二十章 待機とお嬢様の準備期間(6)下
「実は先日、殿下が私達の元を訪れまして……」
そばの茂みを抜けた先にある、木の向こうの芝生の上に腰を降ろしたところで、ライラック博士が正座姿勢でそう切り出した。けれど、説明が続かない様子で言葉が途切れてしまう。
マリアは、楽に胡坐をかいた姿勢で、スカートの上のエプロンごと両手で押さえながら、少し考えて「ああ、なるほど」と察して相槌を打った。その隣では、全く違和感を覚えていないニールが、同じ姿勢で彼を不思議そうに見つめている。
「馬の風邪薬を作った、とは聞いておりますわ」
詳細はあまり分からないでいたのだが、どうやら薬学研究棟の上の方で調合したらしい、とライラック博士の切り出しで理解した。その件で、何かしら気になるところでもあったのだろうか?
そう思って見つめ返すと、ライラック博士が、チラリと辺りの様子を確認した。それから、互いの間に空いた芝生の上に目を落として、再び口を開いた。
「前王宮医長がこっそり調べていた件に、殿下が本格的に調査と研究に乗り出した――という事は、ざっとではありますが、私達の一部の者も把握しております」
この離れの薬学研究棟には、少ない数の人間だけが所属している。どれも信頼がおける長い勤務メンバーであり、前王宮医長の意思を引き継いだ医療班にも協力にあたっている事から、一部の事情は話されているのだ、とライラック博士は語った。
いつ何が起こっても対応出来るようにと、彼が常勤している階に、二人一組の近衛騎士が待機するようになった。本格的な研究が開始されてからは、事情を知る課のある別の会に、護衛班の待機所も出来たのだという。
もしルクシアの方から、研究に関して協力要請を受けた場合は、すぐ最優先でそれにあたって欲しいと、軍と宰相側から指示も受けている。そう自身が置かれている状況を明かしたうえで、彼は先日から悩み続けている内容を口にした。
「先日、臨時の助手をされている文官殿と一緒に、殿下が『馬の風邪薬を作りたいので、材料と調合場所を貸して欲しい』といらっしゃったのです。お帰りの際、文官殿を残して先に出て行かれてしまいまして……。不快な想いをさせて、嫌な気持ちにさせてしまったのではないか、もしかしたらお心を傷つけてしまったのでは、と……心配になっております」
不快って、なんで?
話しを聞くに、何があったという訳でもなさそうだ。それなのに、彼はルクシアが傷ついて落ち込んでいるのではないか、と心配しているらしい。マリアは自分なりに内容を解釈し、首を捻りつつもこう教えた。
「ルクシア様は、昨日も一昨日も元気でしたわよ? 特に変わったご様子はなかったですし、いつも通りでした」
「今朝もさ、珈琲を吹き出しそうになっていて、テンション高いなって思った」
何言ってんだ阿呆。それはお前が、いきなり叫んだからだよ。
マリアは、飴玉を噛み砕いただけで悲鳴を上げていた一件を思い返し、そう答えたニールの頭に無言で肘を落とした。
彼が「いてっ」と、衝撃を受けた頭を下げる様子を、ライラック博士が目を丸くして見つめる。けれど、その眼差しは興味を引かれた様子でもあり、少し思案するような間を置いてから「まだ、お時間はありますか?」と言ってきた。
「もしよろしければ、普段の殿下について、お話をお聞かせ願えませんでしょうか……?」
どうしてそんな事が知りたいのだろう。マリアは、ニールと揃って、不思議そうに彼を見やった。こちらに目を留めているライラック博士は、どこか申し訳なさそうにしながらも、そっと目を細めて穏やかに微笑んでいた。
悪い人ではないのは確かだろうし、先程よりも幾分か表情は明るくなっている気もする。難しいお願いではないから、それくらいであれば問題ないし――。
マリアは、ニールとチラリと視線を交わして思案を終えると、それから共に過ごした中での事を振り返って口を開いた。
