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二十章 待機とお嬢様の準備期間(4)

 アーシュが使用し終えた本を返しに行くため、掃除を終わらせたタイミングで、一旦マリアはそれを抱えて研究私室を出た。


 離れの薬学研究棟から、王宮の建物の廊下に上がったところで、両手で抱え持った分厚い専門書の量を、改めて眺めて感心してしまう。


「…………速読って、すごいんだなぁ」


 オブライト時代にも、文官の友人知人がいなかった訳でもなかったから、彼のレポート作成がかなり速いとは気付いていた。持ち前の速筆だけでなく、彼の場合は本のページを確認せずに、一発でメモを起こすのも要因になっているだろう。


 アーシュが、初対面時に口にしていた『絶対記憶力』とやらは、多分、本当にすごいくらいに記憶力が良いという事なのだろう。あの速読・速筆に加えて、それが仕事に発揮されているから机仕事がかなり速い、と。


 とはいえ、速読で一度だけ目を通した単語や公式などを、ルクシアがすんなり論文に書き起こせるレベルで一字一句間違えがないというのは、物覚えが悪いマリアにとっては不思議である。頭脳派の友人たちも、皆そうだったりするのだろうか、と、つい考えてしまう。


 確か、文字と図形なら、一目で覚えられるという事を言っていたような……?


 こちらが隣から覗きこんで感心していた際、アーシュがそう言っていた気がする。けれど、それを思い返そうとしたところで、注意が外にそれていた人物が、気付いて再び隣に並んできたせいで集中力が霧散した。


 というか、と、そちらの疑問を思い出したマリアは、研究私室を出発してから、ずっと思って考えていた事を、ここに来てようやく口にした。


「なんでニールさんもついてくるんですか? 本の数は少ないですし、別に人手も要りませんけれど」


 隣を付いてきているのは、半数の本を両手で抱え持ったニールだった。


 彼は掃除している間も、ずっと暇だと言ってきた。こちらが無視すると、今度はアーシュに話しかけ続けて、しまいには「うるっせぇ集中出来ねぇわ!」と、珍しく荒技に出た文官の彼に放り投げられていた。


 そろそろ本気でジーンのところに戻すか、と考えてもいた矢先だったので『むしろ帰れ』と伝えるべく軽く睨みつけてみた。すると、目が合ってすぐ、ニールが珍しくこんな一般論を返してきた。


「だって、女の子一人じゃ重いでしょ?」


 そう指摘されて、マリアは思わず口をつぐんでしまった。


 考えてみれば、彼も今や三十七歳だ。少しは成長したところもあるらしいと感じたら、善意で手伝っているのを追い返すわけにもいかない。そういう事であれば、少し手伝ってもらってもいいのかもしれない、とも思えた。


 マリアは、仕方ないか、と肩から力を抜くと「ニールさん」と呼んで向き直った。しかし、視線を戻したところで、先に彼が口を開いていた。


「だってさ、いくらお嬢ちゃんが護身術強くて馬鹿力といっても、胸ペッタンコの、足も棒みたいな小さい幼女枠じゃん? この量の本をいっぺんに抱えて、この距離を歩くとなると、身長的にもアレじゃね?」


 前言撤回。


 こいつは、ただの空気を読まないチカン野郎である。


 その台詞を聞き届けた瞬間、マリアは両手に本を抱えたまま足を振り上げて、ニールの背中をしたたかに打っていた。彼の手から本が放り出される中、足技だけで素早く組み伏せて、最後はトドメと言わんばかりに背中を踏みつける。


「誰がペッタンコのド貧乳だって? あ?」

「ぐぉぉ、お嬢ちゃん、本の重量も加わって足が重いッ………。ん? 俺、『ペッタンコ』とは言ったけど『貧乳』とは口にしてないよ。ああでも、十六歳でその胸は有り得ないっていうか、ド貧乳なのは間違ってな――ぐぇっ」


