二十四章 休日、侯爵邸の訪問者(1)
失ったものを、みんな覚えている。
ダニエル、スピナー、ネイサン、ケニー、マイケル……
煙草なんて身体に悪いですよ、と笑っていた。こればっかりはやめられねぇんだと言ったら、毎晩のお酒もじゃないっすかと茶化された。
大切な部下で、仲間だった。
戦場で休める短い時間の、俺の唯一の救いだったんだ。
愛する人の夫に、そして父になれた。
それがとても誇らしくて、これから産まれてくる我が子と数ヵ月後に出会える事を、信じて疑っていなかった。とても楽しみにしていた。
また一時帰宅を許されたら、妻を抱き締めてキスをして、お腹の子供に「愛してる」と言おう。男の子だろうか、女の子だろうか。俺は煙草を吹かしながら、どちらの名前もずっと考えていた。
その短い間だけ――本当に数ヶ月だけ、俺は、子供の父親だったんだ。
※※※
亡霊の正体がモルツだったと判明し、一悶着あって無事に解決した翌日、マリアは朝の侯爵邸内でメイドとしての仕事にあたっていた。
休みとあって、普段朝食後にあるようなバタバタした感じはない。主人たちがゆっくりしている空気が、使用人たちにも伝わっているような朝だった。
それにしても、ジーンに続いてモルツにもバレるとはなぁ……。
マリアは、ティーカップ一式と、取り替えたテーブルクロスの乗ったカートを押しながら思った。リリーナの着付けにとりかかるメイド仲間たちに代わって、朝食後の紅茶休憩に出された食器を下げて、厨房まで運んでいるところである。
バレたが、まぁ仕方ない。奴も秘密は守ると言っていたし――。
その時、辿り着いた厨房で、ほとんど片付けを済ませた料理長ガスパーが、タオルで手を拭いながらこちらを見やった。
元軍人らしい逞しい身体をした男だ。まくられた袖からは、太い腕が覗いている。目立つ橙色の短い髪は、四十歳にして白髪ゼロの健康過ぎる愛煙家だった。
床はキレイに清掃された後で、少しだけ水が残っている。生ゴミを出しに行っているのか、見習いコックであるギースの姿はない。
「ガスパーさんが流し台まで片付けちゃったら、ギースが出来る事無くなっちゃうわよ?」
マリアはそう言って、ティーカップ類を置いた。
「繊細なグラス類だったからな、俺がやっといた」
彼が思案気に答えながら、コック服の胸元に手をやって「あ」と呟いた。長年の癖のように胸ポケットと煙草を手で探した事に気付くと、そっと腕を下ろす。
その様子を目に留めて、マリアはふっと柔らかな苦笑を浮かべた。
「ガスパーさんは、ギースに怪我をして欲しくなかったのね。指先まで頑丈だけど、私だって心配になるもの」
「うーん、十六歳にしては色々と敏いというか、なんというか……」
強面のガスパーが、悩ましげに言う。
「ギースより三つ年下というのも違和感があるよなぁ。まぁあいつがシスコンで、子供っぽすぎるのが原因なんだろうな。サリー坊やも同年齢みたいに見ているところあるし?」
「独り事? 私がこれ洗っておくから、裏口でさくっと吸ってきていいわよ」
「いや、煙草休憩してから俺がやる。――それよりも、お前はちょっと向こうを見てこい」
言いながら、ガスパーが厨房入口を指す。それを見たマリアは、空色の瞳をきょとんとさせた。彼は真顔で見下ろしたまま「ついさっきな?」と言って、言葉を続ける。
「マシューが確認で呼ばれて行ったのを見掛けた。なんか、お前の友達が来ているらしいぞ」
「友達? 私に?」
「おぅ。執事長を動かすほどでもないだろうと、衛兵組が一旦『次期侯爵の使用人頭候補』に確認依頼を出したわけだ」
