二十一章 亡霊と前世代と次世代(2)
夜から、珍しく雨の天気へと変わった。それは朝になっても引き続き降り続いていて、久しぶりに傘を使用して馬車に乗車する事となった。
もやもやとした心を映し出すような低い雨雲の下を、王宮に向かって馬車が走る。
その車内で、マリアは王都の町並みが見える頃になると、大好きなリリーナやサリーからも注意がそれて、車窓から流れて行く風景に目を留めてしまっていた。
見間違いかどうかも分からない、あの黒髪について思い返した。昨日からずっと、一人になるとそちらへと思考が向いて、気付いたらじっと考えてしまっている。
車窓から流れていく光景の中のどこかに、黒髪の人がいるのではないだろうかと気になって、ついつい捜してしまう。サリーに声を掛けられて我に返るたび、幻でも見たんだろうと自分に言い聞かせるのに、やはり見慣れた場所や風景に差しかかると、マリアはじっくり眺めたりした。
雨降りという天候の中、傘を差して出迎えてくれたのは、第四王子の護衛任務部隊として組み込まれている近衛騎士の一人だった。昨日に引き続き『臨時班』に関わるような動きはないらしく、マリアはリリーナ達と共に、第四王子クリストファーの私室へと案内された。
訪問してみると、部屋の中央に立っているクリストファーの姿が目に留まった。こちらを見た途端に、彼の笑顔がキラキラと輝いて、大きな金緑の瞳がめいいっぱい開く。
思わずといった様子で駆け寄ってきたクリストファーが、すぐにリリーナの両手を握って元気いっぱいに話し始めた。幼い主人は、一瞬だけびっくりした様子だったが、すぐ同じように愛らしくて嬉しそうな満面の笑みを浮かべる。
話を聞いていると、どうやら雨の日は、とある花園が素晴らしい光景になるらしい。こうして雨の日に二人が会うのは初めてで、クリストファーは昨夜からずっと、それを授業の移動の道中に見せたいと計画していたようだ。
「まるで葉のような、大きな花弁を持った花なんだよ。水を弾いてしまうから、こうして雨が降っていると、花の濃い色で真珠が跳ねているみたいに綺麗なんだ!」
「まぁっ、それはとても素敵ね。クリス、どんな色のお花なの?」
その様子を見守っているメイドや衛兵や護衛たちは、夢中になって話す幼い二人が『王子としての挨拶』『侯爵令嬢としての挨拶』を忘れている件については指摘しなかった。一部を除いた全員が、口を手で押さえてその愛らしさに悶えている。中には、泣くほど感激している者の姿まであった。
天使だ。めちゃくちゃ可愛い。
そばで困ったように見守っている、サリーの表情も最高過ぎる。
それ以外の思案が頭の中から吹き飛んでしまい、マリアは「そのまま連れて帰りたい」と、口の中にこぼしてしまった。今はアーバンド侯爵家のメイドであるのに、うっかりオブライト時代に一人暮らしをしていた小さな部屋を想像した。
このままでは、鼻血が出てしまう恐れがある。そう経験から察知して、強靭な精神力を呼び戻す事にした。あの光景から目をそらすなんてクソ勿体なさすぎるだろおおおおおッ――と、自分の本音の声を心で聞いたが、マリアは涼しげな笑顔を張りつかせて、ぎぎぎぎ、と首を動かした。
振り返ってみると、ずっとこちらを見ていたらしく、ヴァンレットと目が合った。護衛を務めている彼は、この部屋にいる人間の中で、これといって心乱されずにいるうちの一人である。
こんな愛らしい天使な光景があるというのに、やはりこの超大型の元部下は、ちょっと変わっている……。
マリアはそう思いつつも、リリーナの近くを任せるべくサリーに小さく目配せした。幼い主人たちが互いの話しに夢中になっているタイミングで、そっと後退して近寄り、いつも通り挨拶をすると、ヴァンレットが「うむ」と機嫌良く言って頷き返してきた。
