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二十章 待機とお嬢様の準備期間(6)上

 無事にラック・ヴェール中央図書館から、入り用だった専門書を数冊受け取った後、マリア達は寄り道もせず馬車に乗って、王宮へと戻ってきた。


 黒髪の女性を見ただなんて、きっと気のせいだ。そう自分に言い聞かせるのに、ひどく心がぐらぐらとして落ち着かない。考えないようにしていても、気付いたら頭の中は、勝手にその思考で埋め尽くされてしまっていた。


 やはり『彼女』との思い出が溢れる場所に足を踏み込むのは、まだ早かったのだろうか。そう思って、己の情けなさを考えてしまう。


「お嬢ちゃん、なんか落ち着かない感じなの?」

「……だから、なんで付いてくるんですか」


 最年少組の元部下の声が聞こえて、マリアは両肩に重々しくかかっているような悩みを、一旦脇に退かすようにして、ふっと力を抜いてそう言った。


 元部下の前だ。らしくないところは見せられない、という前世の頃の意識が蘇って、どうにか普段通りの表情を心掛けて、隣を歩くニールを見つめ返す。



 数時間前、ルクシアの研究私室に戻った後、室内の整理整頓や珈琲を淹れ直したりと、普段のように過ごした。けれど、じっと椅子に座っていられそうにはなくて、午後休憩が始まった先程「いつもより早いけど、昨日の今日だから戻るわね」と声を掛けて部屋を出たのだ。


 そうしたら、何故か当然のようにニールも席を立って「アーシュ君、ルクシア様、また今度ね」と彼らに別れの言葉を告げた。そして今、離れの薬学研究棟王宮から建物まで続く、木々に囲まれた小道を進んでいるところである。



 そこは相変わらず人の気配はなくて、二人分の体重の違う足音だけが続いていた。こちらを見下ろしているニールが、きょとんとしてちょっと首を傾げる。


「お嬢ちゃんが帰るんなら、俺もジーンさんのところに戻ろうかと思って」

「…………」


 こいつは本当に、普段からちゃんと仕事が出来ていて、しっかりやれているのだろうか。


 マリアは、再三の疑問と心配事を思い出して、男性にしては高くもない位置にある彼の呑気そうな表情を見つめ、ゴクリと唾を呑み込んでしまった。口に出して質問する事は出来そうにないので、自分の中で考えるだけで終わらせようと思った。


「お前、仕事は出来ているのか……?」

「ねぇお嬢ちゃん、今の短い沈黙の間に、何を決めたのか分からないけどさ。その直後に思案がそのまま口からこぼれ出ちゃってるけど、仕事の心配は年上の俺がするべきじゃない? というかさ、女の子が『お前』なんて言ったら駄目だよ」


 全く見当違いの事を言われたとでも思っているのか、彼は相変わらず愛想のいい笑顔を浮かべたまま、ちっとも気にしていない様子で続けた。


「こう見えても、俺は超信頼されている『大臣の優秀な手駒』だからね!」

「だから、手駒と言われると、ちょっとアレなのですけれど……」


 言い方を少し考えた方がいい、と助言してやろうとした。けれどニールが引き続き、真っ直ぐじっと見つめてくるので、なんだか十六年前にもあったような状況にも思えてきて、マリアはぎこちなく視線をそらしてしまっていた。


「私は落ち着いていますよ。それなのに、どうしてそう訊いてくるんですか?」


 横顔に視線を感じながら、小さく唇を尖らせてそう尋ねた。すると、こちらを引き続き見つめたまま、彼が間髪入れず口を開いた。


「だってさ、なんかずっと気にかかっている事があるみたいな、そういう顔して欲しくないんだもん」


 ストレートに言われて、マリアは「は?」と声を上げて、つい立ち止まってしまった。一体なんだと思って見つめ返してみると、相変わらず何も考えていないような目でこちらを見下ろしているニールがいる。


 しばらく目を合わせていたら、彼が「あっもしや」と思い至った表情を浮かべて、唐突にパチーンと指を鳴らし、人差し指を立てた。


「すぐに王宮に戻ってきたから、暇だし遊び足りない感じか!」


 それは、お前の本音だろう。


 マリアは心の中で、間髪入れず呟いた。ここには仕事で来ているのであって、遊ぶ予定なぞ一つも立てた覚えはない。そもそも暇をしているという元部下の仕事意識が、大変心配である。


「それならさ、レイモンドさんのところにでも行って、お菓子でも食べない? いっつも棚に菓子が用意されていてさ、一人用なのに無駄に広い部屋なんだぜ。ついでにブサイクな面白い馬の事も話せるし、クッションも超ふかふかでよく飛ぶし、寝心地も最高で――」

「阿呆か。仕事の邪魔をするんじゃない」

「ぐはっ」


 自分が暇をしているからといって、迷惑を掛けるな。


 マリアは、咄嗟にニールを背負い投げしていた。騎馬総帥であるレイモンドが、普段から暇をしているはずがない。最近は多忙のド真ん中にいるらしい事を、何故ニールが理解していないのか疑問でならなかった。


 オブライトだった頃に身に染みた『教育的指導』で、つい最年少組の元部下を投げ飛ばした直後、「ふぎゃっ」と情けない中年男の声が聞こえた。


「ん……? 『ふぎゃ』?」


 落ち着いた年齢を感じさせる男の声を聞いて、マリアは我に返った。


 訝ってそこに目を向けてみると、ぶっ飛ばしたニールの下敷きになってしまっている白衣の男がいた。先程までは誰もいなかったはずだが、どうやら蛇行していた小道の死角から、タイミング悪く出てきてしまったらしい。


