二十二章 少女と亡霊と毒薬学(7)下
こちらを見たルクシアが「おや、どうされました?」と言って、何回か曲げた白衣の袖口から出た白い指先で眼鏡を押し上げた。手ぶらで立っている自分への問いかけだと気付いて、マリアは「お疲れ様です」と答えてから、こう続けた。
「ルクシア様とライラック博士の分の、珈琲の下準備をしておこうかと思っていました」
「そうでしたか。ですが、すぐには必要ありません」
ルクシアの口調は、相変わらず淡々とした調子だった。彼を知らない人が聞いたとしたら、冷やかに感じるかもしれない。けれど、その人柄や性格を理解していれば、ただ普通に話しているのだと分かるものだった。
どうやら、話し合いの結果を、すぐに教えてくれるつもりでいるらしい。
とても気になっていた事だったので、マリアとアーシュは有り難く思って、すぐに聞く姿勢を取った。ルクシアが、一度隣に立つライラック博士に目配せして、小さく頷いて見せてから、二人に目を戻してこう切り出した。
「私たちが今進めている『調査』は、いつ危険に巻き込まれてもおかしくはないものです。ですので、余計な危険が及ばないよう『いかにも協力している』と悟られない事を条件に、ライラック博士には手伝って頂く事になりました。宰相にも報告する予定です」
つまり今後は、二人で研究にあたるようだ。マリアとアーシュは、つい表情のトーンを少し明るくて目を合わせた。互いの理解を確認し合ってから、了解したと意思表示するように、ルクシアに頷き返して見せる。
すると、口を閉じたルクシアの隣で、今度はライラック博士が説明を引き継ぐように切り出した。
「そこで、マリアさんとアーシュさんに少しお願いしたいのは、もしこの部屋の外で私を見掛けても、顔見知りであると分かるようなお声は掛けないよう、ご協力頂きたいのです。秘密の協力者があった方がいいだろう、とルクシア様も私も考えています。もし、必要に迫られて何か動きたい事が出来た時、悟られず動ける者がいた方がいい時もありますから」
たとえば、と彼は講師のような柔らかい口調で続ける。
「私は学会にも籍を置いておりますので、ルクシア様の代わりに専門機関へ足を運ぶ事も出来ます。薬学専門機構にも昔から出入りがありますから、そちらへ行ったとしても疑われる事はない。――とはいえ、それくらいの事でしかありませんが」
途端にライラック博士が、弱った様子で声を落とした。自分はこんなにも無力な人間なのですと言わんばかりの謙遜する態度で、丁寧にゆっくりと頭を下げる。
「あまり派手には動けないルクシア様の、足りない手足に私がなります。だから、どうぞ、これからよろしくお願い致します」
マリアは、アーシュと共に「よろしくお願いします」と声を揃えて言葉を返した。一件落着かと気が抜けてしまい、一緒に図書資料館までどうかと誘おうとしていたのだ、と残念そうに呟いてしまう。
すると、呟く声を聞いたライラック博士が、思い至った様子で「ああ、お散歩ですか」と言って柔らかな苦笑を浮かべた。訝って視線を送ってきたルクシアに、アーシュが本を一冊持ち上げて見せる。
「マリアが返却に行くので、加勢してやろうと思いまして。特にこの専門書なんて、一冊でかなりの重さですし、ついさっき珈琲や備品なんかをたっぷり運んで来たばかりなんで、さすがに一人でまたおつかいさせるのもなと」
「ああ、そういえば在庫が少なくなっていましたね。彼女の事ですから、たっぷり調達した事が予想されます」
「こーんな大きな紙袋を、一人で抱えて戻ってきていましたよ」
アーシュは、不自然な様子もなく受け答えすると、続いて本題の誘いを口にする。
「気晴らしの散歩にもなりますし、一緒にどうですか、ルクシア様? 他にも必要な本があれば、出るついでに借りてくるのも有りだと思います」
「ふむ……そうですね。私も用を思い出しましたし、付き合いましょう」
気晴らしに歩くのもいいでしょう、とルクシアが頷きながら呟く。
元々はこちらが口にしていたのに、最近は彼自身もよく『気晴らし』と言うようになっていた。繰り返し伝えるのも効果が出るもんだなぁと、マリアは微笑ましい気持ちで思って、ルクシアの隣にいる博士へと目を戻した。
すると、目が合ったライラック博士が、ふわりと微笑んでこう言ってきた。
「共に行けないのは残念ではありますが、私はこのまま上の階に戻ります。図書資料館へ行かれるのでしたら、道中お気を付けて」
「ありがとうございます。ライラック博士も、どうぞお気を付けてお戻りくださいませ」
「ああ、それから、美味しい珈琲をありがとうございました。珈琲派の私には、とても嬉しいものでした」
そう丁寧に告げたライラック博士が、もう一度紳士らしい礼を取った。
