二十二章 少女と亡霊と毒薬学(5)下
ガラステーブルに置かれた皿には、大きなクッキーが乗っていた。
気のせいか、なんだか最近に見た覚えのあるクッキーに思えて、マリアは無意識に目頭を押さえて揉み解した。
貴族向けであるところを考えると、先日美少年集団が用意してきた『差し入れ』と、出所は同じような気がしてならない。むしろ、チョコがごろごろと混ぜられているところを見ると、まさに瓜二つであるとしか思えなくなってきた。
「おぉッ、デッカイクッキーだねぇ!」
「おいニール、二枚同時に取ろうとするな」
「いてっ」
早速右手で取り、それから続いて左手も伸ばしたニールが、そちらの手を軽く叩かれて引っ込めた。避難するように、ちょっと涙で潤んだ目をロイドに向ける。
「魔王ってば、前々からずっと思ってたけど、意外と礼儀作法に煩いからヤだッ」
「失礼な奴だな。そもそも、菓子を両手で食う大人がいるか?」
「ここにいるじゃん! 俺、そういうの大好きだよ!」
「自慢してくるな。お前が俺より年上だと思いたくない理由の一つが、ソレだぞ。おい、またやろうとするな、その左手へし折るぞ」
「ひっでぇ!」
自分を指して主張したニールが、ニコリともしない真面目なロイドを見つめながら「後輩の魔王が怖いんだけど!」と叫んだ。マリアとしては、それでも引き続き後輩枠に収めて接しているお前がすごいぞ、と遠い目をして思ってしまった。
というか、どうしてこいつと、お菓子休憩しなくちゃならないんだろうなぁ……。
十六年前のロイド少年が菓子を食べるところなんて、滅多に見なかった気がする。グイードがどうだと誘うたび、俺は子供じゃない、そんなもの食うかと嫌な顔をしていた覚えがあるのだけれど……。
そもそも奴は、甘い食べ物は平気なのだろうか。
マリアは、チラリと隣のロイドを見た。彼はこれといった怒気をまとっているでもなく、落ち着いた様子で腰かけていた。既に一枚目のクッキーをもしゃもしゃと食べているニールとは違い、わざわざ自分で取りに行ったというのに、菓子には手を伸ばしていない。
すると、彼の視線が、ニールからこちらへと移ってきた。パチリと目が合った途端に、その秀麗な眉が怪訝そうにそっと寄せられる。
「お前が最初の一枚を取らないと、俺も食えないんだが?」
「は……? え、なんで?」
心底不思議に思ったマリアは、疑問しかないという声を上げた。
その反応を見たロイドが、こちらの視線の高さに合わせるようにして、やや背を屈めながら「『なんで』と言われてもな」と、言葉を続ける。癖のない青味がかった黒に近い髪が、形のいい額でサラリと揺れるのが見えた。
「食べさせたいと思って持ってきた女より、先に食う男がいるか?」
そう言われて、マリアは目を丸くした。数秒かけてようやく、自分が気遣われているうえ、レディー・ファーストまでされているらしいと気付いた。
思い返せば、オブライトだった頃の自分もそうやっていた。女性が先に口を付けるまで出された珈琲や紅茶は飲まなかったし、テレーサに対して『お菓子を持ってくるから、待ってて』とやっていた事も思い出された。
とはいえ、それをあのロイド少年がやるというのも、なんだか意外である。そう考えたところで、マリアは「ん?」と首を捻った。
「というか、今、『食べさせたいと思った』って言った……?」
思わず確認してしまった。それこそなんで、と疑問が込み上げて見つめ返すと、ロイドがますます顰め面をして「悪いか?」と、当然のような口調で答えてきた。
「らしくなく元気がなさそうだったんでな。エルネギーでも切れているのかと思った、だから糖分だ。このクッキーだったら、三枚食えば十分もつだろ」
「ちょっと待って。ロイド様は、私を一体なんだと思っているんですか?」
そんな簡単にエネルギー切れは起こさねぇよ。
