二十一章 亡霊と前世代と次世代(7)中
案内されたのは、扉のない大きな部屋だった。
並んでいるテラス付きの大窓から、雨の音が入ってきている。そこに足を踏み入れた途端、マリアは愛らしい主人の声を耳にしてガバリと目を向けた。
「あっ、マリアだわ!」
そんな呼び掛けと共に目に飛び込んできたのは、テラス側寄りに設置された、三人掛けのアンティーク基調のソファだった。その上には、左右を大きなクッションに挟まれて、中央に並んで仲良く腰かける十歳のアーバンド侯爵令嬢リリーナと、第四王子クリストファーの姿があった。
リリーナは絵を描いてもらうため、王宮側で用意されたドレスに身を包んでいた。秋先の花をイメージされた明るい色に、レースが多くあしらわれている物だった。座っていても尚、ふわふわとした感じが可愛らしさを引き立てている。
その隣には、スカートに華奢な太腿を少し埋もれさせる形で、クリストファーがちょこんと腰かけていた。丈の長いジャケットの内側からは、首周りがふんわりとする同じ素材の生地が使われたシャツを着込んでいる。
リリーナが笑顔を輝かせた事に気付いて、すぐにクリストファーも「あっ、『マリアさん』だ」と、すっかり懐いている様子で名前を呼んだ。
「私、マリアに見せたいと、ずっと思っていたのよ! 見てッ、このドレス、とってもふわふわしているでしょう?」
「腰の飾り紐は、僕とお揃いなんだよ。マリアさん、来月のパーティーも、リリーと僕と同じリボンで揃えようね! 実はね、当日に間に合うように『三つ』作ってもらっているんだ」
急に元気が増したかのように、リリーナとクリストファーが大変懐いた雰囲気で、そう可愛らしく教えてくる。床に届いていない足元が、パタパタと動いていて、より二人の感じているらしい嬉しさが伝わってきた。
入室するまでの間、冷静でいようと己の鋼の精神力に言い聞かせていたつもりだった。けれど、期待はどんどん膨れ上がり、想像以上の愛らしさを放つ二人の十歳の子供を前に、もはや興奮は一気に最高潮へ達してしまっていた。
マリアは、その光景を目に焼き付けた直後、膝から崩れ落ちた。その部屋に足を踏み入れて、たった数秒しか経っていない状況での事だった。
なんって可愛らしいんだ、まさに天使!
是非、近くで名前を呼んでくれ。耳に焼き付けたい。
頭の中が騒がしいまま、マリアは声を押し殺してぶるぶると感動に震えた。どうにか鼻血は出さずに済んだものの、口からこぼれそうになる男としての台詞を押し留めるべく、手で塞いで必死に耐える。
筆を握っていた老いた絵師が、つい手を止めて、口を開けたまま「彼女、大丈夫かね……?」とマリアを注視した。その後ろに控えていた護衛のアローも、目を丸くして「えっ、元気付けようとしたのに、逆効果だった?」と言う。
サリーは、その場にいる騎士や衛兵よりも先に駆け寄った。「マリア大丈夫?」と声を掛けながら横から顔を覗きこみ、真っ先に鼻血の有無を確認する。それから、視線を返せない様子でいる彼女を心配して、再び尋ねた。
「マリア、しっかりして。ね?」
「大丈夫しっかりしている。この通り冷静だ、何も問題はない。もうめちゃくちゃ天使で思いっきり抱き上げて甘やかしてしまいたい」
「……口から思考がただ漏れなところを見ると、ちっとも大丈夫じゃなさそうだね……。えっと、お嬢様がまだ不思議そうにしている間に、どうにか頑張って戻ってきて。『彼の父親』も来ているから、挨拶しなくちゃ」
リリーナ付きの侍従である十五歳のサリーが、実年齢よりも幼い美少女顔に、弱ったような表情を浮かべる。その大きな瞳は心配そうに濡れていて、リリーナと同じ蜂蜜色の、ふわふわとした髪がさらりと白い頬にかかっていた。
マリアは、うっかりその表情を横目にバッチリ留めてしまい、今度は顔まで押さえて無声のまま悶絶した。彼がまだ幼い頃の事がまざまざと蘇り、ちょっと舌足らずだった当時のサリーが「僕の顔、好きなの?」と尋ねてきた光景も思い出す。
心の中でよく白状しているけど、めちゃくちゃ好きです。
当時は、よくリリーナと小さな彼を抱き上げていたものだ。それくらいに、彼は小さな男の子だった。
