二十二章 少女と亡霊と毒薬学(7)上
マリアは予定していた通り、ジーンと別れた後に管理課の窓口へと向かった。待ち時間もあったため更に遅くなってしまったのだが、珈琲などが入った袋を抱えて研究私室に戻ってみると、そこにはアーシュしかいなかった。
振り返った彼が、目が合って早々「おかえり」と言った。こちらの戻りが少し遅かった事については、これといって違和感を覚えてはいないようだ。
想定していたよりも大きな紙袋の荷物を見ると、「そりゃ時間もかかるよな。お疲れ」と労うなり、アーシュは続き部屋の方に親指を向けた。
「ルクシア様と博士は、まだ一緒に続き部屋にいて、出てきてないぜ」
「一緒に進める事になったのかしら?」
「多分、そうなんじゃないかと思う。一旦ざっと説明してみて、それで実際に手伝える事があるのか本人に確認してから決める、ってルクシア様は言っていたけど、こんなに時間が経ってもライラック博士が出てきていないって事は、今後の流れとか詳細を話し合っているんじゃないか?」
マリアは、少し嬉しくなって「そうだといいわね」と相槌を打ってから、備え付けのキッチンへと足を向けた。それを聞いたアーシュが作業に戻りながら、同じように「そうだといいよな」と前向きな声で同意した。
持ち込んだ珈琲や牛乳や備品などを仕分けした後、日々清潔にたもっている本棚の埃払いに取りかかった。今日はまだ行っていない背の低い棚側の作業にあたりながら、その上に置かれている並んだ小瓶の間も、丁寧に払う。
「あ……。勝手に『いつでもどうぞ』なんて言って、大丈夫だったのかしら」
ふと、マリアは思い出して口にした。ハタと手を止めて静かになったのに気付いて、アーシュが作業を中断して「何がだ?」と言って振り返る。
「ライラック博士の事よ。実は、偶然一昨日に会って、少し話しをしたの」
「そういえば、面識があるみたいな感じで話していたよな。『マリアさん』って名前で呼ばれていたから、ちょっとびっくりした」
そういえば教えていなかったと気付いたマリアは、ライラック博士との事について、アーシュに大まかに伝える事にした。
うっかりニールを投げたら彼にあたった、という下りで「お前なんて事してんだよ」とドン引きされた。それについては「そこは反省してる」と、本来の自分の言葉で素直に謝って、出会いから別れまでを手短に語った。
「なんだか、すごく悩んでいたみたいだったのよ。だから、いつでもいらっしゃってください、って答えたの。でもルクシア様に対して、勝手な事だったかなって」
「それなら俺も一緒だろ。この前、ルクシア様と一緒に上の階に行った時、あのおっさんとそこにいた奴らに向かって『いつでも話しかければいいだろ』って言い放っちまったし」
「あら、そうなの?」
もしや似たような相談でもされたのだろうか。
そう推測しながら尋ね返すと、アーシュが詳細は語らないとでも言うように顰め面をそむけてから、たった一言「そうなんだ」とだけ答えた。
ついでにガラス棚の方も軽く磨いたものの、本日の掃除も、業務終了予定の一時間前には全て完了してしまった。それでもまだ、ルクシアは出て来ないでいた。
「なかなか出てこないわねぇ」
アーシュとの珈琲も二杯目になったマリアは、思わずチラリと続き部屋の扉を見やった。謎の毒がなんであるのか判明した後日、あまりにも引き込もっていた事を心配して以降、ルクシアは「珈琲のお代わりです」と出てくるようになっていた。だから、ここまで出てこないのも久しぶりのような気がする。
一旦休憩を挟むように隣に腰かけた彼女の声を聞いて、アーシュが開いていた本から目を離した。続き部屋の扉に目を向けると、頬杖をついて吐息をこぼす。
「もしかしたら、結構話が進んでいるのかもな。あの人は、俺らと違って大ベテランの専門家だし。ルクシア様にとっては強力な助っ人になると思う」
「うん。私もそう思う」
こちらが手伝えない専門分野だからこそ、今回のライラック博士の申し出は嬉しくもあった。