マリアは、自分が消費効率の悪い身体をしているという事を、都合良く忘れてそう思った。心外だと表情に浮かべたものの、ロイドがこうしたのは『元気がないから』というのが理由であったらしいと分かって、握りかけた拳はすぐ解けてしまってもいた。
よく分からないけれど、なんだか大人になった彼は変だ、という感想が浮かんだ。つい、じっと見つめ返してしまっていたら、向かい側からニールが「食べないの?」と訊いてきたので、マリアは「食べますわよ」と答えてから、ロイドに短く礼を言ってクッキーを手に取った。
一人三枚のクッキー。恐らくは、二十分という時間内であれば、女性でも十分に食べられる最大枚数だと考慮された数なのだろう。
自分だったら、そうしているから。
それを不思議に思いながら、マリアはクッキーを食べ進めた。チョコの部分が、とても甘いなと思った。
ニールは先に食べ終わっても、もっとちょうだいとは珍しく言わず、ソファの上で胡坐をかいて上機嫌そうにこちらを待っていた。男性にしては上品だとも思える仕草で、ロイドがクッキーをサクリと口にしながら、たびたび見てくる視線を感じた。
「――にしても、予想外に甘いな」
ようやくマリアが二枚目を食べ終わった時、自分のクッキーを完食したロイドが、指先をペロリと舐めながらそう感想した。
それを聞いたニールが、すかさず挙手をしてこう言った。
「俺には、ちょうどいい感じだった! 最近、どっかのサロンあたりで食べた気がする」
「おい、人様の物を取って迷惑をかけるな。行くならベルアーノかジーンか、レイモンド辺りにしておけ」
それはそれで駄目だろう、阿呆じゃないのか?
なんつう迷惑なドSなんだと思いながら、マリアは最後となる三枚目のクッキーを手に取った。許可するようなそのアドバイスを、ニールが本気にしませんように、と願うばかりである。するとロイドが、「さて」と言って立ち上がった。
「まだ時間はあるが、この俺が遅れるわけにもいかないからな。そろそろ行く」
マリアは、クッキーに小さくかじりついたまま、彼がソファの後ろに回る様子を目で追った。ニールがきょとんとした目を向けて、声を掛ける。
「もう行くの? 腹が減ってるんなら、もっと俺がクッキー持って来てあげてもいいよ?」
「おいニール。貴様、俺が空腹だからクッキーに付き合わせた、と誤解するのはヤめろ」
ロイドがピタリと足を止めた。
その回答を受けたニールが、のんびりと首を傾げる。マリアは、真後ろにいるロイドを見つめながら、口をもごもごとゆっくり動かしていた。
「あれ、違ったの? 俺さ、後輩が倒れるところは見たくないし、必要だったらひとっ走りするくらい全然いいけど」
「目の前の会話も耳に入らないお前の頭の中は、一体どうなっているんだ?」
「ロイドこそさ、一体何言ってんの?」
ニールは、馴染みのある名前を呼んでそう言うと、再びコテリと首を傾げる。それを見たロイドが、イラッとした様子で眉をピクリと反応させた。
「その間抜けな表情、実に苛々するな」
奴が話を聞かないのは昔からだ。マリアはそう思って、数会話だけでストレスがたまったらしいロイドに少しだけ同情した。やや殺気をまとった彼の黒に近い髪に、ふと、黒髪の件があったのを思い出す。
そういえば、それについては、どうしたらいいのか思案の真っ最中だったのだ。どうやって王宮から外出し、町に出掛ければいいのか。そして、いつそのタイミングが来て実行に移せるのか。
そもそも、一人で町を出歩けたとして、自分は一体何をどう探せばいいのだろうか。そうやったとしても、何か見付けられるという保証すらないのに。
この現状を思うと自分が情けない。ロイドなら、そんなに悩む事もないんだろうなぁと思った。彼はいつも的確に判断して、次の行動までの空白をほとんど作らない。頭を抱えてしまうほどのプライベートな悩みなんて、きっとないのだろう。