その隣には、同じように平常心な第四宮廷近衛騎士隊長、アロー・ウィリアムスの姿があった。珍しくセットになって一緒にいる彼は、なんだかひどく疲れた顔をしていた。
多分、ここにくるまでに、また何かしら苦労させられる事があったんだろう。マリアは、そう想像して同情した。二人一組という事は、クリストファーとリリーナの移動距離が普段よりも長いのか、移動する回数が多いのかもしれない。
そう推測していると、アローがこちらに気付いて視線を返してきた。「ああ、そういえば」と思い出した様子で呟くと、ちょっと背を屈めるようにして口を開く。
「大臣様から伝言。『今はハーパーの件の処理が続いている、それが終わるまで待機になるかもしれん』だそうだ」
やはりそうかと察したマリアは、視線をそらしながら素の口調で「承知した」と答えていた。黒髪を見た一件があったせいか、伝言をくれたジーンを思い浮かべたら、テレーサと三人でよくしていた食事の風景が思い出されたせいだった。
外から聞こえてくる雨の音に耳を澄ませて、つい、『彼女』は雨が好きだったな、とぽつりと胸の中で呟いた。
突然雨に降り出された時、こちらの腕を取って楽しそうに走っていたテレーサの、濡れて少し冷たくなった肌の感触を覚えている。雨避けの厚地ローブなんて重いし、通気性が悪くて暑いだけだから傘にしなさいよ、と店先で笑っていて――
ああ、そういえば、彼女のローブ姿は見た事がないなぁ……。
自分のマントを彼女に掛けてみたら、生地が巻けてしまうくらい余ってしまい、テレーサは「意外と大きいのね」と言って笑っていた。オブライトは「意外と小さいんだな」と笑い返したのだが、その際ふと、自分のローブを着せてみたらどうなるんだろう、となんとなく想像したのだった、とマリアは思い出した。
当時、着てみないかと提案したら、即却下された。
どうしてか自分の物を着た彼女の姿を見たくなったのだけれど、それが何故なのかは分からない。なんで、と彼女に尋ねられたので、さぁ、と首をひねったら、思い切り「このお馬鹿ッ」と頭を殴られてしまったのである。
そういえば、なんで殴られたんだろうなぁ、とマリアは元気もなく笑った。普段のように深く考えないままの独白だったはずなのに、気持ちは沈むばかりだった。
ヴァンレットがきょとんと見下ろす中、アローが遅れて気付き、不思議そうにマリアを見やった。ふっとつられたように、彼女の大きなリボンへと目を向ける。
「あれ? 少し元気がないみたいだけれど、大丈夫?」
「アロー様。一体どこを見て、それを確認しているのでしょうか」
だから、それは本体じゃないっつってんだろ、阿呆か。
思い返していた事も頭の中から一瞬で吹き飛び、マリアは先日から続く強い疑念から、間髪入れずそう返していた。見つめ返してみると、アローが頭の上で少し揺れたリボンの動きを追うように首を傾げていて、視線が合わない様子に落ち着かなくなった。
「あの、アロー様。私のリボンに何か問題でも……?」
「今日は張りがないみたいだ」
「だから、そっちは本体じゃねぇよッ」
やや心配そうな表情をしたアローの言葉を聞いた瞬間、思わず素の口調でそう突っ込んでしまった。
けれど同じタイミングで、クリストファーとリリーナの方で賑やかな笑い声が起こった。彼が呑気そうにそちらへ視線を移した後、それから遅れて疑問を覚えた様子で「ん? 何か聞こえたような」と首を捻る。
それを見たマリアは、目頭を押さえて「ぐぅ」と呻った。今日だって皺一つないし角もピンと立ってるだろ。一体どこの何を見てそう判断してんだよ。そう言いたくたまらなくて、とにかく堪えるべく丹念に目頭を揉み解す。
近くからその様子を見守っていた衛兵たちが、「アロー様も、ウォスカー隊長と引けを取らないくらい、マイペースなところがあるんだよなぁ……」と呟いた。




