二十二章 少女と亡霊と毒薬学(1)
鮮やかな赤毛だと、昔からよく言われた。ド変態の青い目と同じく、稀にない生粋の色素なのだと、よく分からない事をキザな伯爵様に言われた。
でも、一言伝えたい。
俺と奴を並べないで欲しい。
臨時班として、また『隊長』と『後輩』と任務にあたった時――
目の前に飛び出して、庇うように立った小さな彼女を見た。女の子らしい長いダークブラウンの髪が、リボンと共にふわりと揺れる光景の刹那に、俺の中の時間がピタリと止まった気がした。
どうしてか、胸がギシリと軋みをあげた。
ひどく懐かしくて、悲しくて。守らなきゃならなかったのに、と、後悔のように押し寄せるモノに、心と本能が悲鳴を上げて……。
だから俺は、俺が壊れないうちにそれを忘れる。
あの直後、頭に落ちてきた懐かしい衝撃と、昔よく聞いていたような説教の一喝と共に、覚えた疑問も思い出しかけた何もかもを、俺は忘れたのだ。
※※※
友人だった国王陛下のアヴェインと、まさか顔を合わせる事になるとは思っていなかった。外に出ると、変わらず視界が悪いほどの大雨が降っていて、送られる馬車の用意が整って乗り込むまでに、いつもより手間と時間がかかった。
「お帰りの時刻を把握していながら、このようにお待たせしてしまう事になってしまい、本当に申し訳ありませんでした」
出入りする馬車を任されている男が、リリーナとサリーが先に乗車したところで、マリアにそう謝った。
雨避けが付いた乗車場は、2台分のスペースしかない。中央軍の専用馬車が停められたままであったのも予定外だったし、仕方のない事でもある。本日は来訪者も少し多いようで、下車待ちの貴族の馬車も順番を待っていた。
「大丈夫ですわ。待っている間、お嬢様も雨の景色を楽しんでおられましたから。雨の中で、皆様が雨具を着用してお仕事で走り回っている姿を見て、少し心配されていたくらいです」
「そう言って頂けると助かります。我々は大丈夫ですよ、とリリーナ嬢にはそうお伝えください。それから、今回の件につきましては、今後同じような事がないよう再発防止に努めます。各担当官との連絡ミスがあったのか、少し手違いがあったようでして……申し訳ございません」
手違い、というのを、最近耳にしたばかりのような気がする。
なんだったかな、と思い返そうとしたマリアは、ふと、こちらの様子を窺ってくる御者の視線に気付いた。待っている馬車の存在を思い出して「これで失礼致しますわ」と、メイドらしく挨拶を取ってから、男に別れを告げて馬車に乗り込んだ。
サリーの隣に座っていたリリーナは、じめじめとした雨の空気も気にならないようで、とても上機嫌だった。馬車が走り出してすぐ、大きな藍色の瞳をこちらへと向けて「ねぇマリア」と、蜂蜜色の髪を揺らして振り返る。
「あのドレス、とても良かったでしょう? 今度クリスと初めて出席するパーティーで、着ていいって言われたの」
「リリーナ様のお可愛いらしさが、より引き立てられた素敵なドレスでしたね。私も、先にお披露目用のドレス姿を拝見出来て、とても嬉しかったです。雨に濡れてしまわないよう、大事にしまって荷台に運び入れてありますよ。当日が楽しみですね」
うっかり膝から崩れ落ちたが、鼻血は出していなかったから、セーフだ。
マリアはそう思いながら、へらりと笑ってしまいそうな幸せいっぱいの表情を、どうにか引き締めて爽やかな笑顔で答えた。そのキラキラとした、どこか紳士らしい雰囲気のある表情と余裕そうな態度を見て、サリーが小さく苦笑している。
「私ね、リボンは水色にしましょうって、クリスとお話しているの。マリアの瞳の色よ。とっても気持ちいいお天気の時の、空の色ねって皆も言っているの」
「ははは、それは光栄です。どこにでもあるような色かとは思うのですが、リリーナ様が気に入ってくださるのなら、私にとっても誇らし――」
「マリアの瞳、私、大好きよ! それから、ぎゅっとしてくれるところも、全部好き!」
満面の笑顔と共に、キラキラと濡れたつぶらな瞳を真っ直ぐ向けられている。元のドレスに着替え直したスカートの下で、床に届かない足を少しパタパタとさせて、リリーナがいかにも『して』と言わんばかりに、幼さがある両手をこちらに向けていた。
これで断れる男――違った、メイドがいるだろうか。
マリアは表情も取り繕えないまま、真顔でそう思った直後には、コンマ二秒でリリーナを抱えて自分の席に戻っていた。ぎゅっと抱きしめ返してくる柔らかな子供の温もりと、「大好き」と顔をぐりぐりしてくる仕草とか、彼女のいい匂いとかで思考が全部持っていかれそうだ。
まずいな、これは最高すぎる。
これはもしや、何かヤバイ事でも起こる前触れなのだろうか?
