序章 『いつもの電車』その一
定期券を改札機にタッチする。ピッ、と鳴った。
カードを離して、改札を抜ける。
数分後。電車に乗り込むと、背後でドアが閉まった。
朝のラッシュを少し過ぎた時間で、つり革はいくつか空いている。床には、踏まれて皺になったチラシが一枚落ちていた。車内の音は、ホームにいたときより一段小さい。
あの人もいた。
入学してから、よく同じ電車になる。
顔はもう覚えている。ただ、名前はずっと知らなかった。
向かい側のドアのそばで、スマホを見ている。画面の光が顎のあたりを照らしていた。
反対側に空いている場所があった。
そこに立つ。
電車が動き出す。
定期券はまだ手の中にあった。ポケットにしまう。
窓の外でホームが後ろへ流れていく。
何歩か走った人が、間に合わずに止まった。
ドアのあたりには、さっき入り込んだ風がまだ少し残っている。
あの人はそのままの場所にいた。
窓際にいる日もあれば、ドアのそばにいる日もある。
車内なんて広くない。同じ人を何度も見ていれば、自然と覚える。
今日もそれほど混んでいない。
鞄を反対の肩に掛け直した。
ポケットの中でカードが少し動いて、脚に当たる。
次の駅で何人か降りた。
ポールのそばに、半歩ぶんくらいの空きができる。
あの人は動かなかった。
私もそのまま立っていた。
もう一度電車が動いたとき、床が小さく揺れた。
カードがポケットから滑り落ちた。
落ちた。
* * *
カードが床を滑って、私のつま先の前で止まるのを見た。
ラッシュを少し過ぎた車内では、プラスチックのカードが床を打つ音まで聞こえた。
私はしゃがむ。
彼女が落としたものだった。
入学してから何度も同じ電車で見かけているのに、一度も話したことのない人。
カードを拾った。
「これ、落としたよ」
彼女がこちらを見る。
定期券を差し出すと、受け取るときに指先が触れた。
すぐに離れた。
「ありがとう」
「ううん」
私はポールのそばへ戻った。
電車はそのまま進んでいく。
彼女はカードをもう一度ポケットにしまった。
ここまででいい。
「いつもこの電車に乗ってる?」
聞いた瞬間、少し余計だったと思った。
彼女はこちらを見て、ほんの一拍置いた。
「うん」
それから、また窓の外へ視線を戻した。
私も窓を見る。
次の駅を知らせるアナウンスが流れた。
大学の最寄り駅だ。
私はここで降りる。
彼女も鞄を肩に掛け直して、ドアのほうへ寄った。
同じ駅。
ドアが開くと、彼女が先に降りた。
私も後ろから降りる。
みんな同じ出口へ向かっている。誰が誰の後ろでも、大して変わらない。
改札を抜けると、彼女は私の半歩前を歩いていた。
出口から坂の上へ向かう道は一本しかない。
この時間に駅から出てくる人のほとんどが、同じ方向へ歩いている。
歩いているうちに、いつの間にか並んでいた。
歩道は少し狭い。
彼女が内側で、私は車道側。
間には鞄ひとつぶんくらいの距離がある。
坂の上から風が吹いてきた。
「この大学の学生?」
彼女が横を向く。
「うん」
聞いてから、この坂を歩いている人の大半が同じ校門へ向かっていることに気づいた。
信号はまだ赤だった。
二人で止まる。
彼女が向こう側を見る。
私もなんとなく同じところを見た。
「この坂、けっこう長いね」
彼女は坂の上を見た。
「そう?」
ほどなく信号が青に変わる。
彼女が先に歩き出して、私も続いた。
歩幅はだいたい同じだった。
角まで来ると、前を歩いていた人たちが少し散った。
道が広くなる。
「私、水野」
口にしてから、別に今ここで名乗らなくてもよかった気がした。
彼女はこちらを見て、ほんの少し歩調を落とした。
「高瀬」
それだけだった。
私はそのままの速さで歩く。
彼女もまだ隣にいた。
* * *
水野と角を曲がると、校門の柵が見えた。
定期券はポケットの中にある。
触って確かめる。
ある。
水野は車道側を歩いている。
今日は、いつもより少しゆっくり歩いている。
普段ならもう少し速く歩く。
一限は前のほうの席が楽だから、少し早く着けば、座っている人の後ろを通らなくて済む。
今日はまだ時間がある。
風が吹いて、水野の髪が顔にかかった。
彼女は片手で払って耳に掛ける。
少しすると、また何本か落ちてきた。
「今日、何限から?」
水野が聞いた。
「一限」
「……私も」
水野も今日は一限かららしい。
また話がなくなった。
校門前、最後の信号。
さっきより待つ時間は短かった。
ほどなく青に変わる。
誰も急がない。
横断歩道を渡っている途中で、自転車が横を抜けていった。
水野が私のほうへ少し寄る。
肩は触れなかった。
鞄だけが、私の腕に一度当たった。
「ごめん」
「平気」
校門を入ると、道が二つに分かれる。
水野は右。
二号館。
私は左。
一号館。
「じゃあ、私こっち」
「うん」
水野は右へ歩いていった。
私も一号館へ向かう。
ポケット越しに定期券が脚に当たる。
カードを落とした。
水野が拾った。
いつもあの電車に乗っているのかと聞かれた。
同じ大学なのかとも聞かれた。
角まで歩いて、水野は自分の苗字を言った。
私は高瀬と答えた。
そのあと、今日は何限からかも聞かれた。
私は何度もうんと言った。
嫌だったわけじゃない。
ただ、登校中にこんなことを聞いてくる人が普段はいないから、次に何を言えばいいのかわからなかった。
電車の中なら、窓の外を見ればいい。
並んで歩いていると、それができない。
明日も私はこの電車に乗る。
水野がいるかどうかは、わからない。
見かけたら挨拶するかどうか。
それは明日決めればいい。