初めて引き会わされて、これから使用人コンビになる『令嬢付きの侍従』だと紹介された時は、「なんて可愛い子供なんだ!」と感激したものである。
出会い頭で、つい、抱き上げていいかと尋ねた。暗殺向けの本気の俊足を発揮されたけれど、うっかり気付かなかったくらいだ。何故か執事長フォレスに後ろから抱き上げらて、「一旦離れましょうか」と引き離されてしまったのを覚えている。
そんな思い出まで蘇ってきた頭の中は、騒がしくて一向に収まる気配がなかった。おかげでマリアは、一体誰の父親が来ているのだとか、そういう事を考えるのに今しばらく時間がかかった。
※※※
実は、そこにいたのは、リリーナ達だけではなかった。
それをサリーは教えていたのだが――今、大窓のテラス前に用意された席のそばでは、宰相のベルアーノが唖然とした表情を浮かべて立っていた。
「…………一体、彼女は何をやっとるんだ? 何かに躓いた、という様子もなかったが……」
ベルアーノは、実に不思議そうに呟いた。理由は分からないが、ひとまず時とタイミングを選べないのだろうか、と口の中にこぼしてしまう。
その隣のテーブル席には、国王陛下アヴェインがいた。腰かけた長椅子に足を組んで、肘当てに軽く頬杖をついている姿勢のまま、珍しく驚いた様子で金緑の瞳を少し見開いている。
その様子に気付いたベルアーノは、初見であると察して「申し訳ございません、陛下」と謝った。
「彼女が例の、リリーナ様付きのメイドです。その、ちょっと落ち着きのないところもあるようでして……」
「いや、まぁ話には聞いていたら知っている。アーバンド侯爵のところのメイドだろう、『子供のメイドを貸す』とは知らされたが――確か、十四歳とかそこいらだっけか?」
子供だから別に気にしてない。そもそも貸すと言われて、勝手にやれとロイドに任せてある事だろ、俺は興味がないからよくは知らないが――とアヴェインが思案しつつ口の中で続ける。
その様子を見守っていたベルアーノは、言い難そうに、けれどしっかり訂正すべく口を挟んだ。
「……いちおう十六歳らしいです」
「それでいて、なんであんなバカデカいリボンをしているんだ? アーバンド侯爵も、珍しい事をするな。あれじゃあ、うっかり勘違いされてもおかしくないぞ」
「陛下、頼みますから『バカデカい』なんて言い方は、今はお控くださいませ」
侯爵家令嬢リリーナが、お揃いのリボンであると嬉しそうによく口にしているのは、一部ではすっかり有名になっている話だ。
そう小さな声で説明しながら、ベルアーノはマリアについて思い返した。出会ってから間もない少女だというのに、どうしてか親しい距離感を覚えていた事もあって、つい「まぁ私としては」と個人的な感想まで述べる。
「恐らく、リボンをしていなくとも、彼女の見た目の印象は変わらないかと」
「ふむ。余計に幼く見えそうだな」
「陛下、今、どこを見てそう想像したのですか?」
ベルアーノは視線の先を察して、頼むから陛下モードでそれはよせよ、と思ってそう指摘した。しかし、アヴェインが普段はしない、どこか珍しい感じでしげしげと初見のメイドを見ている事に気付いて首を捻った。
「どうかされましたか? まぁ、入室して早々に崩れ落ちるメイド、というのも珍しい光景でしょうからね」
「なんというかな、ベルアーノ。俺は少しコレと似ている光景を、いつだったか、よく見ていたような覚えがあった気もしてな?」
「入室してすぐそんな事をする者など、果たしておりましたか」
というか、もし『国王陛下』を前に、そんな事をよくする奴がいたとしたら、そいつ、とんでもなく空気が読めない系なのでは……。
ベルアーノは思わず、自分の胃を痛め続けている軍の問題児たちを思い出した。とはいえ、ここ十六年は付きっきりでずっとアヴェインと共にいるが、最近の記憶を振り返っても、そういった人物に覚えはない。
そう考えていたら、騎士の一人に「宰相様、そろそろお時間が」と声を掛けられた。そのタイミングで回想を止めた彼は、十六年以上も前に『息子を見て崩れ落ちる奴がいてな?』と聞かされていた話を思い出す事はなかった。




