二十三章 その亡霊は(6)下
殴らせろという言葉を聞いて、マリアは「は」と声を上げた。ちょっと待てと止める暇もなく、モルツが殴られて数メートル先まで吹き飛んでいった。
地面の上を転がった彼が止まるのを見て、ジーンが右拳を思い切り打ち込んだ姿勢を戻した。解いた手を振りながら「モルツ」と落ち着いた声で呼ぶ。
「これでチャラだ」
友人と後輩と部下想いで、これまで味方を本気で殴った事はない。
そんな男の全力の一撃を受けたモルツが、それを聞いてすぐには立ち上がれない様子で苦痛の声をもらした。
「…………ッ……、これは、効きました」
ジーンは、その回答を受けると「だろうな」と冷静な表情で言った。
「悪いが、本気で殴らせてもらった。――とはいえ、お前の気持ちも分からなくもねぇ。俺も黙っていた身だしな。だから、これでチャラだ」
やりとりを見ていたマリアは、ジーンからふっと目を向けられて我に返った。視線が絡んだ途端、彼が柔らかな苦笑を浮かべ、指を向けてこう続けてきた。
「ひとまず涙を拭けよ、親友。まぁ俺としては、前と違ってすぐに止まってくれたようで何よりだけどさ」
再会した時、なかなか泣きやまなかった事を言っているのだろう。マリアは「そうだな」とだけ答えて、まずはハンカチで雑に涙を拭った。
驚いた拍子に涙は止まってくれたとはいえ、モルツの言い分も聞かずに殴ったのは、いささかやり過ぎのような気もしていた。頑丈な男ではあるが、ジーンの本気の右拳を受けたのが心配になって立ち上がる。
すると、歩き出してすぐ、モルツが地面の上で仰向けになった。
「少し口の中を切ったくらいですよ」
そう言われて、驚いて足が止まってしまった。ハンカチを片手に問い掛ける。
「えぇと、まだ『大丈夫か』とも訊いていないんだが……」
「あなたの事ですから、やっぱりそうやって、私を心配するのだろうと思いまして」
「よく分からんが、ストレートに言われると、なんだか心配しない方が良かったんじゃないかと思えてもやもやするな」
マリアは、チラリと顔を顰めた。首を傾げたものの、自分の目で確認すべくモルツの方へと足を進めた。小さく息を吐いたジーンが、その後に続く。
「あなたは、生まれ変わってもお馬鹿なままなんですね。ついさっきあんな事があったというのに、そうやって気に掛けるところは相変わらずです」
独り言のようにそう口にしたモルツが、そこで一旦言葉を切ってジーンに視線を向けた。
「やはり、あなただけはご存知だったのですね」
問い掛けというよりは、確認するような言い方だった。
視線を寄越されたジーンが、「俺が親友を間違えるはずがないだろ」と答えて肩を竦めて見せる。続いて問うような目を向けられたマリアは、再会当時を思い返すと、ハンカチを返しながら複雑そうな表情を浮かべてモルツに答えた。
「自分から教えた訳じゃないぞ。何故だか、顔を合わせてすぐに言い当てやがったんだ」
そもそも、ここにいるのをピンポイントで探し当てたジーンの『友情レーダー』とやらについては、本気で謎である。
ますます気になったマリアは、うっかりそちらを考えて「どこの器官なんだ?」と疑問を呟いていた。当人が横から見下ろして、「何が? また口から出てるぞ?」と指摘する。
モルツは、二人が向かって歩いてくる様子から、青い空へと視線を移動させた。少し赤くなって腫れてしまった頬に触れ、親指で唇の端から滲んだ血を拭う。
「全て理解出来ました。とても奇妙な話ですが、お前は記憶を持っているだけの別人ではない。生まれ変わって姿が違っているだけで、他は全部そのままです」
マリアは、独り言みたいに話すモルツのそばで立ち止まった。
あれだけ派手に殴られたというのに、彼の美しい顔はほとんど影響を受けていない様子だった。一見すると、治りかけのような片頬の腫れ具合には正直呆れてしまう。どんだけ頑丈な身体をしてんだよコイツは、と思った。
その時、言葉を続けていたモルツが、こちらを見た。細い銀縁眼鏡の横を揃えた指先で押し上げると、こう結論を口にしてくる。
「つまり『まんま彼』ですね」
「なんだそりゃ。阿呆か、どう見てもか弱い女の子だろう」
間髪入れず答え返した途端、どうしてか憐れむ目を向けられた。それは表情豊かではないモルツの僅かな変化によるものだったが、長い付き合いで分かったマリアは、すぅっと表情を消した。
「何が言いたいんだ」
ニコリともしない目で見下ろし、冷やかな眼差しで威圧する。
建物の向こうで、またしても鳥が一斉に逃げていった。普通の人間なら失神してしまうレベルの殺気を隣から受けながら、ジーンがのんびりと鳥からマリアへと目を戻す。
「親友よ、そもそも俺から見ても『そのまんまオブライト』だぞ?」
よく分からない野生的な直感力を発揮する人間は、はたしてきちんと外見から人間を判断しているのだろうか。
マリアは、この姿で出会い頭に『オブライトだろ』と断言してきた男の意見を聞き流す事にした。寝転がっているモルツに意識を戻す。当初は叱りつけてやろうと考えていたものの、もうすっかり憤りも収まってしまっていた。
これまでを思い返すと、たびたびさりげなくフォローしていたと気付いて余計に怒れなくなる。もしかしたら賊騒動の一件でも、レイモンドに対して『違和感など何もなかった』という態度を取ったのではないだろうか。
