二十一章 亡霊と前世代と次世代(3)
マリアは、なんだか鈍いというか、のんびりとしたところもあるらしいアローに疲労を覚えた後、本日も薬学研究棟に向かうため、第四王子クリストファーの私室を出た。
奥の宮を抜けて、公共区へと進む。それから中央広間を過ぎると、片側が開けたいつもの廊下を歩く。
雨だ。それが落ちる音が、鼓膜を鈍く叩いている。
国境沿いでよく聞いて、マリアとして生まれ変わったスラム街でも、よく耳にしたそれにつられて、つい足を止めてその光景へと目を向けた。広い廊下を歩いて各職場へと向かう使用人や軍人の足音が、背中の向こうで聞こえていた。
王都で雨は少ないとはいえ、全く降らない訳でもない。
それなのに、こんなにも気になってしまうのは、昨日視界の隅に映り込んだと錯覚した『黒髪』のせいだろうか。
あれは、自分の目の錯覚だった。そう考えるのが妥当だろう。
だって、オブライトとして過ごした二十七年の中で、国交のないタンジー大国からやってきていた黒髪黒眼の人間は、テレーサくらいなものだった。
黒に近い色素の髪や目はいても、彼女のように生粋の黒を持った者は見た事がない。オブライトは目も良かったから、そのちょっとした色味の違いも目を引いたのだ。
彼女は、祖国にいる弟を守るために死んだ。
事情を何一つ知らされていない弟が、この国に来る事はないだろう。それ以外の身内も同性の友もいないとは、テレーサ本人から聞いていた。生きるために、そういう一切を持たず、目を向けず、その子を抱えて一人で育てながら生きて来たのだ、と――……。
彼女の弟が生きていたとしたら、いくつになるのだろう。
降り続く激しい雨の光景を眺めながら、マリアは当時に想いを馳せて考えた。確か、十歳には達していないとはチラリと言っていた覚えがある。あれからの月日を数えると、今は二十五歳くらいにはなっていたりするのだろうか。
そうすると、文官のアーシュや、第二王子ジークフリート、アーバンド侯爵家の長男アルバートよりも年上で。 つまり当時のテレーサと、同じ年頃に追い付いているのかもしれない。
「…………真実を知ったら、怨まれるだろうか」
ふと、そんなことを思う。けれどマリアは、本心からこうも呟いてしまっていた。
「……この遠い空のどこかで、生きていてくれたら、それでいいんだ」
想いを小さく口にしたら、ズキリと胸が痛んだ。この感情がなんというのかは分からないけれど、自分の気持ちがとても沈んでいるとは感じていた。だから、あの頃の事を『マリア』として思い返して、考えるのを避けていたのだ。
一度だけ、彼女を悩ませている原因を抹殺して、その弟を引き取って一緒に家族として暮らそうと――そんな事を考えていた事を思い出す。
それを口には出来なかった。あなたはこちらに堕ちてきては駄目よ、と、テレーサが悲しそうに微笑んだからだ。少し背伸びをして、こちらの頬を手で包みこんでいた彼女は、その瞳に強さを残したまま『ごめんなさい』と言った。
今はマリアの身であるのに、その当時に触れられた自分よりも低い体温を思い出して、つい頬を指でなぞってしまった。
オブライトだった頃、よくそうやってテレーサに顔を平気で近づけられた。だからリリーナのメイドとなった時、愛情を伝えるようにそうするのが癖みたいになったのだと、マリアは今更のように当時を思った。
そういえば、それでいてテレーサは時々、よく分からないタイミングで赤面したりしていた。「いつもの距離感だろう」と首を傾げてオブライトが訊いたら、またしても「お馬鹿ッ」と言われて――
「頼みますから仕事に戻ってくださいませえええええええ!」
その時、騒ぎの声が耳に飛び込んできて、マリアは我に返った。気のせいか、現在の友人を示す肩書と、自分の今の名前を呼ぶ声も聞こえた。