※※※
エイマックは、若い衛兵である。日中の短い時間は、いつも公共区にある図書資料館近くが通常勤務場所だった。そして、最近は高確率で、とある光景の目撃者となっている。
「出たな、ストーカー」
またしても『それ』が現われた事に気付いて、彼は顔面を半ば引き攣らせた。
向こうからやってきて目の前を通り過ぎていくのは、大きなリボンのメイドと、毒薬学王子と、白衣を上から着て少し変わった格好になっている文官だ。
まぁ、その組み合わせは見慣れたものなのだけれど、彼らが来る時は、最近必ず『余計なモノ』がセットになっている。
エイマックは、その三人の後ろを見て、ゴクリと唾を呑んだ。廊下沿いの柱や飾り台に隠れるように、人数を分けて目立つ美少年集団がいる。そして、別の柱の方からは、尊敬の意を送る大柄な騎馬隊将軍と、その部下一同の姿もあった。
軍人と貴族。全く毛色の違う彼らが、それぞれ一体なんの目的で同じ三人を『覗き見』しているのか分からない。貴族の少年たちは、明らかに隠れ方が下手だし、騎馬隊にかんしては、もはやムッキムキな身体が邪魔して隠れられていない。
これで、バレていないと思っているのだろうか。
めちゃくちゃ悪目立ちしている現状を目の当たりにするたび、エイマックは毎度の事ながら驚愕するし、むしろストーカーされている三人は気付いているのかいないのか、大変気にもなっている。
「どうしよう、廊下にいる人達が一生懸命に目をそらしてるよ……ッ」
「俺たちも目をそらすべきじゃないかな、エイマック。見たら気になって仕方がないし、ストーカーについて見て見ぬ振りをしている現状が、もしや大きな犯罪に発展する一端を担いでしまっているのかも、と想像すると胃がギリギリす――ぐぅ」
「しっかりしろ、ラスキン!」
エイマックはハッとして、腹を抱えた相棒の衛兵ラスキンを振り返った。顔面は真っ青になっていて、そらされた視線の乾いた笑みを見る限り、精神力が底を尽きかけているのを察した。
こいつはかなり胃腸が弱いのだ。そもそも、日頃の訓練でも途中で力尽きるくらい体力がない。勃発した騒動に気付いたとしても、回避する前に巻き込まれてダメージを負わされたりと、そもそも軍人に向いていない繊細な奴だった。
「ラスキン! 被害妄想はダメだッ、余計に胃痛が増すだろ!? ほら、深呼吸だ!」
「うぅ……ごめんよ、エイマック」
「うわああああああ泣くのも無しでッ」
そのうえ、彼は涙腺も緩い。
もう少し心が強くなってくれればいいのだけれど、とエイマックは思ったりもする。しかし、ラスキンとは寮生時代から付き合いが合ったので、それも難しいだろうなとは分かっていた。
ストーカー集団は、その間にいなくなってしまっていた。
毎度思うのだけれど、後を追い駆けるより、待機している間の姿と気配がキレイに消えるの、一体どういう訳なのか超知りたい。
相棒兼幼馴染の顔色が戻ったところで、エイマックは「やれやれ」と警備の立ち位置に戻った。ふと、思い出して問い掛ける。
「そういえば、一昨日の休憩中はどこに行ってたんだ? 皆で公共食堂で食おうかってなったんだけど、探してもみあたらなかったから、お前抜きで食事して…………。せっかくの班長の奢りだったのに、見付けてやれなくて、ごめんな」
申し訳なさが蘇ったエイマックは、話す途中で虫の鳴くような声になってしまった。裕福な立場ではないと知っているから、少しでも手助けしてやりたいと思っているのに、空回りする。特に、この気の弱い心優しい幼馴染が、仲間外れにされたとショックを受けないかを心配した。
すると、謝られたラスキンが「気にしないで」と言って、励ますように笑顔を返してきた。普段の弱々しい感じはなくて、たまに見せるにっこりとした元気なものだった。
「一昨日は、教えられていた安い食堂を見に、ちょっと町に出ていたんだよ」
「そうだったのか。あ、それで珈琲の染みを付けたんだな?」
エイマックは察して、なぁんだ、と納得した。この幼馴染の相棒は、普段から紅茶を気に入って飲んでいるのだけれど、外の店に立ち寄る時は安くて美味い珈琲を頼む。
「ラスキン、袖口に付いていた『シミ』は落ちたか?」
「うん、キレイに落ちたよ。ありがとう」
そう答えて、ラスキンはにっこりと笑った。
一昨日、町に出た彼は、フード付きローブで全身を隠していて。
どうして何故そんな事を、と訳も分からないまま泣いて懇願するスーツのチンピラ達を一人ずつ、痛みに悲鳴を上げるその口を片手で塞いで、容赦なく腕を『半分壊して』王都の外に捨ててきた事を。
そして、昔からずぅっと暗殺部隊の人間である事を、――エイマックは知らなかった。