「初めて『お手伝い』に入った日は、部屋が随分ごちゃごちゃしていましたので、アーシュと一緒に掃除しましたわ。あの時、ルクシア様は本の上に座って、読書をなさっていました。机の上も本だらけで、資料の紙が散乱している状況も平気なところがあるのが、少し意外だったのを覚えています」
自身の身の周りについては、意外と細かくはなくて無頓着な節もある。備え付けのキッチンに入ってみたら、適当に買い揃えられた銘柄違いの小袋の珈琲豆が、一つの大きな戸棚に一緒くたに放り込まれていたのだ。
オブライトだった頃、仕事中や考える時は珈琲しか飲まなかったから、貴族が好んで飲む紅茶類はあまり口にしてはこなかった。王宮所属の仕事人であれば料金はかからないし、窓口で思いきってオススメの珈琲豆を各種頼んだ。
それを備え付けの棚に入れて「どうですか?」と見せてみたら、ルクシアに呆れられた。けれど、怒られはしなかった。
「高級豆ではありませんが、そこにもこだわりはないようで、どの味も楽しんでいるみたいです。休憩用の菓子がなくて、アーシュと王宮管理課の窓口で申請をして、日持ちがいいお菓子を運び込んだのですけれど、どうしてか、また呆れられてしまって」
思い出しながら話していたら、ライラック博士が「研究私室にお菓子ですか……」と、ちょっと苦笑を浮かべた。
「それは、なんというか……珍しい事をされますね。その後、運びこんだお菓子は、どうされたのですか?」
「数回ある休憩のたび、少しずつ出しています」
友人の軍区の執務室にも、いつもお菓子が常備されていたから、マリアはどこの部署もそうなのだろうと疑わずに断言した。
そう言いきった凛々しい表情を目に留めて、彼が数秒ほど固まる。
「え。…………あの、殿下は何かおっしゃっていたりは……?」
「? 普通に食べていますよ。それからルクシア様は、一回目の入室を促した時、危険な毒物は別の場所に保管してありますよって、ご自分から教えてくれる優しい人で――ああ、そういえば、専門家がいるから安心ですって答えたら、ちょっと変な顔をしていましたね」
マリアは思い返して、なんでだろうな、と首を傾げた。すると、ニールが、その言葉で何かしら思い出したように挙手した。
「おっちゃん、ルクシア様って、ちょいちょい変な顔とか面白い表情するんだぜ」
「あの殿下が、『変な顔』……?」
唐突に話を振られたライラック博士が、戸惑った様子で彼に尋ね返す。
「俺がさ、お喋りしようよって続き部屋から引っ張り出した時も、変な顔してた。あと、今朝も『飴玉あげるよ』って言ったら妙な表情してた――って痛いよお嬢ちゃんッ、なんでそこで頭をぐりぐりするのおおおおおお!?」
「そういえば、そんな事もあったな、と今思い出したからですわ。あの時に注意するのを忘れておりましたけれど、ルクシア様の邪魔はしないように」
「だからって、今やるとか横暴過ぎない!?」
マリアは、ぎゃあぎゃあ騒ぐニールの頭の左右から、拳でぐりぐりとしている間も、ライラック博士に教えるよう言葉を続けていた。
ルクシアは、一度やると決めたら後退も諦めもしない人だ。勝気に笑ったり、げんなりとした表情で、ストレートに呟きをもらしたりもする。いつからかは覚えていないけれど、今は珈琲カップの中身が空になるまで、アーシュと三人で雑談するのも珍しい光景ではなくなっていた。
面白い騎馬隊の馬を、四人で見に行った時も、彼が後ろでちょっとおかしそうに笑っていたのを、実はこっそり目に留めていた。あの時マリアは、見に来て良かったなと、ニールと顔を合わせて笑ったのだ。
また機会があれば、ルクシアやアーシュを連れて『散策』してみようかと思った。机仕事が板に付いていて、肩の力を抜くのをあまり知らないところもあるらしい生真面目なあの二人に、お疲れ様、の労いを込めて、息抜きさせるために。