つい、マリアは食べる手を止めて考えに耽っていた。歩き出そうとした彼が、ふっと目を寄越してきた事にも気付かなかった。
「そうやってらしくなく『しおらしい』と、うっかり食べ物だって取られるぞ」
不意に、近くからそんな美声が降ってきた。
我に返ったマリアは、ソファの背越しに屈んでくる気配を感じた。「え」と思って振り返った時には、手に持っていたクッキーを、屈んできたロイドが小さく齧っていた。
すぐそばには美麗な顔があった。こちらの視線に気付いた彼が、チラリと目を向けてくる。
目が合った途端、彼が色気ある不敵な笑みをこぼした。少しだけ口の中に入れたクッキーを、目の前で悠然と食べてから、唇を舐めて「――ごちそうさま」と言った。
「は……?」
マリアは、遅れて呆気に取られた声をこぼした。女ならこれでイチコロ。そう分かってロイドがやっているのだと、元同性の元大人として察した。
不意打ちでされたせいか、それとも目の前で妖艶に微笑むドSが『そういったことに手慣れている』せいか。妙な気恥かしさがじわじわと込み上げたマリアは、その直後プツリときて、年下にしてやられたような『コノヤロウ……』という気持ちが湧き、久々に負けん気がつっつかれた。
元少年師団長だった頃の彼の方の記憶が長いせいか、なんか余裕綽々な大人ぶった様子がムカツいた。上等だコラ、と喧嘩っ気に火が付いた。
気付いたらマリアは、勝利の余韻のまま背を起こそうとしていたロイドのネクタイを、クッキーを持っていない手で思い切り掴んでいた。今の彼が『総隊長』であろうが関係無い、とオブライトの思考でぐいっと引き寄せる。
その直後、彼の形のいい唇にクッキーを押し込んでいた。こぼれた欠片がついた唇の端を、指で拭いながら、素の表情で強気な笑みを浮かべて見せる。
「なら、全部くれてあげますわ。――意外と甘いもの好きの、ロイド様?」
マリアは、彼を真っ直ぐ見据えてそう言った。近くなった距離で、クッキーで口を塞がれたロイドが、小さく目を見開いてそのまま動かなくなってしまう。
その様子を間近で目に収めたところで、よし、勝った、と思って「ふっ」と小さく笑った。クッキーは勿体ないが、しっかりやり返してやった満足感はあった。
年下の癖に調子に乗るなと、オブライトだった頃の心情で思いながら、彼のネクタイからするりと手を離した。
暴れ馬みたいだったあの頃に比べると、大人になった今の方が、少しだけ突き所もあるのだろうか。そう考えながら、案外ロイドも不意打ちに弱いのかもしないな、という有り得ない想像が過ぎって少しだけおかしく思った。だってそんな事、あの彼に限ってあるはずがないのに。
まぁいい、そろそろ時間だろう。長らく戻らなかったら、アーシュやルクシアに心配されてしまう。
ひとまずやり返して満足したマリアは、そう考えてソファから立ち上がった。口調だけメイドらしくすると「それでは」と言いながら、目も向けずロイドに片手を振って歩き出す。
ニールが「なんだ、クッキーが欲しかったのか」と頷いてから、「じゃあね」と告げてその後に続いた。
※※※
二人は早々に離れていったから、後ろでロイドが苦悩するさまには気付かなかった。
「くそっ、優位に立てたと思ったら…………この俺が、してやり返されるとか……っ!」
予想外の『やり返し』である。呻きながら片手で顔を押さえた彼は、ますます気になって勝手に考える俺も訳が分からんッ、と更に増した混乱に立たされた。
空き皿に気付いた男性使用人が、下げようと近づいたところで気付いて、幽霊を見るような目を向けた。彼は思わず立ち止まると、「え、総隊長がこんなところにいる……え? えっ?」と呟いて、しばらく動けないでいた。




