二十二章 少女と亡霊と毒薬学(2)
ずぶ濡れで帰ってきたマリアを見て、まず玄関先で執事長フォレスが目を丸くした。雑用係りとして手伝わされていたらしいマークとギースが、揃って口をあんぐりと開ける。
突然の事で驚いたリリーナも、車内では少し落ち着いた様子ではあった。けれど気心知れた『家族』である使用人たちを目にしたかと思うと、心配そうに瞳を潤ませて、侍女長エレナの腕の中に飛び込みスカートに抱きついた。
「エレナ。エレナ聞いて。マリア、お腹の調子がよくなくて飛び出したみたいなの。だから休ませてあげて。お願い、私、心配なの」
リリーナは言いながら、ぽろぽろと泣き出してしまっていた。
元気で健康なあのマリアが『腹痛』なんて、きっと王宮の勉強も大変で、疲れが溜まってしまっているんだわ。主として無理をさせてしまったのかしら……私のメイドなの、どうかお願い、とリリーナは幼い声で訴える。
物心付いて、初めて対面した自分専属の使用人が、マリアとサリーだった。おそばに居ます、と片膝をついてそれを伝えられた時、誰よりも大切にしたいと言ったのは、リリーナ本人だったのだ。
まだ十歳なのに、彼女は主としての責任を理解している。だから、自分が無理をさせたせいかもしれない、残りのお仕事にすぐ戻れない事を怒らないであげて、と必死に懇願していた。
そんな事で怒る使用人なんて、いない。ましてや『旦那様』が叱り付けたり、それだけで罰を与えるのも有り得ない話だった。体調が思わしくないのに無理をさせてしまう方が、『家族』として心配してしまうだろう。
侯爵家令嬢の専属メイドであるマリアは、上手く表情が作れなくて、視線を落としたままでいた。
先程、戻った馬車内で咄嗟に『ちょっと腹事情が』と言い訳しておいたが、やはり普段みたいに幼い主人に必要な嘘を付く余裕もない事を思って、ただ詫びるしか出来なかった。
「本当に、申し訳ございません…………」
唇からこぼれ落ちたその声は、弱々しく掠れていた。リリーナを泣かせてしまった、心配させてしまった、それだけでも何十倍のショックが重なっている。
自分の中の混乱が落ち着くどころか罪悪感に蝕まれ、もう申し訳ない気持ちで死んでしまいそうだった。短い間に重なった出来事に対して、頭と心の整理が追い付かなくて吐きそうだ。
こっそり移動したサリーが、自分より数歳年上のギースの腕を掴み「ぼうっとしてないで、タオル持ってきてッ」と珍しく強めの口調で言った。マリアと同じように濡れてしまっている彼に気付いたギースが、コンマ二秒遅れて「お、おぅ!」と答えて走り出す。
執事長フォレス達の視線を受け取めた侍女長エレナが、走って行く弟ギースの後ろ姿をチラリと確認した。それから「大丈夫ですわ、お嬢様」と言って、リリーナを優しく抱き締めた。
「マリアは、私達の方で休ませます。こんなに雨が降っていますもの、そのせいでお腹も冷えてしまったのかもしれませんね」
「お医者様を呼んでくれる? あのユニークなお鬚のおじい様なら、きっとなんでも分かると思うの。いつも、魔法みたいに飛んできてくれるでしょう?」
「そうですわね。主治医の彼を手配致しますわ」
エレナがそう答えながら、駆け付けたマーガレットと共に、リリーナをリビング側へと誘導する。
あの老人は、『表』ではきちんと免許も持っている名医だったなと、マリアは『暗殺屋』をぼんやり思い出した。すると、遠くなっていくリリーナの後ろ姿を見送りながら、フォレスが歩み寄ってさりげなく問いかけてきた。
「マリアさん、医者の必要はありますか?」
「いいえ、必要ありません。…………フォレス執事長、本当にすみませんでした。リリーナ様を泣かせてしまった――」
「そうご自分を責めてはいけません。若い主人と使用人には、たびたびそういう事もあります。あなたは、まだ十六歳ですからね。後は、エレナさん達が上手くやってくれるでしょう」
その時、パタパタと足音を響かせて、ギースが戻ってきた。彼はふわふわとした白い大きなタオルの一つを、「俺、結構早目に戻っただろ」と言いながら、不満な表情を返したサリーに向かって投げて寄越すと、続いて躊躇なくマリアの頭の上から被せた。
間に入られたフォレスが、背筋を伸ばしたまま、その様子を無言で見下ろした。水分を吸収させるように、ギースが両手で不器用そうにタオルの上から『そっと慎重に押して』拭い始める中、マリアもしばし沈黙していた。
「…………ギース。あなたは、もう少し異性に対する気遣いと、空気を読む事を覚えた方がいいでしょう」
「えっ。執事長、俺、だいぶ力加減出来ていると思いますけど――もしかして痛かったりするか? マリア、平気か?」
「……まぁ、昔に比べれば全然大丈夫よ。そもそも痛かったら、即殴り返してる」
その手付きは慎重なので、うっかり頭蓋骨を潰される心配だってない。