 人の行き来が少ないとはいえ、ここは薬学研究棟に通っている人間なら、普段から通る道である。

 遅れて事態を察したマリアは、慌てて「大丈夫ですか」と駆け寄った。両手でニールの背中の服を掴んで雑に退かすと、うつ伏せになっている中肉中背の男に、怪我がないか確認する。


「すみませんでした。あの、どこか痛いところはありませんか?」

「お嬢ちゃん、その優しさを俺にも向けて欲しいんだけど……というか、なんでそんな馬鹿力なの」


 引っ張られた服の襟で、一瞬ほど首が締まったニールが、背負い投げでぶっ飛ばされた痛みに目尻に涙を浮かべつつ言った。


 その時、倒れ込んでいた白衣の中年男が、小さく呻いて「大丈夫、です……」と声を絞り出した。どうにかといった様子で、中肉中背の背を震わせながら地面に手をつき、起き上がろうとするかのように身じろぎする。


「ちょっと悩み事を考えておりまして。注意を怠って、前を確認していなかった私も悪いですから……」

「いえ、そんな事は――あっ、手伝います」


 マリアは、スカートを押さえながらしゃがむと、地面に伏せている状態から上体を起こそうとする彼の手を取った。その少し皺の入った温かい手は、筋肉もなく柔らかかったが、手作業が多いのか皮膚は厚かった。


 ようやく地面に座りこむ事に成功した白衣の中年男は、五十代後半といった容貌をしていた。中肉中背の体格は大きめで、その白衣の胸元には、所属の課を示す許可証が付けられている。


 清潔に整えられた癖のある髪は、半分ほど白い。虹彩に緑かかった少し薄い水色の丸い瞳は、神父か教師といった印象で穏やかだ。パチリと目が合うと、彼はしばし不思議そうにこちらを見つめ返した後、「あ」という形に口を開いた。


「君は確か、ルクシア様の手伝いに入っているという『リボンのメイド』……?」


 どうしてか最近、よく『リボンのメイド』という単語を耳にしている気がするな。

 そう思いつつ、マリアは「はぁ」と間の抜けた声を上げて肯定し、それから簡単に『マリアである』と名乗った。すると、男が遅れて気付いたかのように、呆気に取られた表情で座り込んだまま、自己紹介を返してきた。


「私は薬学研究棟の医療課を任されている、ライラック博士――ライラック・ボルドウィンと申します。医薬品を専門として扱っている者です」


 こちらが随分若い人間の組み合わせであると思ったのか、それとも王宮内の専門機関として分類されている課には馴染みがないだろう、とでも推測したのか。白衣の中年男、ライラックが分かりやすいニュアンスで、そう簡単にだけ名乗った。


 博士なのかと把握しつつ、マリアは自分の隣に同じようにしゃがみ込み、何をする訳でもなく彼を見つめたニールを、簡単に紹介する事にして指し示した。


「こちらは、ニールさんですわ。同じように、ルクシア様のところの『臨時お手伝い員』です」


 それにしても、本当に申し訳ない事をした。自分達のように身体を鍛えているわけではない相手であるので、さぞ打ったところも痛かっただろう。


 マリアはそう思いながら、ニールにも手伝わせて、ライラック博士をそっと立ち上がらせた。立った彼の背丈は随分高く、筋肉はないながらもガッチリとして大柄だった。


 オブライトだった頃に世話になったバーグナー名誉教授が、よく腰が痛むのだと抱えていた事を思い出しながら、その白衣についてしまった土汚れを手で払い落してあげた。つい、気になってそこをチラリと見てしまう。


「痛いところはありませんか? 元々腰を痛めていただとか、そういう事があるのなら後で痛むかもしれませんし、休める場所まで責任をもってお運びしますわ」

「騎士みたいな事を言う子だね……。あ、いえ、本当に大丈夫ですよ。元々腰痛も持っておりませんから」


 そう言って、ライラック博士が小さな苦笑を浮かべた。十代のメイドに対しても礼儀正しい物言い、そして、ゆっくりと穏やかな細められた眼差しから、彼が温厚でとても優しい人柄なのだという事が伝わってきた。


 マリアは、巻き込んでしまって本当に申し訳ない、と詫びるように、再び頭を下げて謝った。


「このたびは、本当にすみませんでした」


 それでは、とメイドらしく立ち去る挨拶をして、踵を返して歩き出す。同じように足を進め始めたニールが、「ぶつかっちゃって、ごめんね」と真似するようにあっさり告げて、その後ろに続いた。



「あのっ、ちょっとお待ちください!」



 その時、唐突に大きな声を上げて、ライラック博士がニールの腕を掴んだ。引き留められた彼が、「何事!? お嬢ちゃんッ俺を置いてかないで!」と咄嗟に手を伸ばし、自分の肩の位置より随分下にある背中のメイド服を掴む。


 後ろから思いきり引っ張られたマリアも、「うおっ!?」と少女らしかぬ声を上げて立ち止まった。危うく転倒するのを免れた姿勢で、ニールと揃ってゆっくりと後ろに顔を向けてみると、そこには悩み事があるのだという表情を浮かべて、こちらを見ているライラック博士がいた。


「お時間があるのなら、少し、お話を聞いてくださいませんか……?」


 そう言った彼が、遅れて気付いたように「あっ、すみません」と手を離す。


 マリアは、自分の服を掴んだままのニールと視線を合わせた。初対面ではあるが、このような必死な表情でお願いをされたら、放っておける性分でもない。まだ時間もあるので、この中年博士の話を聞いてあげる事にした。

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