マリアは、至極真面目にそう考えてしまった。向かい側の席に残ったサリーが、少し癖が入ったリリーナと同じ蜂蜜色の頭髪を、困った様子でやや右側に傾げる光景もバッチリ目に収めていた。令嬢付き侍従の、相変わらずの美少女っぷりな姿を見つめて言う。
「サリー、リリーナ様が可愛すぎるんだが」
「表情だけじゃなくて、口調もおかしな事になってる…………。アローさんが、マリアを連れきていいよって提案してくれたのが、お嬢様はとても嬉しかったみたいだよ」
それを聞いたマリアは、リボンを本体扱いして見てくる、例の近衛騎士隊長を思い返した。第四王子クリストファーの私室に一旦戻る道のりで、愛想良く話しかけられていた。
いかにも人が良さそうな男で、道中は仕事らしい話だって一切なかった。リリーナやクリストファーとも打ち解けていて、年上のお兄さんが面倒を見ている、みたいな雰囲気が漂っていたのを覚えている。
そんなアローが、ヴァンレットと合流して早々、彼に付いていた部下からこっそり報告を聞いて「え」と固まっていた。それについては、一体何があったのか少し気になっているところではあるが。
「ヴァンレットさん、機嫌が良さそうだったね」
「そうね。『うむ』の言い方が、いつもより元気いっぱいで――」
サリーに質問されたマリアは、思い返しながら答えようとしたところで、腕の中のリリーナが身動きする様子に気付いた。ふっと微笑んで、優しく手を解く。
「サリーのところへ、戻られますか?」
「うん! おリボンをしてあげる約束だったのよ」
…………ん? リボン?
マリアは、しばし考えた後、固まらせた笑顔をゆっくりとサリーへ向けた。彼が、戻ってきたリリーナを「馬車が揺れていますから、お気を付けて」と、手を取ってエスコートしてから、こう言った。
「絵を描いてもらう前に、支度を整えられていたお嬢様を担当していたメイドさん達に、どうしてか女装させられそうになってしまって……」
そこで言葉を切り、サリーが困ったように微笑した。どうやら、その状況を回避するために出した代案だったようだ。けれど、どうしてだろうね、という眼差しの問いかけに関しては、マリアは答える事が出来なかった。
多分、物凄く似合うから、ではないでしょうか。
だって、リリーナと並べるとその髪の色もあってか、もはや『姉妹』のようにも見えるのだ。胸がぺったんこなのに、町を通る旅人に「こんな可愛い男がいるもんかッ」と、信じてもらえなかった事も何度かあった。
本人は少し気にしている部分でもある。だから、彼よりも少しだけ戦闘使用人として先輩でもあるマリアは、そっと視線をそらして回答を避けた。そういえば一目惚れしましたと、告白してきたお騒がせな事件もあったよなぁ、と、つい思い返してしまう。
「それにしても、ずっとやまない雨ね。アルバートお兄様が帰ってくる時は、少しやんでくれているといいなぁ」
ポケットから細いリボンを取り出したリリーナが、そう言って、勢いが止まらない様子の珍しい雨に目を向けた。サリーが「そうですね」と答えて、少しだけ強めに揺れた馬車から守るように、さりげなく彼女の身体を支える。
マリアは、走行を続けている馬車の車窓を見た。流れていく風景は霞んでいて、雨の降る音が鈍く聞こえ続けている。見慣れた王都の町並みであるせいか、視界が悪くとも、ここがどこの通りであるのかは分かった。