そう思いながら答えたら、ギースが「殴り返すのかよ!?」と言った。マリアとしては、力加減ではなくて、予告もないこの雑な対応力を指摘されていると気付かないのかな、と考えていた。
そばにいたマークが、やれやれと肩の強張りを解いた。見た目の儚げ美少年という容姿のイメージと違って、サリーが自分の頭を大雑把に拭いた後、猫みたいにぶるるっとするのを見る。
「そうしてると、まぁまぁ男らしいんだけどな。……エレナ侍女長に見られたら、品がないって確実に注意されるだろうけど」
「おいマーク、一体何事だ?」
その時、一つの野太い声が上がった。
それは料理長のガスパーで、マークが振り返りざま「あ、料理長」と口にしてから、「ご覧の通りっす」と肩をすくめながら、最年少の男女使用人を示した。
ガスパーが目立つ橙色の頭を傾げて、それから問うような顰め面をサリーに向けた。目が合った彼が、小さく首を振るのを見て、仕方なしにマリア本人へと目を向ける。
「随分びしょ濡れだな。馬車から飛び出したりでもしたか?」
「うん、その……もしかしたら確認が必要な相手かもしれないと思って、状況把握のために」
道中、リリーナを守るのが役目だ。その必要があってそうした――というニュアンスでマリアは答えた。ギースが頭を拭いてくれているおかげで、視線を上げずに済んでいる状況には、感謝を覚えてしまう。
それを聞いたフォレスが、冷静顔のまま「なるほど」と相槌を打った。
「何事もなくて良かったですね。外で殺す必要がある相手と出会っていたのなら、『処理屋』の手配もしなければなりませんが、今回は、それもなかったという事でしょう」
ひとまずは一件落着、というように彼が言葉を締める。すると、ガスパーが身体が温まる料理を作ると話し出した。
その時、階段の上から小さな悲鳴が上がった。
「マリアもサリーも、ずぶ濡れじゃないの!」
そう叫んだのは、上の階から顔を覗かせたカレンだった。彼女がそのままメイド服のスカートをふわりとさせて一階に飛び降りるのを見て、フォレスがキリリとした白髪交じりの眉を少し寄せて「カレンさん……」と諦めたような声で呟く。
「私がお風呂に入れてあげるから、いらっしゃい!」
「ぼ、ぼぼぼぼ僕はいいよっ。自分で入れるから!」
腕を掴まれたサリーが、途端に慌ててそう言った。ガスパーが冗談だと思って「サリー坊やは得だなぁ、ははは」と笑い、それからギースを呼んで厨房に戻るべく歩き出した。
フォレスが額に手をやり、小さく溜息をこぼす。彼がサリーを助け出そうと口を挟もうとした時、今度は階段の向こう側から双子のメイド、姉のナタリーと妹のミリーが現われてひょっこり加わった。
「カレンったら、なんだか面白い提案をしているわね」
「お姉さん達、そういうの大好きよ。混ぜてちょうだいな」
声を掛けられたカレンが、振り返ったところで「あら、ナタリー姉さんとミリー姉さん」と返事をした。大きな眼鏡を片手でかけ直しながら、クスクスと妖艶に笑む『今は完璧な淑女なメイド』の格好をしている先輩使用人たちに、持ち前の気の強そうな目を向けて、こう言葉を続けた。
「実はね、マリアとサリーを、大浴場に入れてあげようと思うのよ」
「それはいいわね。旦那様が新しい入浴香料も買ってきてくれているし、あれ、お肌つやつやになるのよね。ねぇミリー、どう思う?」
「それは素敵ね。ついでだし、私も一緒に入ってしまいたいわ、ナタリー。お仕事に空きが出来るなら、カレンもどうかしら?」
サリーがカレンに腕を掴まれた状態のまま、そんな三人の女性陣の会話が弾んでいた。その様子を窺がっていたマークが、恐ろしいと言わんばかりに口許に手をあてて「サリー、可哀そう……男枠に思われてない」と激しく同情したように言う。
不意に、きっちりと髪も結い上げているナタリーとミリーの、よく似た笑顔が、ぐるりとマークに向いた。
「マークもどう?」
「いや待て、なんで俺も誘う!?」
「お姉さん達、混浴も大歓迎よ」
「断る! 俺はゆっくり入りたい派なんだ。――それにな、お前らは事前に注意していても、勝手にタオルを外すだろうが!」
ぎゃいぎゃいとマークが言い返し、双子メイドがクスクスと悪巧する目で笑う。その横で、口を挟むタイミングを待っていたフォレスが「そもそも、そんな事は許可しません」とキッパリ言った。
その普段からある賑やかな声を聞きながら、マリアは頭からかけられたタオルに手を伸ばした。リボンを解くのも忘れて、形ばかりゆっくり拭いにかかりながら、先程の出来事を考える。
馬車の窓から、確かに見えたのだ。ローブのフードからは、長い黒髪が垂れていた。降り注ぐ雨が当たっていたから、確実に存在しているのだろう。
いたずらだったとしたら笑えない。けれど、隠れる場所もない道の途中で消えたとなると、まさか本当に、幽霊だったりするのだろうか……?