マリアは、どうしたもんかなぁと困ってしまった。モルツに掛ける言葉を探していると、ジーンが彼と視線を近づけるようにしゃがんだ。
「それにしても、どうしてこんな手に出たんだ? お前にしては、らしくない気がするけどな」
問われたモルツは、少し間を置いてから「そうかもしれません」と答えて空を見た。彼にしてはどこか曖昧で、ハッキリとしない口調だった。
「私は関心が薄い人間です。しかし気になった事は、そのまま放置しておかない事を『十六年前に決めた』のです。たとえ主人が望んでおらず、何者にも命令されていない事だとしても――だから、私なりの方法で確認する事にしました」
ジーンが「ふうん?」と言って、何やら思案するように首を傾げる。
「つまり『こんな馬鹿』をするのは、初めてって事か。――んで、実際やってみてどーよ?」
「初めてなのでよく分かりません。ただ、とても気分はいい気がします」
ふっと吐息をもらしたモルツが、珍しい感じで困ったように笑う。
こっちを散々動揺させて迷惑を掛けておいて、気分がいいとかおかしくないか? マリアはその表情を見つめながら、信じられないと言わんばかりの顰め面を返す。
ジーンが吐息混じりに「ほらよ」と言って、仕方のない部下か後輩のようにモルツを起こした。立ち上がってローブに付いた土埃を払う彼は、少し話していた間に頬の腫れもやや引いていた。
治癒能力も相変わらず高いらしい。そう察しつつも、地面に落ちたままのカツラを拾い上げたマリアは、そこで「あ」と声を上げてモルツを振り返った。
「モルツ、その、悪いんだが私の事は――」
「言いませんよ。【黒騎士】であるあなたが、少女に生まれ変わっているとは誰にも話しません」
こちらを見たモルツが、キッパリとそう言った。いつもの無表情に戻った彼は、しかしどことなく憑き物でも落ちたみたいにスッキリとした目をしていた。
「過去に何があったのかも、まだ話せないでいるのでしょう。なら、それと併せていつか自分の口で彼らにおっしゃいなさい。私は、へたな手助けや気遣いをする人間ではありませんから」
自分でいつかは話そうと決めているんでしょう。
モルツの言い方からそれが伝わってきて、どうしてそこまで汲んでいるんだろうなと不思議に思う。考えても分からなくて、カツラを渡しながら当時のように気軽に問い掛けてみた。
「ジーンにしか相談していないはずなんだが、なんで分かるんだ?」
「友人ですからね。それくらい、少し考えれば分かります」
モルツが、また少しだけ口許に笑みを浮かべてそう答えてきた。こうしていると普段の変態も感じなくて、話の分かる落ち着いた美麗な男にしか見えないのも不思議だ。
その時、カツラを袋にしまう様子を見て、ジーンが小さく手を上げた。
「そういえばさ、気になったんだけどそのヅラ、わざわざ自分で用意したのか?」
「私が直接、専門店まで足を運んで作らせました」
「お前の注文を受けた時の相手の顔、ちょっとだけ見てみたかった気もするわ。絶対ぇ反応に困ったと思うぜ。――ちなみに、お前はなんて言ってヅラを注文したわけ?」
「困ったかどうかは知りません。その受け付けとやらの反応には興味がありませんから――注文に関しては、普通にしましたよ。私は正直に『自分で使うので、私の頭のサイズに合わせてください』と言って、最短でこれを仕上げてもらいました」
それを聞いたジーンが、「ぶはっ」と笑いがこぼれた口を押さえた。
しれっと答えたモルツの横顔を見上げて、マリアは「いやいやいやいや」と顔の前で手を振った。
「絶対に戸惑ったと思うぞ。へたしたら噂になっているんじゃないか?」
「問題ありません。ポルー師団長が通っている名店を選びましたから」
「阿呆か、それだと余計にアウトだろ。なんでわざわざあいつが通っている店を調べて、そっちで作らせてんだよ」
他に上等なカツラを作れる店が思い浮かばなかったからだ、とモルツは淡々と説明しながら袋をローブの下にしまった。彼の視線がそこに向けられた際、マリアはジーンと目を合わせて『というか、どうやって調べたんだろうな』と気になった部分を視線で語り合っていた。
誰が口にした訳でもなく、三人は王宮に戻るため足並みを揃えて歩き出した。しかし、人の気配がないその道から出る直前、モルツが足を止めた。
「私は『マリア』の友人のモルツです。ですが今だけ、当時のあなたとして言わせて頂きます」
最初で最後だと前置きして、彼がこちらを見下ろしてきた。冷やかな印象がするほど美麗な無表情で、なんでもない事を口にするようないつもの態度だった。
「おかえりなさい、オブライト隊長。随分遅い出戻りでしたね」
そう、彼が当たり前のように言葉を投げてきた。
マリアは、空色の目を小さく見開いた。あの頃と同じように『おかえり』と言われただけなのに、胸がきゅっとして、なんと答えていいのか分からなくなってしまう。
ただモルツを見上げたまま、「うん……」と言った。それでも返答を待って動かないでいる彼と、何も言わないで笑っているジーンを見て、マリアは困ったような笑みを浮かべた。
「うん…………。ただいま、モルツ」
いつものように答えただけなのに、なんだか気恥ずかしくなって、下手くそな愛想笑いで誤魔化した。そうしたら、二人がそれぞれおかしそうに笑って「おかえり」と声を揃えて答えた。