ルクシア自身が、あまり人を寄せ付けず、なかなか誰かを頼る事をしないと気付いていた事もある。今回の協力を、もし彼が受け入れてくれるとしたら、マリアとアーシュもひとまずは安心だった。
「――…………実を言うと、あのおっさんも来ないだろうし、来てくれたとしてもルクシア様も、話を聞かないかもしれないって、ちょっと心配してたんだ」
不意に、ぽつりとアーシュが言った。
マリアは不思議に思って、彼の方を振り返った。ふいっとそらされた横顔を見つめると、空色の瞳をきょとんとさせる。
「なんだか、アーシュにしては珍しくネガティブな想像ね。だって博士は協力したいとずっと悩んでいて、ルクシア様だって一人より二人の方がいいでしょ?」
「うーん、なんつうかさ。俺が初めて対面したあの二人を見た時の印象が、どっちもそんな感じだったというか……。こう、デカいきっかけがあったわけでもないのに、それがこうして自然と好転して前進しているのが、少し不思議でならない感じもするというか」
何かきっかけがあったのか俺もよく分かんねぇけどさ、と彼が言って、考えを投げ出すように頭の後ろに両手をやって姿勢を崩した。マリアが不思議そうに見つめている中、彼は思案げに言葉を続ける。
「でもまぁ、確かに研究部屋に入ってから、結構な時間が経ってるよな。お前も、あと一時間くらいで戻らないといけねぇだろ?」
「まぁね。その前には、もう一回本を整理しようかなと思っているけど」
マリアは作業台の上に目を向けると、用が終わった二冊の分厚い専門書を見てそう言った。作業台はたった一つしかないうえ、少し楽観して数冊を放置していたら、いつの間にか山になってしまうので、気を付けて管理しているのだ。
自分に出来るお手伝いは、それくらいだ。だから、何度だって図書資料館を往復する。
面倒だなんて思う事はないし、たった数冊が積み重なって彼らの作業環境を良く保てていると思うと、メイドとしての仕事がこなせる『今』も悪くない。
「お前が図書資料館行くんなら、俺もちょっと付き合おうかな。座りっぱなしもきついし」
「二冊しかないわよ」
「おい、そこで『この仕事はやらねぇぞ』みたいな敵意を向けてくるなよ……二冊くらいだったら、男の俺に持たせてもいいんじゃねぇか?」
「なら、一冊だけ譲歩しよう」
「割り勘かよ。つか、それを見下ろして言ってくるな」
なんかS的な圧力がかかるんだが、とアーシュが戸惑い気味に疑問を口にする。
「時々思うんだけどさ、お前のスイッチの入り方がよく分からねぇ……。ん?」
話していた彼が、ふっと眉間の皺を薄くして、続き部屋の方に目を向けた。
「というかさ、ずっと研究作業にあたってるとなると、ルクシア様もライラック博士も身体ガチガチになってるんじゃないか? ルクシア様の方は、今日は正午以外ずっとこの部屋からも出てないだろ」
マリアはそれを聞いて、思い返しながら「ああ、確かに」と相槌打った。
一日中雨だった昨日と違い、今日は一日振りにいい天気だ。せっかく空気も美味いので、屋内でじっとしているというのも勿体ない。
そう思いながらマリアは、少し考えるように腕を組んだ。指先で、とんとんとん、と腕を叩いたところで、ピタリと止めて顔を上げる。
「それなら、本を返しがてら一緒に歩きませんか、ってルクシア様を誘ってみようかしら。歩くと気晴らしになるって、私の『知っている人』もよくそう言っていたわ」
「お前にしてはいい案だな」
「私にしてはって何よ?」
ちょっとひどくないか、と思ってマリアは眉を顰めて見せた。しかし、当のアーシュは既にこちらを見ていなかった。
彼は何事か思いついたような表情を浮かべると、ひょいと背を起こして作業台に向き直っていた。気力溢れる楽しげな目をしていて、文官服の上から着た白衣の裾をまくるような仕草をしながら、こう言う。
「んじゃ、返却用の本をもう一つ作っとくか」