嫌な予感を覚えて、ガバリとそちらに目を向けてみると、廊下の人々が異変を察知して左右にざっと避ける光景が目に留まった。一瞬、思考が止まって「は?」と呆気に取られた声が出た。
廊下の向こうから、こちらに全速力で向かってくる長身の男の姿があった。
目を凝らしてみると、それは大臣の正装衣装に身を包んだジーンだった。恐ろしい形相で「うおおおおおおッ」と雄叫びを上げて爆走している彼の後ろを、役職勤めらしい二十代から五十代の男達が、息を切らしながら必死に追い駆けていた。
「昨日親友と会えなかったし、もう我慢ならんッ! ちょっと休憩させろ!」
「何言ってんですか大臣様ッ、まだ本日の書類も、ほんのちょびっと触っただけでしょうに!」
「うるせー! あのドSのクソガキ、今度マジでシメるわ。今更思い出したみたいに報復のごとく仕事押し付けてきやがって、洒落にならん量なんだけどッ」
ぎゃあぎゃあ言い合いながら、ジーンは走り続けている。
「それにな、俺の友情感知の部分に、ビビッときてんだ! 多分、今、めっちゃ必要とされている! ――はず」
「なんですか、その曖昧な感じの妙な理由は!?」
「最後の言い方が実に信用なりませんッ。大臣様どうかお戻りを!」
すると、野生の勘か第六感でも働いたかのように、ジーンが「ん?」と何かしら察知した様子で顔を上げた。
あ、まずい、と思った時には、マリアは真っ直ぐ彼と目が合っていた。バチリと視線が絡み合った瞬間、無精鬚をはやした彼の悪戯好きな瞳が「おぉッ」と輝いて、途端にグッと親指を立てられて良い笑顔を返された。
「親友よ! 俺の友情レーダーがバッチリ反応したぜ!」
前々からずっと疑問でならないんだが、それ、一体どこの器官だ?
というか、お前の場合ただ机仕事から逃げ出したかっただけではないのだろうか。元々じっとしていられない性格を知っているだけに、マリアは状況理解のため頭の中を早急に整理しながらも、そう考えてしまった。
その間にも、目の前にジーンが迫って来ていた。気付いたら、ぶつかったような衝撃と共に彼の脇に抱えられて確保されてしまっており、マリアは「ぐぇっ」と少女らしかぬ声を出した。
「というか待て。阿呆かッ、なんでこんな事になってんだよ!」
マリアは、腹を抱え持つ力強い片腕の熱を覚えながら、思わずそう叫んでしまった。腕をバシバシ叩くと、ジーンが走りながらこちら見下ろしてくる。
「よっ、親友。会いたかったぜ。元気にしてた?」
「お前は人の目を考えろ! それから、今朝に伝言を聞いたばかりなんだが!?」
「ははははは、ブチ切れた顔も元気そうで何より。いや~やっぱ今のサイズだと、すっぽり片腕に収まってくれるなぁ」
オブライトであった時にも担がれていた。それを思い出しながら、マリアはこめかみに青筋を立てた。怒りで声も出なくて、廊下中の人々が避け続ける状況と、すっかり悪目立ちして注目を集めている視線にも堪忍袋の緒が切れそうになる。
ジーンが宙を見やり、余った手で無精鬚を撫でてた。それから、いかにも思い出したような表情を装って、再びこちらを見つめ返して口を開いた。
「そういや、ニールは今日不在だぞ。ちょっとした用事と、そのついでに手紙も出してくるように頼んであるからな」
「あ、そうなのか。雨が降っているのに、あいつも大変だな――って話をそらすな阿呆!」
「いてっ」
マリアはどうにか腕を振るって、ジーンの腹に小さな一撃を入れた。
相変わらず細いというのに、彼の腹部は十六年前と変わらずガッチリと筋肉がついていて硬かった。頑丈でもある彼が強いダメージを受けていないのは、走る速度が変わらない事からも明白で、「ちぃッ」と舌打ちしてしまう。
多分、今の少女の身でなかったら、少しはダメージを食らわせてやれた気がする。オブライト時代は、唐突に騒ぎに巻き込んで担ぎ上げられた時、我に返ったタイミングで短く取っ組み合いの攻防を行い、最後は拳骨を食らわせていたものである。