こんなに雨が降っている時は、出歩く人も少なくなる。誰もが傘を差していて、作業にあたる人間は雨具を着用してフードを被っていた。空を見上げる余裕もなくて、人々は雨粒が叩きつける地面を見つめながら足早に歩いている。
商業用の建物だけではなくて、大きなアパートメントも多い通りだ。大通りには、少し大小に差があるだけの建物がズラリと並んでいる。数軒並んで、小道を挟んで、また大きな建物が少しづけ続いて……それが、車窓から流れていくのを、マリアは目で追っていた。
不意に、マリアは空色の目を見開いた。
その直後、気付いたら考えも無しに動き出していた。車窓から風景が流れていくほど、その場所が遠のいてしまうという事実に急かされ、出来るだけ離されたくなくて、御者席に繋がる小窓を思い切り叩いて叫ぶ。
「すみませんっ、馬車を止めて!」
サリーとリリーナが驚く中、マリアは御者の反応も確認しないまま、動き続けている馬車の扉を開け放った。その途端に大きな雨粒が、痛いくらい顔や全身を冷たく打ってきた。
ようやく減速を始めたばかりの走り続けている馬車から、躊躇せず飛び降りた。直前に車窓から、こんなにひどい土砂降りだというのに、フードから長い黒髪を覗かせた人物が、まるでこちらを見ているように立っている姿が見えたからである。
そんなはずはない。どうして、またしても見るんだ、と思った。けれど思考は、傷む心で混乱し状況整理も追い付かないでいた。
その『黒髪』の人物が頭から被っていたフード付きの雨具は、確かに雨に打たれていたのだ。つまり幽霊ではない……? 実際に存在していて、それは自分の幻覚ではないという事か……? それを確かめたかった。
マリアは土砂降りの中、全身を雨に濡らしながら、先程車窓から見えた場所まで全力で走った。こんなにひどい雨なら、自分と同じようにすぐに移動する事は出来ないだろう。
擦れ違う数少ない通行人たちが、不思議そうに見ていく視線にも気付かなかった。無我夢中で走って、その人物が立っていた場所に踏み込む。
ざっと辺りを見回した。それから、ハッと気付いて、唯一近くにある小道に曲がってみた。けれど、そこには雨具を着用している人の姿はいなくて、マリアは呼吸を忘れたかのように、とうとう目を見開いたままピタリと立ち止まってしまう。
そこに唯一いた傘を差した青年が、パシャリ、と上がった音に気付いて「あ?」と振り返る。それから、ずぶ濡れのマリアを見てギョッとした。
「おいおいおい、お嬢ちゃん大丈夫かよ。何があったんだ? なんか事件にでも巻き込まれたのか?」
「………………すまないが、ここに……ここを曲がって来た人は、誰かいなかったか? もしくは、この通りを走っていく『黒髪』を見掛けたりは?」
どうにか目を向けて、マリアはそう声を絞り出した。
視線が合った青年が、困ったように「事情持ちか?」と片手で頭をかくと、小さく息を吐いてこう続けた。
「まるで幽霊を見たみたいな表情だなぁ。俺は、ここでは誰も見てないよ。そこのデカい通りを、誰かが走っていく音だって聞いてない。お嬢ちゃんが誰を捜しているのかは知らないが、反対側の通りにでも進んだんじゃないか?」
それだと、走っていた時に擦れ違う事になる。でも、見なかった。
マリアは、そう自分が馬車を飛び降りて走ってきた道のりを思いながら、目を落とした。彼が「大丈夫かよ」と心配になって歩み寄り、傘を少し差し出して雨を遮る。
その時、どこからか雨の中を走る、小さな音が聞こえ始めた。続いて、マリアを呼ぶサリーの声が近付いた。




