さんは特に間を置かなかった。
「甘いもの」
「甘いもの?」
「うん」
「例えば?」
少し考える。
「ケーキ。プリンも好き」
「ほかは?」
「シュークリーム。アイス」
「思ったより広いね」
「全部デザートでしょ」
「じゃあ、甘いものなら基本なんでも?」
「おいしくないのは無理」
笑ってしまった。
「やっと『普通』じゃない感想出た」
「おいしいのとおいしくないのはあるよ」
「じゃあ基準、高いの? 低いの?」
「ものによる」
「分かりにくいなあ」
高瀬さんが水を飲む。
ふと、駅の反対側にある店を思い出した。
少し前に友達と一度行った店。
小さくて、中に入ると外よりずっと静かだった。
ショーケースには、カラメルの色がかなり濃いプリンがあった。
あの日は食べなかった。
別のテーブルへ運ばれていくのを見て、ちょっとおいしそうだと思ったことだけ覚えている。
高瀬さん、ああいうの好きそう。
そう思うまでが、妙に早かった。
考え終わる前に、高瀬さんが聞いた。
「水野さんは?」
「何が?」
「好きな食べ物」
「ああ」
聞き返された。
少し考える。
「これが絶対っていうのはないかな。その日の気分」
「甘いものは?」
「好きだけど、甘すぎるのは無理」
「知ってる」
「なんで?」
「前に言ってた」
一瞬止まった。
それから思い出す。
あの期間限定の飲み物。
「……ああ、そうだった」
覚えてたんだ。
別に不思議でもない。
まだ数日前の話だし、私だって、高瀬さんが期間限定を見るとつい買うのは覚えてる。
「じゃあケーキも、甘すぎるのは駄目?」
今度は向こうから聞いてきた。
「種類によるかな」
「例えば?」
「チーズケーキなら多少甘くてもいい。クリームが甘すぎるのは無理」
「へえ」
高瀬さんはそれ以上何も言わなかった。
私はスマホを見る。
授業まで、あと十二分。
「あ」
「何?」
「そろそろ行かないと」
「あと十二分あるよ」
「うん。歩いたらちょうどそれくらい」
「二号館?」
「うん」
「じゃあ間に合う」
私はトレーを持ち上げた。
箸も紙ナプキンも、とっくに片づけてある。
さっき初めてトレーの縁に触れたとき、本当はもう立って帰れた。
「あの曲、あとで聴いてね」
「うん」
「好きじゃなかったら、そう言っていいから」
「言う」
間を置く暇もないくらい、すぐ返ってきた。
私は高瀬さんを見る。
さっきの漫画に出てきた、メッセージをずっと見ているのに何も返さなかった子が、また頭に浮かんだ。
「……まあ、そうだよね」
「何が?」
「何でもない。もう行く」
トレーを持って、その場を離れた。
高瀬さんはついてこなかった。
そもそも校舎が違う。
---
午後の授業が終わってから、隣の子と少し話していた。
教室を出たところで、ようやくスマホを取り出す。
LINEに新しいメッセージが一件。
高瀬さん。
廊下の端で足を止めて、開く。
> 最後のところのほうが好き。
一文だけ。
私は数秒、その画面を見た。
本当に聴いたんだ。
しかも、
「よかった」
とか、
「聴いた」
だけじゃない。
昼に送った曲をもう一度開いて、再生位置を後ろへ動かす。
イヤホンは持っていなかったから、音量をぎりぎりまで下げて、スマホを少し近づけた。
最後のところに入る。
私もここが好きだった。
LINEに戻る。
> 私もそこ好き
打った文字を一度見て、そのまま送る。
画面に二つ目の吹き出しが増えた。
前のほうで誰かが教室のドアを閉める。
廊下が急に静かになった。
スマホをロックして、鞄にしまう。
階段のところまで来たとき、また震えた。
取り出す。
> うん
その一文字を、二秒くらい見た。
それからスマホをしまった。
今度は、もう取り出さなかった。