息切れもないジーンが、「はははは、舌打ちの表情も『そのまんま』だなぁ親友よ」と言い、更に走る足に力を込めつつ後方の様子を窺った。
「よし、この辺で撒くか」
そう口にしたかと思うと、彼がぐんと速度を上げて後方の騒ぎから遠ざかり始めた。廊下の角を曲がってきた彼の疾走に気付いた使用人や軍人たちが、「何事!?」と飛び上がり、慌てて廊下の中央を開ける。
そんな中、騒ぎも気に留めていない様子で、その廊下の中央を悠長に歩いている男が一人いた。軍人にしては線の細さもあるピシリと伸びた背と、その美しい容姿も目立っていて、マリアは目に留めた途端に「うげっ」と声をこぼしていた。
それは絶世の美貌を持った総隊長補佐、モルツ・モントレーだった。表情筋がないような冷やかな無表情を貼りつかせており、相変わらず皺一つない軍服をきっちりと着込み、邪魔にならないよう横の髪を撫でつけるようにセットしている。
モルツが、ふっと気付いたように足を止めた。切れ長の鮮やかな青い瞳をこちらに向けてすぐ、秀麗な眉の片方を少し上げて、細い銀縁眼鏡の横を揃えた指先で押し上げて口を開く。
「おや、どちらに行かれるのです?」
「一休憩だ。つか、お前の上司に、仕事攻撃をやめるよう言っとけ」
その横を通り過ぎる直前、ジーンが顰め面で指を突きつけてそう告げた。モルツがチラリとよそに視線を向けて短く思案し、それから「言葉は伝えておきましょう」と答えて、別れを告げるように踵を返して再び歩き出した。
ロイド関係の仕事の用事でもあるのだろう。マリアはジーンの脇腹に抱えられたまま、だんだんと離れていく彼の後ろ姿を見届けて、絡まれなかった事にほっと胸を撫で下ろした。
とはいえ、ここで降ろされたら、絡まれるかもしれないという最悪な可能性はゼロではない。諦めたように「それで?」と、マリアは走り続けている元相棒を見上げて問い掛けた。
「どこに行くつもりなんだ、ジーン?」
「雨の日といえば、『いつもの場所からの眺め』に決まってるだろ?」
尋ねてすぐ、そう楽しげに返された。
マリアは思い至って「ああ、あそこか」と呟いた。よく友人たちと共に足を運んでいたし、雑談がてら居座ったり一時の隠れ場所にもしていた。珍しい雨日和の際には、必ず立ち寄って、そこから雨の景色を眺めていたものだ。
こちらの声を拾ったジーンが、いつもながら楽しげに前方を見据えて「俺もちょっと御無沙汰してたんだ、だから行きたくなってさ」と独り言のように言った。マリアはつられて、その横顔に目を戻した。
「つまり最近は、行ってなかったのか? 珍しいな、いつもアヴェインとか皆で、上がってた場所なのに」
「――まぁ忙しさで忘れる事だって、あるんだろうさ」
彼が横顔に少し困ったような笑みを浮かべて、珍しく曖昧な言い方をした。自身の事なのに、はぐらかすように客観的な物言いをして口を閉じる。
マリアは、変だな、と小さな違和感を覚えた。しかし、何かしら考えがまとまりでもしたのか、ジーンがへらりと嬉しそうに笑うのが見えて、その疑問を忘れた。
「何かいい事でもあったのか、ジーン?」
「ははは、こうして一緒に行くのも久々だろ。そっちは出勤時間に決まりはねぇんだし、俺だって時間はある。タイミングが合って良かったぜ」
そっちは無理やり、休憩時間を勝ち取ったようなものではないだろうか……直前までジーンを追い駆けていた男達の様子を思い返して、マリアはそう思った。
どうして彼が、唐突に突撃してきたのかは知らない。けれど十六年前によく足を運んでいた『休憩場所』を考えたら、心のもやもやは少し軽くなってもいたから指摘せず、ジーンの気紛れに付き合うべく大人しく運ばれる事にしたのだった。




