序章 『いつもの電車』その二
高瀬さんは今日も、いつもの場所にいた。
乗った瞬間に気づいた。
昨日までは、苗字すら知らなかった。
高瀬。
頭の中で一度呼んでみる。
昨日本人が言ったんだから、覚えていて当然だ。
背後でドアが閉まった。
私はいつものポールのそばまで歩いた。
高瀬さんが顔を上げる。
一瞬だけ目が合った。
先に高瀬さんが軽く頷いた。
私も頷き返した。
言葉はなかった。
スマホを取り出す。
画面を開いても、何も頭に入ってこない。
何秒かしてから、昨日もう読んだページを適当に開いた。
駅に着いた。
高瀬さんが先に降りる。
私も降りた。
改札を出ると、彼女は昨日より速く歩いていた。
昨日はこんなに速くなかった。
前を歩く人たちに混じって坂を上っていく背中を見て、私も少しだけ歩調を速めた。
何歩か進んで、また元に戻す。
追いつこうと思えば追いつける。
でも、追いついて何を話す?
また今日何限からか聞く?
……それはさすがに、無理に話題を探しているみたいだ。
交差点で人の流れがばらけた。
高瀬さんとの距離が少し開いた。
私は追わなかった。
校門に着くと、高瀬さんは左。
私は右。
二号館に入る直前になって、今朝は一言も話していなかったことに気づいた。
* * *
午後最後の授業は、予定より少し長引いた。
先生が予定を十数分過ぎても話し続けていて、最後のほうには、スライドがまだ表示されたままなのに、教室の後ろから前まで鞄のファスナーを閉める音が続いていた。
私も人の流れに混じって教室を出た。
駅に着くと、帰りのホームは朝よりずっと人が多かった。
電光掲示板には、次の電車まであと三分と出ている。
ホームを前のほうへ歩いていく。
高瀬さんが、ひとつの乗車位置の列に並んでスマホを見ていた。
私は一度、足を止めた。
ひとつ前の乗車位置からでも乗れる。
後ろでもいい。
どうせ同じ電車だし。
二歩ほど進んで、同じ乗車位置の隣の列に並んだ。
高瀬さんが顔を上げる。
「高瀬さん」
彼女はスマホをしまった。
「水野さん」
まもなく電車が到着するというアナウンスが流れる。
私は少し前へ詰めて、後ろの人のために場所を空けた。
高瀬さんは隣の列にいる。
電車が入ってくると、さっきまでそれなりに整っていた二列はすぐに崩れた。
中の人が先に降りる。
外の人は待つ。
全員が降り終わると、前から順に乗り始めた。
私も流れに合わせて車内へ入る。
後ろの人も続く。
立てる場所が少しずつ埋まっていって、顔を上げたときには、高瀬さんが同じドアのそばにいた。
ドアが閉まった。
「帰り、混んでるね」
私が言う。
高瀬さんは車内を一度見回した。
「うん」
また、うん。
昨日もたぶん、何回も聞いた。
「高瀬さんって、よく『うん』って言うよね」
言ってから、これも別に言わなくていいことだったなと思った。
彼女が私を見る。
「『うん』で答えられることばっかり聞くから」
「……それもそうか」
今回は反論できない。
電車が動き出す。
つり革はほとんど埋まっていた。
私はひとつを掴む。
高瀬さんは隣で、ドア脇の手すりに手を置いていた。
「朝のほうが空いてたね」
「うん」
私は高瀬さんを見る。
彼女が少し止まった。
「本当に朝のほうが空いてた」
思わず笑いそうになった。
「今の、何か違う?」
「違う」
「どこが?」
「うんじゃない」
確かに。
電車が線路の継ぎ目を越えて、足元が小さく揺れた。
隣の人が出口のほうへずれて、少しだけ場所が空く。
中へ移ろうと思えば移れる。
手はまだ、同じつり革を握っていた。
このままでいいか。
窓の外が一瞬暗くなる。
電車が建物の影を抜けていく。
「明日の朝も、あの電車に乗る」
口にしてから、これは質問じゃないと気づいた。
高瀬さんが横を向く。
「うん」
今回は、たしかにうんとしか答えようがない。
どうしてわざわざそんなことを言うのか、高瀬さんは聞かなかった。
私も、理由なんて用意していなかった