考えるほどに分からなくなる。黒髪というキーワードで『テレーサ』が思い出されるため、強い動揺が込み上げて、いつもなら出来るはずの冷静な思考を邪魔している気がする。我を忘れて、走行中の馬車から飛び降りてしまうくらいに。
その時、マリアは左右からむぎゅっと抱きつかれた。柔らかな体温に包まれた瞬間、思考がピタリと途切れて「へ?」と間の抜けた声を上げてしまう。
「こんなに冷えちゃって、可哀そうなマリア」
「大丈夫よ、お姉さん達が温めてあげるからね」
それは、ナタリーとミリーだった。
マリアは、脱兎の如く逃走するマークの後ろ姿に気付くと、身長差的に胸があたって息苦しさを覚えつつ「必要ないんだがなぁ……」と素の口調で呟いてしまった。シャワーを軽く浴びる予定だったので、そもそも湯を使うつもりもないし、一人でさくっと湯浴みを済ましてしまいたい派だ。
そう教えようとしたのに、らしくない失態を思い出して気分が沈んだ。そうしたら、励ますように「いい子」と頭を撫でられて、もっとぎゅっと抱き寄せられた。
「大丈夫よマリア、大丈夫。私達だって、若い時は旦那様を心配させたりしちゃったもの」
「相談したくなったら、いつでも言ってね。私達、家族なんですもの」
素敵よねぇ。私たち昔、本当はずぅっと、とても家族が欲しくてたまらなかったのよ……――似たような声を揃えて、そんな独白が聞こえた。
マリアは、言うととても辛くなってしまう事だってあるから、言わないでおいた方が幸せな事もある、と口にしていた彼女たちを見上げてしまう。
秘密は女を魅力的にして、もっと強くしてくれる。よくナタリーとミリーは、そう口にしていた。それがどういう意味かは分からないけれど、無理に訊き出さない姿勢は、他の皆がそうだった。その気遣いを有り難いと思ったマリアは、「ありがとう」とぽつりともらした。
「よっしゃ! こうなったら、『カレンお姉さん』が連れて行ってあげるわ!」
ようやく、ふっと微笑んでくれたマリアを見て、カレンがテンション高くそう言った。使命感にスイッタでも入ったのか、すっかり腰の引けた状態でいる、庇護欲そそる小動物系なサリーに飛びかかった。
しかし、カレンの後ろ襟首を、執事長フォレスが初老と思えない機敏な動きと力で、右手一つでキャッチして掴まえた。
「ですから、許可しないと言ったでしょう。あなたは、準備だけ手伝っておあげなさい」
それから、とフォレスは続けて双子のメイドに目を向ける。
「あなた方は、速やかにお仕事にお戻りください」
途端に二人が手を離しながら、「つまんなーい」「けちー」という可愛らしい声で言った。
その直後、猫みたいに持ち上げられたままのカレンが、勢いよくフォレスを見て「入浴の世話が駄目でも、マリアの髪くらいはお手入れしてもいいでしょう!?」と言って、必死に要望を伝えた。
「たっぷり量があるのに、すごくイイ手触りなのよ!? それなのに、この子放っておいたら面倒くさがって、大事なケアの一つや二つをすっ飛ばしちゃうんだもの!」
「…………分かりました。それでは――」
「それから、サリーの髪もやりたいです!」
素早く挙手しながら、カレンが彼の言葉を遮ってそう主張する。
フォレスが、珍しく沈黙した後、「……ご自分が猫みたいに持ち上げられている事を、先に何かしら言うべきではないでしょうか」と言った。この時に限って全く意識していないカレンが、本来の口調で「何が?」と口にして、首を傾げた。




