二十三章 その亡霊は(6)中
その顔を目に止めた途端、マリアは胸倉を掴む手に力を込めていた。ようやく対面を果たしたその『亡霊』は、銀色騎士団の総隊長補佐モルツ・モントレーだった。
思えば奴の頑丈すぎる身体と、建物や木々を飛び越えて高速移動出来る驚異的な身体能力を思い出すべきだった。してやられた悔しさを言葉にして、この野郎、と言って叱り付けてやりたくてたまらないのに――
「…………なんでこんな事をしたんだ。なんで、お前なんだよ」
ようやく出た言葉は別のものだった。はらはらと涙がこぼれて、モルツの胸倉を掴んでいる手にパタパタと落ちていく。
懐かしい場所を走られたせいだろう。『クソガキ』にしてやられた怒り以上に、テレーサとの事が蘇っていて胸が張り裂けてしまいそうだった。
彼女ではないと分かっていながら追っていた。それなのに、相手が本当にテレーサではなかったと知って、勝手にショックを受けている自分もいる。
「――ああ、なるほど。ようやく理解出来ました」
こちらをじっと見つめていたモルツが、少しずれた細い銀縁眼鏡を直しもせず、そう落ち着いた声を発した。冷やかにも取れるほど美しい表情を、僅かに持ち上げてこう続ける。
「その表情は、そのまま『貴方』ですね。オブライト・ニールディーク隊長」
マリアは彼の上に力なく座り込んだまま、どうにか胸倉掴んで見つめ返していた。泣き顔なんて見せた事はないだろう。そう言い返したいのに、溢れ続ける涙が止められなくて言葉も出てこなかった。
ここに至るまでの混乱と動揺のせいで、上手く考えられない。自分はオブライトではないと否定しなければならないのに、話を続けるモルツの言葉をただただ聞いているしかなかった。
「色々と不自然な点はありました。しばらくかかって一通り考えもまとまったのですが、この前の会議で、あなたの口から直接聞き出すのは不可能だと分かりました。ですから、私なりに確信を得られる確認方法を考えたのです」
そんなの知るか。お前が、何を言っているのか分からない。
マリアは八つ当たりのようにそう思ったものの、長い付き合いから、なんとなく察してしまってもいた。思い返してみれば、彼ほど頭のいい男もいなかった。
先日に賊が出た騒動では、うっかりレイモンドとあの頃のように言い合った。持ち前の鈍さがある彼と違って、そこに疑問を覚えない男でもないだろう。これまでのモルツの行動を振り返ると、薄々勘付いて『確信となる判断材料を探していた』と言えなくもない。
「不思議なものですね。何もかも違っているのに、分かってしまうとオブライト隊長であるとしか見えない。あなたが大臣といる姿は、あの頃のままのようでもありました」
どうしてそんな事になっているのか、とモルツは尋ねてこないでいる。
恐らくは、こちらが答えられないからと知っての事だろう。ますます嫌な後輩だと、マリアは勝手にこぼれ落ち続ける涙を感じながら思った。
モルツは胸倉を掴まれたまま、動かないでいた。ただ、鮮やかな碧眼でじっと見据えて、形のいい唇だけを動かす。
「十六年前、何があったのかは知りません。けれど私は、他の友人たちと違って、あなたが『彼女』と共にいるのをこの目で見て、おおよその仮説は持っています。恐らくは、最強だったあなたのその優しさが、最大の弱点になったのだろうと」
マリアは、自分が血も涙もない人殺し部隊の、最強にして最凶の隊長【黒騎士】だと恐れられていた事を思い返した。
意外とただの優しい男なんですねと、出会う人たちにはたびたび言われたものだった。そして友人たちは、いつだって口を揃えてそう言った。情け容赦もない冷酷な男だなんて、一体どこのバカが噂しているんだろうなと彼らは笑っていた。
ああ、なんて嫌な奴なんだ。お前こそ、見かけによらず人を気遣える優しい男だったよな。そう思いながら、掴んでいた胸倉をぎゅっと握りしめて顔を伏せた。
「……お前ほど、賢くて敏い後輩もいなかったよ」
