二十章 待機とお嬢様の準備期間(5)上
「お前バカか? 勝手に置いて行こうとするなよ。それなら、俺も行くに決まってるだろ」
借りる予定だった例の専門書を、ラック・ヴェール中央図書館まで取りに行ってくる、という事情を一通り説明すると、すぐにアーシュが「馬鹿じゃね?」と表情でも語って、そう言い切った。
その返答は、予想していた反応と違いすぎていた。てっきり、俺は今できるやつを進めておくから二人で行ってきてくれ、と彼のことだから効率を考えて、役割分担の提案を返してくると思っていたのだ。
だからマリアは、数秒ほど返す言葉が出てこないでいた。研究私室の作業台の上に置かれた用紙の数々と、まだ広げられたままの専門書とその山にチラリと目を向けてしまう。
「……アーシュは、ここでする事があるのよね?」
「俺が使う本なのに、わざわざ女のお前だけで行かせる訳がねぇだろ」
いやニールもいるんだけど。
そう思って、ついマリアは後ろ隣に目を向けた。その視線を受け取ったニールが、朗らかに「アーシュ君、俺もいるよ?」と自身を指して存在を主張する。
三十七歳とは思えないその童顔を見やったアーシュが、実に頼りにならない大人だ、とでも言うような表情を浮かべた。そして「ちょっと待ってろ」と言って立ち上がると、ルクシアに声を掛けるべく続き部屋の扉をノックした。
※※※
ラック・ヴェール中央図書館は、学者向けの資料や本を専門的に取り扱っている国立図書館の一つである。王宮の前を通る乗合馬車に乗り、中央区近くで降りれば、そこから徒歩三十分ほどで辿り着ける場所にあった。
王宮を出て数十分後。マリアは王都中央三十四番街で、ニールとアーシュと共に乗合馬車を降りた。そこは商業だけでなく、アパートメントといった住居物件にも溢れた区の一つで、沢山の建物が押し込められたような賑やかなところである。
十六年ぶりに足を踏み入れた雑多としたその町並みは、道や建物が少し整備されてキレイになっている箇所があるだけで、ほとんど当時のままだった。
マリアは、右左を歩くアーシュやニールの存在をしばし忘れて、その様子を眺めながら足を進めていた。当時と変わらない町並みの中で、自分の視線の高さだけが違っている事に少しだけ違和感を覚える。
それと同時に、またこうして歩いている事を不思議に思った。何故なら、オブライトだった頃の最後の出陣前に、もう二度とこうして見て歩く事はないだろうと、そう思いながらこの町並みを目に留めていたから。
その頃の情景が脳裏に蘇って、一人でどちらへ行かれるのですか、珍しいですね、と偶然会ったバーグナーに声を掛けられたのを思い出した。
ちょっとした散策なんです、と自分は答えたのだ。
実はその前にテレーサと会っていて、まるでまた次もあるかのように普段通り食事をし、一緒に近くの雑貨店に行っていた。それから少し近くを散歩して、いつも通り笑って別れたのだったと――そんな事もなかったかのように、オブライトはバーグナーと最後の会話を楽しんだ。スマートに嘘をつき続けている自分が、不思議だった。
マリアは、変わらない町の風景に前世の光景を重ねて、脳裏に蘇っては流れていく当時の記憶を頭の中で追った。とても懐かしい、と思った。
こうして歩いていたら、いつもテレーサが現われたのだ。
オブライトさん。ねぇオブライト、どこへ行くの? 仕事中なの? 少し一緒に歩かない? 近くに美味しいお店を見付けたのよ……――
一見すると、テレーサは大人の品を漂わせた女性だった。それなのに、笑うと途端に花が咲いたように明るくなって、まるで少女みたいにはしゃいで、楽しげに自分の腕を引っ張って歩く女性だった。
「俺もさ、ラック・ヴェール中央図書館には、行った事があるんだ。学院生だった頃に、キッシュ達がよく論文の作成とかで利用していてさ」
不意に、隣からそんなアーシュの話し声が聞こえて、マリアは我に返った。
