二十二章 少女と亡霊と毒薬学(5)上
ルクシアとライラック博士に新しい珈琲を持たせて、続き部屋に入るのを見届けたマリアは、アーシュが作業に戻る中、備え付きのキッチンの備品をチェックした。
最近は珈琲をよく飲むようになっていたので、先日に運びこんでいた珈琲の袋は、もう底を尽きそうになっていた。珈琲にシロップを余計に足すニールも加わり、そのうえグイードも飲んでいった事もあるだろう。
王宮に所属している課として申請すれば、管理課の現物支給窓口で無料で貰えるので、今の時間を使って、珈琲とシロップ類を調達してこようかなと考えた。
「一人で持てそうか?」
「うん、平気よ。お菓子の予備はまだあるから、今回は仕入れないし」
「ならついでにさ、備品申請でインクも頼んでいいか?」
「了解。んじゃ、後ほど」
マリアは言いながら、いつものように片手を振った。アーシュが普段と同じく、慣れたように返してくる「おぅ、気を付けろよ」という声を聞きながら、研究私室を出た。
※※※
離れから王宮の建物の廊下に上がり、管理課の窓口を目指して歩いた。そのまま公共回廊へ抜けるため、長い廊下を左手に曲がる。
その途端、マリアは思わず反射的に足を止めた。そこには、騒然として遠巻きに安全距離を取っている人々がいて、――その中心に、ロイドに頭を踏まれているうつ伏せのニールの姿があった。
「いやなんでだよ!?」
マリアは、人目も憚らず、つい叫んでしまった。
一体何がどうしてこうなっているのか、かなり訳が分からない阿呆な状況である。ロイドの方は軍服のマントも付けており、きちんと身なりも整えて装飾品もやっているので、恐らくは仕事の移動中だとは思われるのだが。
そもそも、いないと思ったら、こんなところにいたのかよコイツは!
美麗なドS野郎に赤毛頭を踏まれ、完全に沈黙しているニールを見て、何やってんだと思った。ロイドはかなり怒っているようで、その表情からは感情が抜けていて、絶対零度の眼差しを彼の頭に落としている。
「俺の目の届く範囲内で、風紀を乱すのは許さん」
不意に、ロイドの声が、低く地を這った。
その独白を聞いて、マリアはなんとなく状況を察した。どうやら、ニールはまたしても、通行女性のバストチェックとやらをしようとしたらしい。呆れと同情を覚えて「こいつも懲りないな……」と呟きながら、元部下に目を戻した。
チカン行為も、軍人同士の下ネタ騒ぎも許さないロイドの仕事姿勢は、昔から好感は覚えていた。男所帯とはいえ、上半身裸で走り回るのも許さなかったし、王宮の軍人として、身なりは普段から整えろとも口にしていた。
その事もあって、十六年前には王宮の軍区も、女性使用人がその方面の心配もなく安心して通れるようになったのだ。
そう思い返していると、ニールがハッとしたように意識を取り戻した。野性の勘でも働いたのか、ガバリと顔を上げた直後に目が合った彼が、少し目を見開いて「あ」と言ったかと思ったら、パッと表情を明るくした。
「お嬢ちゃんヤッホー! 数日ぶり、元気にしてた? もしかして今、散歩中なの? それなら、俺ちょー暇してるから付いて行ってもいい?」
「………………」
コイツは、阿呆なのではなかろうか。
正直、このタイミングで、その台詞はどうかと思う。
マリアは、この現状を忘れているのだろうかと思って、彼の記憶力について真剣に考えそうになった。普通にそう言ってきた元部下が、元上司としてかなり心配である。暇をしているという台詞で、ロイドのまとう空気が五度下がっていた。
へたをすると、怪力持ちのロイドに、そのまま足で頭を踏み砕かれるのではないだろうか。そんな想像が脳裏をかすめ、かなり加減されて踏んでいると分かる軍靴をチラリと見やった。
その時、遅れて気付いたロイドが、殺気を半分ほど解いて顰め面を向けてきた。そんな表情をしていても美しい男で、通り過ぎる女性陣が、惹かれている目を遠巻きにチラチラと寄越している。
パチリと目が合った途端、彼がニールを踏みつけた姿勢のまま動かなくなった。殺気が消え、威圧とも牽制とも推測がつかない奇妙な沈黙が、彼とその周りを包み込む。
マリアは、しばしロイドと見つめ合っていた。彼の事だから、何かしら先に声をかけてくるだろうと待っていたのだが、数秒経っても動く気配はなくて、問うように少しだけ小首を傾げて見せる。
