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二十一章 亡霊と前世代と次世代(4)

 ジーンに抱えられたマリアは、あれからしばらくもしないうちに、王宮軍区の旧五番見張り台の、知る軍人たちからは『時計小棟』と呼ばれている場所にいた。


 いつも友人たちと過ごしていたその『時計小棟』は、変わりもなく存在していた。雨の音が間近で聞こえるのは、手を伸ばせば届く距離で雨粒が落ちていて、目の前の塀や近い天井の棟の屋根部分で弾けているせいだろうか。


 そこは巨大な王宮の建物の中でも、一番高い位置にある細く伸びた棟の最上階部分である。大人が四人ゆとりをもって居座れるくらいのスペースしかなく、ガラスのない小さな窓が所々にある狭い螺旋階段を上がった先にあった。


 ここからは、王宮の周りに広がる王都の町並みが、よく見えた。奥の風景は、降り続けている雨のヴェールに遮られて、すっかり霞んでしまっている。


 元々、こちらでは珍しい雨日和を、煩わしい目もなく一望して楽しめるという理由で、少年時代に国王陛下アヴェインと幼馴染のジーンが足を運んでいたらしい。二人で探索して発見してから、よく通うようになって『時計小棟』と名付けたのだとか。


 前王の時代に、見張り台として稼働しなくなってから久しい小棟だった。鋭い三角屋根には、他の見張り台や警備台から時刻を確認するための時計がある。若手の軍人が上がってくることもなかったから、オブライト達は一時の休憩所としても利用していた場所だった。


「こっちから見る景色は、全然変わらないんだな」


 十六年ぶりの場所をぐるりと見回したマリアは、幅の太い塀に寄りかかりながら、外の風景に目を留めて思わず呟いた。隣で塀に腕を寄りかからせたジーンが、そこに頬杖をついたまま「まぁなぁ」とのんびりとした口調で言う。


「雨降りだと、細かいところまで気にならないというか、見えなくなっちまうから変わりない感じだな。晴れの日だと、増築された市民劇場だとか、整備されたビルマード大通り辺りは少し違ってる」

「馬車で通った時に気付いたよ。あの通り一帯の、建物の雰囲気が変わったなって」


 リリーナのメイドとして初めて登城した際、馬車内から見た光景を思い出して、マリアは静かな微笑を浮かべてそう口にした。


 あの時、あそこにあったはずの小さな店で、出会って間もなかった頃のジーンが婚約者について話していた。よく足を運んでいたその数年後には、自分とテレーサと彼で食事をしていたのだったと――そんな過去の光景が過ぎったものだ。


 ああ、そうか、あの店はなくなってしまったのか、と。


 初めて見た際に込み上げたそんな想いに、そっと蓋をしたのが随分も前に感じる。けれど、実際はそこまで日も経っていないのだ。それが、なんだか不思議な気もした。


「戦争のない、雨の空だなぁ」


 低い雨雲が広がる空を見上げて、つい、そう呟いた。


 オブライトとして、こうしてここから眺めていた時は、次の出陣までの僅かな休戦期間中だった。友人たちと話していても、近隣国の戦争の話題が出たりしたものだ。だから争いのない雨空を、こうして何も考えず見つめていられるなんて、あの頃からすると思いもしなかった事で――。


 だから、いつまでも不思議になって眺めてしまう。生まれ変わって一人で生きていた頃も、そしてアーバンド侯爵に拾われてからも、戦争が終わった空や風景はこんなものなのかと飽きずに見ているのだ。


 マリアは、ジーンと同じように塀に両手を置いてもたれかかり、しばらく王宮の外の風景にじっと目を留めていた。


 落ち着いていた心に、ふっと前触れもなく昨日のことが思い出された。


 またしても昨日の事が気になってきて、気付いたらこちらから見える範囲内の人通りを、じっくりと見渡していた。近くの通りで傘を差したり防水タイプのローブのフードを被り歩く人々の中に、黒髪を持つ人がいないか捜してしまう。


「なんか、らしくねぇな? どうした?」


 雨の音を聞きながら一緒になって王都の町並みを眺めていたジーンが、そう問いかけてきた。馴染んだ声を聞いて自然と顔を向けると、頬杖をついて、こちらを見下ろしている彼がいた。


 本当に、いつも必要な時にそばにいる男だった。そう思い出して、マリアは不思議になる。こうして連れて来たのも、本当に特殊な第六感のようなもので察知して、話を聞くためだけに仕事を抜け出して、朝一番に会いに来たのではないだろうか。


 まぁ、そんなはずはないけれど。


 マリアは、らしくない想像をした自分に気付いて、小さく苦笑を浮かべた。


 昔から彼は、自身の勘をどこまでも信じているようなところがあった。それは『今日から親友だ』と出会い頭に迷わず宣言してきたり、どこにいても見付けてくれたりと、考えてもよく分からない男なのだ。


 自分の副隊長で、戦場の相棒で、そして――最初の軍人としての先輩で、誰よりも苦楽を分かち合って、長い時間を過ごした友だった。


「…………実は昨日、町中で、テレーサみたいな女性(ひと)を見掛けたんだ」


 視線をそっと風景へと戻しながら、マリアはそう白状した。すぐにジーンが「そりゃまた珍しいな?」と片方の眉を器用に上げて、続けて口を開く。


「長い黒髪って、俺はこっちじゃ、テレーサ以外見た事ねぇけどな」

「うん……。視界にチラリと映り込んだくらいだったから、本当に真っ黒の髪だったのか、彼女ほど長かったのかも分からない」


 考えすぎて、幻を見たんだろうか?