生まれ変わって身体も違っているというのに、どうして『彼女』に腕を取られた際の温もりまで覚えているのだろう。そう不思議に思いながらも、気持ちを切り替えるように肩にかかった髪を手で払ってから、彼の横顔に目を留めた。
「俺は騎士科だったから、特に用はなかったんだけどさ。専門分野を専攻している学生は、全員数回は足を運んでいる場所だと思う」
「そういえば、学生向けの参考書も一番専門的に扱っているところだっけ」
マリアは相槌を打ちながら、バーグナーと過ごしていた頃の事を思い返した。
記憶に間違いがなければ、ラック・ヴェール中央図書館は、学びたいとする庶民学生のために、無償で授業用の参考書を提供する機関としても機能していた。本は元々安くはなく、専門分野の物であるほど、庶民には手が出せないほど高額になるからだ。
王宮に公共区が作られ、国民籍であれば誰でも利用可能な『図書資料館』が設けられたのも、そういう経緯があった。だから現在も個人だけでなく、王宮外の市民施設や学校といった幅広い組織や機関に、本の貸し出しと提供を行っている。
アーシュが「よく知ってるな」と、ちょっと感心した様子でマリアを見下ろした。するとニールが「参考書に、専門書かぁ……」と苦手意識を覚えたような表情を浮かべて、こう続けた。
「俺、そういうギッシリ字が詰まったのを見るたび『うへぇ』ってなるんだよねぇ……。昔さ、優しいのに、そういう本をバンバン勧めてくる教授っぽい人がいて、もう専門用語の難しい綴りばっかりで読めないし、異国の呪文の本だと思った」
教授っぽい人、ではなく、彼は教授そのものである。
当時、ニールはよく自分に付いてきていたから、恐らくは共にバーグナーと過ごした頃の事を言っているのだろうと察して、マリアは心の中でそう突っ込んでいた。
そもそも、バーグナーは本を勧めていた訳ではない。根っからの教師でもあるため、お喋りをしていると癖のように本を取り出して、読み進めながら説くのも多い人だったのだ。
アーシュが訝って「教授っぽい人……?」と、台詞を反芻しながらニールへと視線を投げた。懐かない犬のような顔を顰めると、少し思案する間を置いてから口を開く。
「なんだ、あんたもどっかで勉強していたのか?」
「ねぇ、アーシュ君。なんかさ、目上として全く尊敬されていない気がするというか、出会った時よりも、俺に対する『年上の扱い』が雑になってきてない?」
多分、十七も年上だと思われていないんじゃないかな、とマリアはチラリと考えた。アーシュがニールに向けている眼差しや緊張感のない態度も、ヴァンレットに接していた際の様子と比べると、かなり違いがある。
とはいえ、一緒にいて緊張していないという事は、すっかり打ち解けてもいるからだろう。精神年齢的にも近い男同士であるし、二人が仲良くなるのは喜ばしい。
「お嬢ちゃん、一人で頷いてどうしたの?」
「おいマリア。たった数秒の間に、お前がなんか妙な方向の結論に達した感じがするんだが――俺の気のせいだよな?」
アーシュが立ち止まり、真顔でそう言った。
声に出して考えてはいなかったはずだ。だからマリアは不思議に思って、同じように立ち止まって小首を傾げた。
こちらを見下ろす彼は、顰め面ながらもピリピリとした様子はなかった。じっと見つめ返していると、オブライトだった頃に面倒を見ていた新人の後輩が思い出されて、直前の疑問も忘れて先輩心でほっこりした。
「仲がいい人が増えるのって、いいよな、アーシュ」
「おいコラ、無垢な眼差しで何を説くみたいに言ってんだ。つか、口調が女らしかぬ事になってんぞ、マリア」
指摘されて、うっかり素の口調で心の声を発してしまっていた事に気付いた。遅れて口許に手をやったら、アーシュが呆れたような眼差しをして、こう続けた。
「お前さ、いちおう十六歳なんだろ? 女なのにちょいちょい口が悪くなるの、ちょっと気を付けた方がいいぞ」