そう言いながら手に入れて、ローブ越しに高い体温を感じる胸倉を、半ば引き寄せるようにして頭を押しあてた。それから、どうにか絞り出すように声を出して、モルツが敏くも推測したらしい真実について、こう答えた。
「………………お前に、何が分かると言うんだ。愛した事もないくせに」
「そうですね、私は情に欠けた冷めたい男だ。それでも私も同じ男で、あなたが当時生きていた年齢もとうに超えました。それがどういうものであるかくらいは、知識としては知っているつもりです」
彼女を好きだったんでしょう、ただの友達などではなかった、とモルツが問うように呟く。
「私は愛情だとか、そういうものは分かりません。ですが彼女に笑いかけているあなたは、とても幸せそうでした。きっと夫婦になるのだろうと、なんとなく感じて想像したものです。だから、家を構えないのかと私は尋ねたりもしました」
黒騎士が求めたのは、たった一度、最初の褒美としての家名だけだった。
望めばそれ以上の地位も立場も、それに伴う立派な土地や屋敷だって手に入った。でもそうしなかった。
マリアは、そう話すモルツの声を聞きながら、その地に腰を据える事に興味を抱かなかったからだ、と心の中で答えた。こうして生まれ変わった当初も、いつかはどこかで死んでしまうからと、流浪の傭兵であった頃と同じ考えでいた。
何も持たないでいる方が、死んだ後に手間を掛けさせなくて済む。
でもオブライトは、テレーサと出会ってしまった。彼女が好きだと気付いて、胸の奥にあった『自分の家族が欲しい』という想いを初めて強く自覚させられた。けれど、ようやくそう望んだ時には、遅かったのだ。
「…………まぁ、あなたに屋敷の件を話したのは、個人的な思いもあったのですけれどね。あなたは傭兵時代と同じく、自分の帰るところを作らないでいたでしょう。私には、それがとても――」
思い返すように視線をそらしていたモルツが、口の中にぽつりと呟きを落とした。
らしくもなく声に出していたと気付いて、ふっと言葉を切る。手を広げて眼鏡を正面から押し上げると、彼は身じろぎして少し頭を起こし上げ、小さく震えているマリアの頭に目を向けた。
「オブライト隊長、この状況で言うのもなんですが、どうか落ち着いてくださいませんか? 結果的に泣かせてしまった事は詫びます。ですから、私に知られたからといって逃げてしまわないでください。あなたが、もう『どこへも行かないのなら』それでいいのです」
その時、全力疾走と分かる足音と、馴染んだ雄叫びが聞こえてきた。
気付いたモルツが、ふっとそちらへ目をやる。それは真っ直ぐこちらに向かってきていて、マリアも数秒遅れて顔を上げて叫び声の方向を見た。
「うおおおおおおおおッ、待ってろよ親友! 俺の友情レーダーナメてんじゃねぇぞおおおおおおおおおおおおおお!」
どこからか聞こえてくる雄叫びが、そう言っていると分かるくらいに近づいてきた。
その直後、こちらの道に一つの人影が飛び込んできた。丈の長い豪華な大臣衣装が大きく揺れて、赤み混じりの焦げ茶色の瞳が強くこちらを射抜いた。こちらをロックオンした途端、ジーンが低い声で「見つけたぜ」と呟く声が聞こえた。
「……ジーン…………?」
マリアは、呆気に取られてそう口にした。なんでお前がここに来るんだ、その衣装、大臣の仕事はどうしたんだ、と言いたい事が次々と頭の中に浮かぶ。
すると、珍しくジーンのこめかみに、ビキリと大きな青筋が立った。真っ直ぐ駆けて来たかと思うと、マリアはひょいと脇に退かされてハンカチを押し付けられていた。続いて彼が、モルツの胸倉を掴み上げて乱暴に立たせる。
「俺の親友を泣かしやがったな。お前なら、もう少し方法を選べたんじゃねぇのか?」
モルツに向かって放たれたその第一声は、強い怒気を孕んでいた。場を殺気と威圧感が満たし、それを敏感に感じ取った鳥が羽ばたいて逃げていく。
「おい、一発殴らせろクソガキ」
右拳を持ち上げたジーンが、目を据わらせてそう言った。
その直後、彼は返答も待たないまま、モルツの頬を『本気で思い切り』殴っていた。