話を聞いていたマリアは、思い当たる訪問者がなく首を捻った。変だなと思いながら、ひとまずガスパーに「ちょっと見て来る」と答えて厨房を出た。屋敷の門扉に真っ直ぐ行ける正面玄関から出るべく、少し小走りでそちらに向かった。
一体誰なんだろうな、と心底疑問に思いながら両開きの玄関扉を押した。
そのまま門扉まで一っ走りしようと思っていた。だから、目の前に立っている男に気付いたマリアは、唖然となって足を止めた。
「モルツさん……?」
確認するように呼ぶと、彼が「はい」と淡々と答える。
玄関前に立っていたのは、貴族らしい衣服に身を包んだモルツだった。すらりとした細身に合う衣装は、貴族紳士らしい格好で帯刀もしていない。
ぴったりと玄関扉越しに待っていた彼は、今にもぶつかりそうなほど近い距離で目の前にいた。
細い銀縁眼鏡越しに、クッキリとした色合いの碧眼で見下ろされているマリアは、ゴクリと息を呑んだ。確認せずにいられなくなって、恐る恐るこう尋ねる。
「…………モルツさんは、『メイドのマリア』の友人、なのですわよね……?」
「そうですが。――何か?」
「いや『何か?』じゃねぇよッ、全然変わってないだろうなんで突撃訪問してくるんだよ阿呆!」
マリアは思わず、後半を一呼吸で叫んだ。オブライトだった頃、休日の朝に玄関を開けたら、目の前に奴がいた時の事が頭に浮かんでいた。
「ざけんなっ、あの頃と何も変わってねぇよ!」
そもそも、ここはアーバンド侯爵邸である。そう思い出したマリアは、怒鳴りつけた勢いのまま彼の胸倉をガシリと掴んだ。
「先に言っておくが、リリーナ様の前で変態出しやがったら殺すぞッ!」
「昔から思っていたのですが、お前、子供を贔屓しすぎではないですか? そういう時は遠慮なく殴ってくれるので、私としては大変ゾクゾクするのですが、いささか複雑な胸中です」
マリアは真顔のまま、その言葉を聞いただけでゾワッと鳥肌を立てていた。今、奴の胸倉を掴んで引き寄せている状況が、すごく嫌だなと思う。
「……おい、この阿呆。つまりどういう事だ?」
「もう少し後輩も構うべきでは」
お断り申し上げる。
そもそも子供でもないのに『構え』ってどういう事だよ。というか、変態相手にそうするとか絶対嫌に決まってんだろ!
ブチリと切れたマリアは、その言葉を口に出す余裕もなくモルツを投げ飛ばしていた。トドメを刺すように足で打撃を与えると、玄関前の広場に突っ伏した彼の背中に肘をめり込ませる。
通りかかった見習いコックのギースが、それをバッチリ目撃して叫んだ。
「マリアが客人を沈めたあああああああああ!?」
「騒がしいなぁ。朝からうるせーぞ、ギース」
聞こえてきた怒声で足を進めてきたようだ。厨房裏口で煙草を吸っていた料理長ガスパーが、ひょっこり顔を覗かせて状況を見て顔を顰める。
その時、ここで聞こえるはずのない能天気な男の声が上がった。
「うわ~。お嬢ちゃんって、家でも相変わらずの凶暴力を発揮してんの? さすがだね!」
マリアその声を聞いてようやく、訪問者が一人ではない事に気付いた。
まさかと思って目を向けてみると、そこには「やっほー」と呑気に手を振っている元部下のニールがいた。見事な赤い髪をした彼の隣には、子供みたいな目でにこにこして手を繋がれている大男ヴァンレットも姿もある。
どちらも、休日を満喫している事が窺える私服姿だった。まさかお前、とマリアが目を戻すと、起き上がって衣装の埃を払ったモルツが「誤解です」と言った。
「ニールが休みの日の訪問を計画し、何をどうすればいいのかと彼と話している声が聞こえましたので、助言ついでに私も便乗致しました」