なんか、少々ニュアンスが妙な台詞だと感じた。作るって一体なんだと思って見守っていると、彼が数冊重なった中から、一番分厚い本を一冊取り出して引き寄せるのが見えた。それを手元に置くと、まずはしっかりとしたその表紙を開く。
最初の目次項目に目を留めたかと思ったら、アーシュがおもむろに指で、ページをざぁーっと流すように捲り始めた。それを瞬きもせずじっと眺めながら、カードでも混ぜるように全てのページを通すと、最後に裏表紙をパタンと閉じた。
「よし。一冊上がり」
「ちょっと待って。待って待って待ってアーシュ、何も読んでないでしょ」
お前、そんな手抜きをする仕事人じゃなかっただろ。
マリアは唖然として、上機嫌な彼の横顔を見やった。返す本を増やしたいからって、ルクシアが貸出予約をした中の一冊を、使わないまま返却しようだなんて、普段の彼の仕事っぷりからは信じられない事だ。
すると、アーシュが不思議そうに視線を返してきて、当たり前みたいな表情でこう言った。
「必要そうなキーワードは、十三個しか入ってなかった」
「え。それでいてチェック出来ているの……?」
「記憶しているから、普通に分かるだろ」
当然のようにそう返されたマリアは、困ってしまい「そんなもんかなぁ」と首を捻った。記憶しているから分かる、という説明がそもそもよく分からないし、そのせいもあってピンとこないでいる。
「暗記が得意で速読力もあるから、こんなに速くチェック出来るのかしらね……。初めて見たからびっくりした。やろうと思えば、すごく高速で仕事が出来るんじゃない?」
「いや? 高速で仕事は出来ねぇよ。理解しているわけじゃなくて、ただ記憶しているだけだからな」
教えるように口にする彼は、愛想が良かった。おかげで、いつもは懐かない犬みたいな目が、少し穏やかな印象になっていた。
「特にこっちの手伝いに関しては、理解しながらやるようにしてる。少しでもルクシア様の役に立ちたいからさ。この本のやつは、後で『必要な文の箇所を思い返して』要点を紙に書き出しておくから、大丈夫だ」
そう言ったアーシュが、その本を返却用の二冊の上に重ね置いた。
速読と暗記力ってすごいなぁと思いながら、マリアはよく分からないまま「はぁ、なるほど」と相槌を打った。彼は天才肌なんだろう。自分なりにそうざっくりと解釈したところで、思考を目先に切り替えて席を立った。
ルクシアとライラック博士が出てきたら、すぐに珈琲が淹れられるように支度しておこう。そう思ってキッチンに向かおうとした時、ふと、一つの事に気付いた。
この研究私室では、いつも珈琲を口にしている。オブライトだった頃がそうだったから、今まで違和感を覚えなかったけれど、そもそもアーバンド侯爵邸では多く出ない飲みものだった。
思わず足を止めて考えていると、アーシュが「どうしたよ?」と問い掛けてきた。
「他になんか、気になる事でもあんのか?」
「あのさ……、その、ライラック博士にも珈琲を出したんだけど、普通は紅茶だったかなぁと思って? 私、思えばルクシア様にもアーシュにも、珈琲しか出してこなかったなって今になって気付いたというか……」
「ああ、なんだそんな事か。まぁ上流階級で一般的に飲まれているのは、紅茶だからな。珈琲を出すってのは、多くないのは確かだけどさ」
でも別にいいんじゃないか? とアーシュが肩を竦めながら言った。
「お前が選んでる珈琲って、どれも美味いし、次はどんなのが出るんだろうなって、実はちょっと楽しみにもなってる」
「あら、そうなの?」
「おぅ。俺は最近、紅茶よりも珈琲が気に入ってる。ルクシア様は元々珈琲派だから、言わないでいいって口にしていたし。だから気にすんな。それに、仕事だったら珈琲って習慣もあるらしいからな。あの博士だって、きっと気に入って飲んでくれてるさ」
その時、扉の開閉音が聞こえて、二人はピタリと口をつぐんだ。
もしやと推測して目を向けてみると、続き部屋から、ルクシアとライラック博士が出てくるのが見えた。