ニールの頭から手を離した後も、そう語り続けていたマリアの話に、ライラック博士は物珍しそうに耳を傾けていた。聞き終えると察した様子で、どこか感心しつつも「なるほど」と言う。
「それで馬の風邪薬を作りたいと、私達の元へいらっしゃった訳ですね」
「そうみたいです。くしゃみを引き起こしているのが風邪で、その治療薬を作るという発想も私にはなかったものですから、さすがルクシア様だなぁ、と思いました」
こちらが『臨時班』として活動している最中なのを気にかけて、ルクシアはこっそり相談を持ち掛けてきたのだ、とアーシュからは教えられた。自分と違って、彼は長らく研究私室の手伝いが出来るので、ある程度の時間の融通も利く。
すると、頭に受けた痛みが引いたニールが、直前の事を忘れたような愛想のいい表情で口を開いた。
「ルクシア様って、すごく真面目だよね。あの馬をもう一回見に行こうかって提案したら、真顔で『仕事中ですよ』って言われてさ。あっ、なんか年上の人間を見る目じゃなかった感じもあったけど、まぁ気のせいか!」
「――…………残念ながら、それ、ニールさんの気のせいではないかと思います」
空気を読まないニールがそう感じるくらいだから、虫けらを見るくらいの目を寄越されたのでは、とマリアはチラリと想像してしまった。それこそ、多分、自分の気のせいなのだろうけれど。
しばし、よく分かっていない元部下と見つめ合っていたら、質問出来るタイミングを逃したくないというように、ライラック博士が「あのっ」と唐突に言った。
「先日にいらっしゃっていた際、臨時の助手を務めている文官殿に『いつでも話しかければいい』と言われたのです。実はそれから、ずっと考えている事がありまして……けれど、そうしてしまったら、余計に殿下を困らせてしまうのではないだろうか、とも思ってしまい悩んでおります」
口を開いた勢いでそう話していた声が、だんだんと弱くなって、最後はプツリと途切れてしまった。
マリアは、ニールと揃って小首を傾げた。話しかければいいと言われて、それについて悩んでいるというのが相談内容であるらしい。けれど『いい』と言われてのに、どうして悩んでいるのか。それなら話せばいいのではないだろうか?
続く言葉を待って見つめ返していると、目を落としていた彼が、ハッと顔を上げた。少し慌てた様子で「これまで話しかけた事はないですし」と、言い訳のように口にしてから、こう続けた。
「殿下が、学者としても素晴らしいお方である事は、私も存じ上げております。それでも大人として、何か少しでも助けになれる事はないだろうかと、あの……そう思ってしまった、と言いますか」
「とても良い事だと思いますわ。どうして、自信もなさそうにおっしゃるんですか?」
マリアは、しどろもどろに言葉を続けるライラック博士が不思議になって、胡坐をかいて座った姿勢のまま、背筋を伸ばして尋ね返した。
「協力してやりたい事があるのなら、自分から進んで言ってしまえばいいと思います。まずは行動を起こしてみて、それから考えてみてもいいんじゃないでしょうか? 私は、助けたい人がいるのなら。そして、自分が何かしら、少しでも出来る事があれば『どうぞ使ってください』と、直接本人に言います」
「……それはそれで、なんというか……清々しいくらいの献身な構えというか、むしろ兵士思考のような」
ライラック博士が、直前までの混乱も飛んだ様子で茫然と見つめ返す。
まさにそうなのだ。だからその指摘は正しいとは思って、マリアは小さく苦笑を浮かべた。自分はキングにはなりえない。いつだって、現場で動き回っているのが性に合っているのである。
「私は『昔から』、どちらかと言えば、物事を深く考えるのが苦手でして。何もしないまま心苦しくいるよりも、助けたい人のために動いていたいんですよ。手段は違えど、それぞれ助けとなれる事は多くある――と、私はそう考えています」