「嘘付け、元々来る気満々だっただろ!」
「まぁそうですね」
しれっと答えて、彼はジャケットの襟元を整える。
こいつも昔から、何を考えているのか分からない後輩軍人だった。マリアはそれを思い返して、「くっ」と目頭を押さえてしまった。
ほんの数秒考え、ハッとして目を走らせる。どうすんのと待っていたガスパーが、ようやく目が合って「ん?」と問う声を上げた。
「ガスパーさんッ、お嬢様には会わせない方向で行きましょう!」
「へ? ああ、まぁそれが良さそうだな。この前話していた騎士様というと、アレだろ。本当に根っからの変態だったとしたら、嬢ちゃんのそばについてるサリー坊やが『処理』しそうだしなぁ」
ひとまず促されたガスパーは、戦闘使用人の第二司令塔として、そう『判断』を口にした。
そのそばから、十九歳にしては背丈が低く、幼い雰囲気もあるギースがマリアに声を掛けた。
「というかさ、お前はそれでいいのか……?」
「何が?」
「いや、いきなり客人を投げ飛ばしてただろ。さすがに失礼なんじゃ――」
「挨拶分のご褒美としては、満足出来る威力でした」
淡々と会話に割り込んできた美声を聞いて、ギースが「!?」とモルツの横顔に目を向けた。若い彼は口の中で「マークが言っていた事はマジだった……っ」と、ショックを覚えたように呟く。
その時、二階から執事長フォレスが降りてきた。騒ぎを聞いて気になったのか、玄関まで出てきた彼のすぐ後ろには、先程終わった食後の紅茶休憩とは、少しだけ衣装の違っているアーバンド侯爵の姿もあった。
「報告は受けましたが、朝から騒がしいですね。――覚えのあるお顔ですが、そちらが『マリアさんのご友人』ですか?」
ピシリと白髪交じりの髪をセットしたフォレスが、チラリと状況を目で確認してから言う。
本来ならこの時間は、これからの外出予定に向けて、主人たちは身支度に取りかかっているはずだった。それなのに、まだ完全に済んでもいないのを見たマリアは、うわ……と素の口調で声をもらした。
「大変申し訳ない……」
つい、誰にも聞こえない声で口にしていた。
今にも死にそうな目を向けたマリアに気付いて、アーバンド侯爵が、にこっと笑って唇の前に人差し指を立ててこう言った。
「この前の『例の騎士たち』というから、ひとまずリリーナには、アルバートに付いてもらっているよ。その方が、マリアが困らないかなと思ってね」
「旦那様、その……わざわざお心遣い、ありがとうございます……」
「ふふっ、大丈夫だよ」
歩み寄った彼は、大きなリボンをしたマリアの頭を優しく撫でて、穏やかに微笑む。
そんな主人の様子をフォレスが横目に見守る中、彼は「さて」と仕切り直すように言った。三人の客人へ目を向けると、手繰り寄せた記憶から「そこの二人は、先日ぶりかな?」と口にする。
それから、ほんの少しだけ思案したかと思うと、客人に向けるように丁寧な態度を取った。
「私の執事が尋ねたばかりですが、君たちが『マリアのご友人』ですか?」
そう問い掛けられてすぐ、モルツが貴族らしい礼儀作法でもって挨拶の言葉を切り出した。つられたようにヴァンレットが近衛騎士隊長時の自己紹介を口にし、ニールがざっくりと名前だけを主張する。
「俺、ニールです! ヴァンレットの先輩なの!」
マリアは、髪先が外側にはねているという個性的な癖毛頭をしたニールの、その明るい声を聞いて丹念に目頭を揉みほぐしていた。ガスパーが、元軍人としての意見なのか「馬鹿っぽいなぁ」と感想するのも聞こえた。
一通り紹介を聞いたアーバンド侯爵が、全く気にした様子もなく「そうですか」と相槌を打った。