 毒の件を思い出してルクシアに伝えた後で、友人たちの会議に放り込まれて、モルツに問われて詳細部分まで記憶が蘇っていた。もしかしたら、そのせいで自分では気付かないうちに、過敏になってしまっているのかもしれない。


「本音を言うと、本当は助けて欲しかったんじゃないかって……この前、全部思い出した時に、チラリと思ってしまったんだ」


 マリアは、塀をぎゅっと握りしめて、正直にそう答えた。


 共に逝く事を選んだ自分に、彼女が僅かにでも失望しなかったという保証はどこにもない。何せオブライトは、友人たちに『鈍い』と言われていたからだ。


 ほんの少しの希望を抱いて、彼女が毒の件を打ち明けてくれた可能性は、なかったのだろうか? 自分は発せられている彼女からのSOSに、気付かなかっただけなのでは……?


 テレーサの悲しげな微笑も、覚悟を決めたような表情も、そして最後に流した涙の意味についても考えてしまう。当時、向けられた眼差しから、覚悟と想いの全てを受け取ったはずなのに、たった一つの動揺で冷静な思考が揺さぶられていた。


 続く沈黙の中、ジーンが頭をガリガリとかいて、「なぁ親友よ」と呼んだ。


「当時、何があったのかは俺の推測でしかないから、なんとも言えないんだが」


 そう前置きすると、彼は棟の塀に両腕を置いた姿勢で、背を屈めるようにこちらの横顔を覗き込んで、続けてこう確認してくる。


「つまりショックもあって、ぐらついて不安になってるって事か。それは幽霊も信じないお前が、その黒髪を見て、咄嗟に亡霊か何かだと思い浮かべちまうくらいにか?」

「…………本当に、お前はなんでも知ってるな」


 まさにその通りだよ、と答えて、マリアは心底困った泣きそうな微笑を浮かべた。

 すると、ジーンの方も困りきったような表情をして「頼むから、そんな顔するなよ」と、こちらの肩に腕を回して引き寄せてきた。


「なぁ親友よ、そんな事ねぇって。テレーサは、誰かに一方的に期待を押しつけて、勝手に怨むような女じゃなかった。そうだろ?」

「……うん」

「そもそもさ、彼女が幽霊になって出てくるとしたら、こそこそせず堂々と出てきて『ちょっとオブライトさん、私、言いたい事があるんだけど』って、お前を押し倒して平気でガツンと言ってくると思うんだ。ほら、出会って数回目の頃に、やってただろ?」


 そう当時を思い出すように促されて、マリアは「確かにあったな」と、ふっと小さな笑いを吐息にこぼした。それを見たジーンが、少し安堵した様子で肩から力を抜いて「だろ?」と相槌を打つ。


「あの時のテレーサちゃんの行動力には、ちょっと感心したというか。俺が『鋼の精神力だからなぁ』って口にしている間に、お前が『こらこら触るんじゃないッ』て言ってたのが、ちょっと珍しくて、俺としては面白くもあったというか」

「周りから飛ばされる『よっ色男』の野次が、ほんと謎でもあったな……」


 一体誰が色男なのだろうか、と心底不思議でならなかった。


 というより、女性に押し倒されたのは初めで、あの時は呆気にも取られた。そもそも当時テレーサは、まだ大人の女性のイメージが強かったから『こうなったら目に物見せてくれるわッ』と、スカートで思い切り足を引っ掛けてくる、という行動力にも驚かされたのだ。


 彼女がムキになった原因がなんだったのか、今こうして思い返してみても、よく分からない。


「あれはさ、完全にお前が悪いって。持ち前の鈍さを発揮するんだもんよ」

「…………ジーン、だから勝手に心を読まないでくれ」

「親友よ。今の全部、顔に出ていたぞ?」


 きょとんとした表情で指を向けられて、マリアは思わず沈黙で応えて、ゆっくりと顔を押さえた。


 どこでどう表情に出ていたんだろうか、と大変気になって言葉が出てこない。こちらの肩に回した腕を、ジーンがポンポンとやりながら「まぁ落ち着けよ」と明るく言ってから、手を離した。


「せっかくの雨日和だ。久々に、ちょっと二階の回廊の方も歩いて、遠回りして戻ろうぜ」


 そう提案されて、マリアは苦笑を浮かべた。


「確かに、それも悪くないな」

「覚えてるか? 雨の日に登城した帰りかげの、俺らのいつものお決まりコースだった」

「覚えてるさ。途中までアヴェインも、よく一緒だったな」


 マリアは答えながら、階段を降り始めたジーンに続こうとした。しかし、ふと、視界の隅に黒髪が映り込んだ気がして、ハッとして咄嗟に目を走らせていた。


 雨で視界が悪くなっている中、この時計小棟から眺められる一番近い大通りの、流れている人々の光景に目を凝らした。まるで直前までこちらを見ていたかのように、通りの流れに反して、踵を返して建物の角を曲がるローブ姿が目に留まる。


 そのローブのフードからこぼれている長い髪が、一瞬だけ見えた。それが黒髪であったような気がして、ガバリと塀から身を乗り出してしまう。


「親友よ、どうした?」


 ついてこないと気付いたジーンが、階段から顔を覗かせて、そう声を掛けてきた。


 視力はかなりいい方だが、雨で視界も悪い状況だ。直前まで思い出して考えていたせいで、黒に近い髪をそう見間違えてしまったのかもしれない。嫌な鼓動を胸に覚えながらも、どうにかそれを抑え込んで冷静に「――いや、なんでもない」と答えた。


 幽霊なんて存在していないし、過去の亡霊が現われるなんて事も、あるはずがないだろう。きっと雨の中で勘違いしてしまったに違いないと、そう自分に言い聞かせて、マリアはジーンを追うように階段へと向かった。

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