オブライトとして説きそうになったマリアは、声色を気持ちの分高くして「この通り、メイドとしてしかお役には立てませんが」と最後を締めた。
研究に精を出すルクシアや、サポートしつつ彼の論文資料の作成にもあたるアーシュとは違い、協力出来る事は微々たるものだとは自覚していた。だから、偉そうな事は何も言えないなと反省して、「あははは……」とぎこちなく笑ってしまう。
あ、やべぇ。ここは『おほほほほ』と、笑うべきだったか……。
遅れて気付いたものの、ちょっとした笑い方くらい今は大丈夫だろう、とあっさり開き直る事にした。隣にいるニールを指し、呆気に取られたような表情でいるライラック博士に、ついでのようにこう続けた。
「ちなみに、こちらのニールさんは、勝手に押しかけて一方的に居座っている感じです。ルクシア様の反対があれば、即刻で外に放り出そうと思っているのですけれど、今のところそういう指示もないままでして。まぁ、つまり、普段からこうしてニールさんにも付き合っているくらい、ルクシア様はお心が広い人なんですよ」
自分で話していて、ここまで説得力がある話が出来るとは、とマリアは感心した。前世から口下手だったから、ここに彼がいて良かったなぁと思う。
そうしみじみと思っていると、そばからニールが「そんな事を考えてたの!?」と叫んできた。
「お嬢ちゃんひでぇッ。アーシュ君とルクシア様もいるのに、俺一人だけ仲間外れとか、寂し過ぎるよ! 四人で楽しく続けようよッ」
「いいえ、元々三人です、四人に増えた覚えはありません。ニールさんは、ご自分の仕事を探して、やってくるべきではないでしょうか」
「突然真顔になって、どうしたの? だってさ、俺って伝言係もやってるし、だから待機中はお嬢ちゃんのところに居てもいいって、ジーンさんにはそう言われてるもん」
「伝言係が、伝言をもらうべき相手から離れて、こっちにそのまま居座ってどうするんですか……」
マリアは、友人たちの中で唯一マークされておらず、自由に動けるらしい彼の立場と役割を思った。やはり少し心配になってしまい、思わず「こいつは、きちんと仕事出来ているのだろうか……」と、つい考え込んで目頭を揉み解した。
「…………あの、えぇと、『メイドのマリアさん』」
ふと、ライラック博士の声が聞こえて、マリアはハタと我に返った。慣れない呼ばれ方であると感じて、困ったような笑みを浮かべて彼を見つめ返す。
「『マリア』と気軽にお呼びくださいませ、ライラック博士様」
「ああ、それでは『マリアさん』とお呼び致します。私も『博士様』なんて呼ばれるほどの者ではございませんので、どうぞ『様』といったことは、はお取り頂ければと思います」
謙虚な様子で、ライラック博士が言った。続いて彼は、ニールへと視線を向けると「どうぞよろしくお願い致します、『ニールさん』とお呼びします」と律儀に伝えてから、再びマリアへと向き直った。
「それで、殿下の事なのですが……。その、たとえばですが、唐突に訪問する事になったとしても、大丈夫なのでしょうか……?」
恐る恐る尋ねてくる。それに対してマリアは、深く考えず、少女らしくにっこりと愛想たっぷりに笑って見せた。
「いつだって大丈夫ですよ。ルクシア様が続き部屋に入っていたとしても、普段からアーシュや私もいますから――あっ、ちょうど椅子も増えて余分にありますから、ちょっとしたお話でご訪問されたとしても、珈琲もお出し出来ますわ」
マリアは、今日の朝一番に、グイードが勝手に持ち込んで新たに増えた、五つ目の椅子を思い出してそう言った。
三人で活動を始めた時、あの作業台の椅子は三脚しかなかった。それなのに、そこにニールが加わって四脚になり、それが今朝には五脚になっていたのである。
備え付けのキッチンに増えた、グイードが持ち込んだ珈琲カップの存在も脳裏を過ぎった。そこはちょっとどうなんだろうなぁ……と、マリアは増えた椅子について、そう悩ましげにも思ったのだった。