「私はアーバンド侯爵、アノルド・アーバンドです。この屋敷の主人で、マリアの雇い主でもあります」
すると、ニールが「へ~?」と言って、頭の後ろに両手をやった。
「俺さ、『雇い主の侯爵様』って、偉そうな怖い貴族様のイメージがあったから、ちょっと意外でした。お嬢ちゃん素行悪いし、毎日叱られてんじゃないかって思っちゃったもん――いてっ」
マリアは、アーバンド侯爵の手前、侯爵家のメイドらしくない文句を口に出来なくて、素早く走り寄って無言で足を踏みつけていた。その頭で揺れた大きなリボンにつられて、ヴァンレットが楽しそうに目で追ってゆっくり首を傾げる。
モルツが、同年齢のニールをチラリと見やって、揃えた指先で眼鏡の横を押し上げた。
「今のはお前が悪いですよ」
「うるせぇ変態野郎! お嬢ちゃんの家まで案内してくれるっていうから、一緒に行くのを渋々許したけどさ、俺の隣に立つんじゃねぇよ!」
ふぅっと少し溜息を吐かれただけで、ニールがビクッとして涙目で怒った。それでもヴァンレットの手をしっかり握り、後輩を守るように自分の後ろに置いてじりじりと後退する。
ついでのように同じ位置で庇われてしまったマリアは、なんでこんな事になってんだろうな、と思った。モルツも同感のようで、「お前、ソレを後ろに隠すのはおやめなさい」とニールに言う。
その様子を見ていたアーバンド侯爵が、一見すると中年のせいかと思われる事もある大きな身体を揺らして、おかしそうに笑った。
「ははは。ニールさん、とおっしゃいましたか。ご覧の通り、私は威厳もない男なのです。それにマリアは、毎日一生懸命頑張ってくれていますよ。そんな彼女を、どうして叱れましょうか」
「おぉッ、『侯爵さん』って、すんげぇいい人なんスね!」
「ふふっ、どうもありがとう。――ところで、本日は我が侯爵邸へどのようなご用件で?」
アーバンド侯爵が、のんびりとした様子で問う。
その会話のやりとりを聞きながら、執事長フォレスが珍しく顔面を硬直させていた。さすがのガスパーも視線をそらしていて、とんでもなく緊張感のない奴なんじゃ、とギースに目を向けられたマリアも、目頭を押さえて「くっ」と呻く。
今回の『休日、お嬢ちゃんの家に遊びに行こうぜ!』という、実にくだらない計画の発案者であるニールを、モルツが横目に少し見下ろす。ヴァンレットが、自分と比べるとかなり『小さい先輩』へ子犬みたいな目を向けた。
二名の視線を受けたニールが、任せてくれというように胸を叩いて、発言すべくビシリと挙手した。
「お嬢ちゃんに会いに来たんです!」
使用人一同は、その宣言を聞いた瞬間「え……」と声をもらした。もうなんとも言えなくなってしまって、揃って彼に目を向けたところで沈黙する。
アーバンド侯爵が、薄い藍色の目を子供のようにきょとんとさせた。それから、にっこりと笑って歓迎するように手を広げて見せた。
「マリアの友人が、こうして遊びに来るのは初めての事です。ようこそ、アーバンド侯爵邸へ。私は、あなた方を歓迎しますよ、どうぞおあがりください」
彼はそう言うと、執事長フォレスに客人を迎えるよう指示を出した。紅茶の用意を頼まれたガスパーが、呆けているギースを引きずって厨房に向かう。
そんなんでいいんですか。
というか、働いているメイドに会いに来ただけで『侯爵家には全く用がない』とかいう物言い、さすがに失礼すぎるのではなかろうか……。
マリアは、呆気に取られてそう思いながら、モルツ達を「こちらへどうぞ」と愛想良く促しているアーバンド侯爵を見てしまっていたのだった。




