二十二章 少女と亡霊と毒薬学(6)
第七サロンを出ると、通路には先程と変わらない、ゆるやかな人数の往来があった。女性使用人たちが、たっぷりの白い布地を抱えて歩く姿が多い気がした。
マリアは同じメイドとして、昨日は久しく雨が降った事もあってか、本日に布類の仕事が詰め込まれでもしたのだろうかと想像した。日差しに干された物は、太陽の匂いがして好きだ。
「ねぇ、お嬢ちゃん。管理課までの近道があるんだけど、する?」
「雑談部屋を通過する案は、却下です」
隣からニールに質問された直後、マリアは目も向けないまま凛々しい表情で即答していた。あんなところ堂々と通れるか阿呆、と思った。
「なんだ、その近道知ってんだ。いろんな格好した面白い人が見られるから、楽しいよ」
「アレは仮装ではなくて、流行ファッションに目がない貴族の勝負衣装ですわ」
なんだあの仮装、とオブライトだった頃に驚愕して口にした事があるので、強くは言えないが。
あの時は、隣にいたレイモンドに「普段から、お前もアレを……?」と怖々と尋ねていた。そうしたら、「あんな悪趣味な格好するわけがないだろッ」と堪え性なく頭を叩かれたのを覚えている。
暇を持て余してている貴族社会では、国交がある先から仕入れた最先端ファッションやら文化で、一時的にそれらが流行るらしい。ただ、男女共にそれを身に付けたがるかどうかは、それぞれで違うのだとか。
マリアはそんな事を思い出しつつ、ニールの話を聞きながら広々とした廊下を抜けた。軍人や使用人たちがよく使う、やや細くなった廊下は小振りな窓が一定間隔で続いている。
その通路を歩きだしてすぐ、ふっと目が引き寄せられた。
どうしてか、真っ直ぐ強い視線を向けられたのを感じて、何気なく廊下のずっと奥にある突き当たりに目を向けた。
上げた視線の先で、小さな『黒』がふわりと揺れた。ローブの長い裾部分と共に、その人影がこの廊下の突き当たりから、左手通路へと向かって消えるのが見えた。
それが『黒髪』であると気付いて、マリアはハッとした。
待てよ、ここは王宮内だぞ? 亡霊だったとしても、そもそもココにテレーサが来た事はない。
そうすると、蘇った記憶のせいで風景に幻覚を重ねみているというのも説明がつかなくなるし、先日しっかり雨に打たれていた光景を思うと、やはりあの亡霊は実体もあるわけで……?
そんな事を考えている余裕は、すぐになくなった。細かい思考は頭から飛んでしまい、感情が取り乱されたマリアは、とりあえず追って確かめなければと、焦燥に突き動かされるまま訳も分からず走り出していた。
一体、何がどうなっているのかは知らない。どうしてこんなところで見るんだ、そう思いながら、たった数秒で廊下を走りきった。
後ろからニールが「お嬢ちゃん!?」と呼び、廊下内で数人の男女の使用人が驚いて道を譲っていた事に、気を配るだけの余裕もなかった。
マリアは、突き当たりを素早く曲がった。そこにローブ姿の者はなく、またしても『黒髪』だけが忽然と消えている現状に絶句する。
そこを歩いていた三人組の衛兵たちが、「なんだ?」と不思議そうにこちらを振り返ってきた。その様子を見るに、ここに飛び込んだのは自分だけであるらしいとも察せて、余計に訳が分からなくなった。
「チクショーまたか……ッ」
男たちが視線を戻してすぐ、マリアは思わず素の口調で吐き捨てて、隣の壁に握り拳の横を打ち当てていた。
彼女に関わる誰かなのか? それも、本当にテレーサの亡霊なのか?
昨日、帰りの馬車から飛び降りた時も、そうだった。御者の男も『わざわざ髪をローブの外側に出して、わざと見せつけるみたいに髪先を濡らす不審な女』など目撃していないと言っていた。誰よりも気配に敏感な【無音の暗殺者】であるサリーも、人の気配はなかったけれど――と不思議がっていた。
これまでの周りの反応を思い返すと、他の誰も、黒髪の人間なんて見ていないのだ。その現状を考えると、自分の目と頭がおかしくなっているのかとさえ思えてくるし、前世と今世の感情がぐちゃぐちゃになって、本当におかしくなりそうだ。
その時、横から宝石みたいな赤がひょいと視界に入って、マリアの混乱は思考と共にピタリと止まった。それは駆け寄ってきたニールで、十六年前と変わらない驚異的な童顔に、あの頃と全く同じ呑気な表情を浮かべて、こちらを覗き込んでくる。
「お嬢ちゃん、大丈夫? お腹がすき過ぎて、もうエネルギーが切れちゃった感じ?」
「…………」
おい……。おいニール、今の私を一体なんだと思っているんだ?