すると、こちらを見ているロイドの下から、ドゴっと音が上がって「ぐぇっ」という声も聞こえた。
「? ロイド様。下にいるニールさんの顔面が、地面に埋まりましたわよ」
不思議に思いながら、マリアはニールの方を指して、そう教えてあげた。ロイドが足元の惨状に目を向けると、何かしら頭の中で反芻するような間を置いて、大人しいままそっと足を退かした。
「……ニール、死んだか?」
「……俺を勝手に殺さないでよ魔王、生きてるよ。けど、すぐ動くのが無理ってだけ……」
「……そうか」
先程は、うっかり足元に力でも入ってしまったようだった。ちょっとは悪いと思っているらしい様子もあって、それもそれで珍しいやりとりである気がする。
そう思ってマリアが見つめていると、手でニールから『俺、勝手に起き上がるから』と伝えられたロイドが、視線を返してきた。随分背が高いからか、距離が開いていても見下ろされているように感じた。
「マリア。そんなところに立っていないで、近くに寄れ」
「ストレートな呼び捨てはどうかと思います、ロイド様。何かご用でもあるのですか?」
訝って尋ね返しつつも、マリアは起き上がるニールが気になって歩み寄った。彼は踏まれていた頭を撫でながら「ひどい目に遭った」と口にしており、ざっと見る限りでは、少し襟元が乱れているくらいで怪我もなさそうだった。
どうやら、何割かのダメージは、またしてもどこかへそらせたらしい。本当に手先が器用というか、一体どういう手品を使っているのか不思議である。
「それで、お前はどうしてここを歩いている? 近くに文官やルクシア様もいないようだが」
「珈琲の在庫がそろそろ切れそうなので、調達しようかと思いまして」
近くに流し目を向けたロイドを見上げて、マリアはそう答えた。すると、隣に並んだニールが「はい!」と近くから挙手をしてきた。
「お嬢ちゃん、角砂糖も必要だと思うよ!」
「ニールさんは、お砂糖を入れ過ぎですわ。紅茶にした方が早いかと」
「ヤだよ、だって甘くした珈琲が美味いんだもん。ミルクたっぷりのやつとか」
お前の場合、牛乳に珈琲を少し足したうえで、シロップも投入していただろ。
マリアは、ニールがやっていた独特の飲み方を思い出しながら、心の中でそう呟いた。牛乳にジャムも入れてぐるぐるとかき混ぜているのを見て、グイードが初見の際に絶句していたものだ。それでは身長が伸びる効果も生まれないのではなかろうか、と、当時オブライト達の意見は一致していた。
「――まぁ、使いきりの少量タイプのものだったら、封を開けない限り少し保存もききますけれど。ニールさん、牛乳とかも置いておきましょうか?」
美味しそうに飲んでいた当時の彼の表情が思い出されて、つい、そう尋ねた。昨日のショックは完全に癒えていなくて、なんとなく厳しくしたくない気持ちもあった。
そうしたら、ニールが素早くこちらを見つめ返して「いいの!?」と言った。
「やったね! なら、しっかり荷物持ちするよッ。ルクシア様とアーシュ君にも、大人として俺の美味しい珈琲の飲み方を教えてあげるんだぜ!」
それ……多分、提案時点で断わられる気がする。
マリアはそう思ったものの、指摘しない事にした。元気いっぱいに笑う彼を見たら、なんだか元気を分けられるみたいに少し気持ちも軽くなってくれて、素の表情を滲ませて困ったように小さく笑った。
ここ最近、ずっと頭を悩ませている『黒髪の件』を、どうにか自分なりに考えて、なんとかしてみようと思った。
すると、秀麗な肩眉をピクリとさせて、ロイドが真っ直ぐ見下ろしてきた。どうしたんだろうと思って小首を傾げて見せても、彼の切れ長の濃い紺色の瞳は、引き続き観察するみたいにじっくり見つめてくる。
不意に、ロイドが落ち着いた表情のまま、ぽつりとこう呟いた。
「なんか、らしくないな」
「へ……?」
「何があったのかは知らんが――」
そう言いながら、思案した彼がマントを揺らして踵を返す。そして、肩越しに視線を戻してくると、こう続けた。
「――どうせ、少しくらい時間はあるんだろう。なら、ついて来い」
マリアは、少し遅れて、自分が彼に誘われている事に気付いた。思わず「ん?」と疑問の声を上げる隣で、ニールが「魔王、どこ行くつもりなんだろうね」と言った。