「アーシュ君。お嬢ちゃんって、もっと物騒な事とか平気で言ってた気がする。そもそも超凶暴だし、俺なんてさっき、図書資料館の前で廊下に頭から突っ込まされて、キレイに意識が飛んだからね! 背中からガッチリ掴まれたけどさ、あっ、そういえば、やっぱり胸はペッタンコだった!」
ニールが、思い付いくままに言いながら、調子に乗ってパチーンっと指を鳴らした。
そのテンションの高い笑顔を見たアーシュが、嫌な予感を察知した表情で、「二人で本を返しに行っただけで、なんでそんな事になるんだ……?」と、もっともな意見を口にする。
自分があの時に掛けた技を思い出したマリアは、見た目の印象ではなく、実際の肉付き感から指摘されたと分かった瞬間、プツリと切れていた。今は女性の『バスト・チェック』とやらにハマっているらしいチカン野郎を仕留めるべく、絶対零度の眼差しで指をゴキリと鳴らす。
こう見えても、全くない訳ではないのだ。
ただ、同じ年頃の少女の下着のサイズには、及ばないでいる。
着替えや風呂のたびに、嫌でも自覚している事を思い返しながら、マリアは地面を蹴り上げると、膝を突き出してニールの横面を打った。
眼前から「ぐはっ」と短い悲鳴を残して赤毛頭が消えたのを見て、アーシュが「やっぱりそう来ると思ったんだよッ」と反射的に叫んだ。しかしマリアは、地面に沈んだニールに足と腕を掛けると、容赦なく関節技に移行して絞め上げていた。
「お嬢ちゃんッ、スカートでそれはやめよう! というか腕がもげそうだし、腰と首もめちゃくちゃ痛いんだけど――ぎょえええええッ、ちょ、まっ、背中を反らすのは無しで!」
「残念だったな。『待った』は無い」
「俺に容赦なさすぎない!? というか、そんな技どこで覚えてきたの!?」
ぎゃあぎゃあ騒ぐニールと、真剣な眼差しで技を掛け続けるマリア。
外とあって、その姿はかなり目立っていた。スカートから覗く白い足に気付いたアーシュが、「女がそんな技をかけるんじゃないッ」と止めに入るべく駆け寄ろうとした時、その肩が歩いていた男達の一人にぶつかった。
通行人たちがギクリとして、小さくざわつきながら、その険悪な雰囲気から距離を置き始めた。しかし、攻防が続いていたマリアとニールは、しばらくその異変に気付けないでいた。
彼女は、元部下をギリギリと締め上げながら、どうしてくれようかと思案する。
「よし。ひとまず、一旦沈むか」
「『よし』って何!? 沈むって、まさか意識の方じゃないよねッ? ここで一人置いて行かれたら、俺が可哀そうすぎるよ!」
その時、穏やかではない荒々しい怒声が聞こえてきて、マリアは「ん?」と眉を顰めてそちらを見やった。脅迫する台詞が耳に入ったニールも、途端に気に入らない様子で「あ?」と、不機嫌な声を上げて同じ方向を確認する。
先程まですぐそばにいたはずのアーシュが、少し離れた位置で、十人もいないチンピラの男達と向かい合っている姿があった。
聞こえてくるやりとりから、どうやら肩がぶつかってしまったらしいとは察せた。彼は相手の男達を落ち着けようとしているようだが、人数で勝る彼らが一方的な主張を続けていて、慰謝料を吹っ掛けている声が聞こえてくる。
数秒ほど、顰め面でその光景を見つめていたマリアは、そちらに目を向けたまま締め技を解除した。手を離した途端、ニールが「行くの?」と訊いてきた。
昔もよくあった事前確認をされて、呆れてしまった。十六年前と同じように『分かりきった事を訊くんじゃない』と、本来の自分の口調が出そうになったので、立ち上がって女の子らしくスカートをざっと整え直してから、答えた。
「ああいうのは、話し合いで解決しないものですわ」
たっぷりの長いダークブラウンの髪を、後ろに払って歩き出した。それを見たニールは、素早く身体をはね起こすと「そうこなくっちゃ!」と、笑顔を浮かべてマリアの後ろを追った。