さっきもロイドに似たような評価を受けた事を思い出して、マリアは真面目な顔でそう思った。どいつもこいつも、か弱い少女に対して、失礼なイメージ像を抱えていやしないだろうか。
腹が減ったな、と真剣に考えて立ち止まっていた事があったのは、オブライトだった頃の話である。今は――……まぁたまにちょいちょいやってしまっている事もあるが、王宮ではやってない。多分。
そもそも、女の子に対して、その問いかけはどうかと思うのだ。
壁に拳の横を当てたまま、そう考えに耽って黙り込んでいた。すると、それをなんと思ったのか、こちらを覗き込んでいるニールが、閃いたと言わんばかりに人指しを立てて、調子よく解決案の候補を一つ挙げてきた。
「ジーンさんの部屋にさ、ちょうど下町のお菓子が沢山あるんだぜ」
「……ん? 待って、ちょっと待ってくださいニールさん」
そこで、マリアは彼に視線を返した。『ちょうど下町のお菓子がある』という言い方に引っ掛かりを覚えて、思考が通常稼働し始める。
「一つ確認したいのですけれど。……確かハーパーの件の後処理やらなんやらあって、彼は忙しいのが続いているはずでは……?」
「『こんなのやってられっか』『休憩だ』って言って、陛下と隠し通路から外に出掛けてたよ」
「…………その言い方からすると、もしやニールさん、それを見送ったんですか?」
「よく分かったね! 俺、留守を任されて、国王の間で『陛下のフリ』をやってたんだぜ!」
絶対にバレるだろ。あいつら、一体何やってんだ。
マリアは、自信たっぷりに言い切ったニールの、ここ一番の笑顔を見て唖然とした。というかアヴェイン、あの頃とちっとも変わっていないな、と思った。
「つまりニールさんが、代わりに王座に座らされていたという事ですか……。よくバレませんでしたね」
「バレたよ。あの直後にタイミングよく宰相が来て、腹押さえて即倒れてた」
その光景を想像して、マリアは多忙な宰相ベルアーノを思って同情した。あのアヴェインとジーンの事だから、分かっていてそのタイミングでやったのだろう。彼は重なる疲労に加えて、精神的なショックで胃痛を起こしたのかもしれない。
「…………まぁ『陛下』の椅子にお前が座ってたら、そうなるだろうなぁ……」
それにしてもまた黒髪かと考えながら、ぽろりと心の声が口から出た。けれどニールは気付かず、ある方向に目を留めて「あ」と声を上げていた。
「副隊長だ」
その声を聞いて、マリアは彼が見ている方へと振り返った。
向こうから歩いてくるのは、見慣れた長身の男で、現在もたびたびニールから『副隊長』と呼ばれている大臣のジーンだった。近くなった彼が「よっ」と片手を上げて、それから目の前で立ち止まるなり無精鬚を撫でて首を捻った。
「珍しいな。こんなところで、どうした?」
「ジーンさんこそ、どうしたんですか?」
「俺は友情レーダーにピンときたから、真っ直ぐここまで進んでみた」
ジーンはさらっと即答した。そんな上司を前に、ニールがきょとんとした様子で首を傾げる。
お前仕事はどうした、とマリアは彼の自由な行動っぷりを思った。そのよく分からない感知器官が、一体なんなのか本気で考えていると、思い出した様子でニールが口を開いてこう言った。
「お嬢ちゃん、ちょいちょい元気がなくなるみたいで、さっきクッキー食べたんですよ。それから珈琲とか調達に向かっているところっす。ただ、やっぱりお菓子が足りなかったみたいで?」
彼がそう言って、自分でもよく分からないという風に首を捻る。
そのざっくりとした報告を聞いたジーンが、「ふうん、なるほど?」と思案しながら言った。チラリとマリアを見やると、何やら察した様子で、ニールに視線を戻してから嘘臭いくらい爽やかな笑顔を浮かべた。
「ニール、悪いが俺の用事を頼まれてくれないか? ちょっと急を要するっていうか、『今のお前だけが頼り』なんだわ」
「マジっすか。――分かりました、全力疾走で遂行してきます!」
瞳を輝かせたニールを、ジーンはにっこりと笑って手招きすると、その耳元で指示を与えた。直後に「いってきます!」と言いながら鉄砲玉のように急発進した彼を、「頼んだぞ~」と呑気に手を振って見送った。
「さてと。これでニールは引き離せたわけだが」
「お前、あいつに何を頼んだんだ……?」
「ははは、ちょっとした『おつかい』だな。明日にでも頼もうかと思っていたんだが、先に済ませておく事にした」
そう言いながら、ジーンはマリアに向き直ると「まぁ気にすんな」と調子よく続ける。
「で、何かあったのか、親友よ?」
そう問われたマリアは、直前まであった自分の雑念が落ち着くのを感じた。必要な時に、本当に当たり前みたいにそばにいてくれた相棒だった。それを不思議に思って、今は随分身長差が出てしまった彼を、少しの間じっと見つめてしまう。
少し冷静に考える事が出来て、昨日と先程の『黒髪』について話す事にした。
いつどこで見たのか、とジーンが詳しく確認してきたので、時間と場所、それから当時の状況についても順を追って説明した。
「ふうん? 馬車の帰り道でも見掛けて、さっきもここで見たと」
ざっと聞き終わったところで、ジーンが思案顔で呟いた。
「忽然と消えるってのも、――なんとも亡霊みたいで、不思議な話だな」
そう彼が口にするのを聞きながら、マリアはゆっくりと視線を落として「……そうだな」とだけ相槌を打った。