 昔から何度も注意している持ち前の口の軽さで、引き続き思ったままの言葉を口から出してきたので、マリアはそれを黙らせるべく、もう一度踏みつけた。


 ニールが、背中に再び衝撃を受けて床に突っ伏した。近くに居合わせた通行人たちが、避けるようにして数組ほど通り過ぎていったところで、数秒ほど沈黙していた彼が、ガバリと顔を上げて肩越しに振り返る。


「というか、真顔でその殺気立った眼差しはやめてッ。なんか分かんないけど、過去で俺を一番震撼させた人を思い出す感じで、精神的ダメージがひどいから!」


 廊下を歩いていた騎馬隊の男たちが、その光景に気付いて足を止めていた。先日の食堂で居合わせたメンバーが、「おい、あのメイド。またドSなところを発揮してるぞ」と呟いてゴクリと唾を飲むそばで、衛兵たちが「止めた方がいいのか……?」と尋ね合う。


 マリアは、そんな周りの小さなざわめきには気付いていなかった。近くを通りかかった、何故か腰や胸元に大きめのリボンをした美少年の集団が、青年期前の黄色い声を上げて送ってくる、熱い視線を察知する余裕もなかった。


「ニールさん、前々から言っていますけれど、私の成長期はこれからです」

「あのさ、お嬢ちゃん……? 俺も何度か言った気がするんだけど、その、女の子の成長期って普通は、もっと早く始まるものなんじゃないの――」

「いいえ、二十二歳まで大きくなります」


 凛々しい表情で、マリアはキリリとした眼差しを向けて断言した。それを見たニールが、実に不思議そうに首を捻る。


「そもそも、お嬢ちゃんはどこで確信を得て、そんな自信たっぷりに言ってんの?」


 男でも十代ギリギリまでだと思う、魔王だって十八歳で急に伸びて、二十歳までに今くらいの身長になっていたし、と彼は呑気に回想して呟いた。その近くで足を止めていた騎馬隊の男たちが、ついポツリとこう指摘する。


「赤毛。そもそもお前、背中を足で踏まれ続けてんぞ……」


 それでいいのか赤毛男よ、と、目撃している全員がそう思い、メイドの少女に片足で踏まれている状況を怒らないニールに、チラチラと目を向けていた。


             ※※※


 ニールと共に図書資料館に到着してすぐ、マリアは受け付けカウンターに返却本を提出した。担当してくれた初老の男性司書員に、次に入り用な専門書のタイトルが書かれた貸し出し予約の紙を渡して、次はそれを引き取りたい旨を伝えた。


 なかなか空きのない専門書に関しては、普段からそうやって借りていた。その司書員の方も、いつものように確認のため一旦奥の部屋へと向かっていったのだが、すぐに戻ってきたかと思うと、申し訳なさそうにこう言ってきた。


「実は、ルクシア様に頼まれていたこちらの三冊ですが、現在ないようでして」


 変だな、と思ってマリアは小さく眉を顰めた。ルクシアは、近々取り組まなければならない論文用の必要な本について、資料まとめを頼んでいるアーシュがスムーズに動けるよう、前もって有無を確認して、貸出の予約を入れてあったからだ。


「今日ならある、とお話を受けて、貸し出しの予約を入れているはずなのですけれど」


 アーシュから聞いた話を思い返しながら、マリアはそう言った。本来であれば一番に借りたかった本なのだが、空きがこの日しかない事をルクシアが確認していた物で、ようやく今日それに取りかかれる、とも彼は口にしていたのだ。


 だから、その本がなかったら困ってしまう。そんな想いで見つめ返したら、初老の司書員も「左様です」と、非常に困った様子で答えてくる。


「本来ならあるはずだったのですが、貴重資料として本日まで【ラック・ヴェール中央図書館】に貸出されてしまっている状況です。当館があちらの中央図書館へ送った際の返却期日に、手違いがあったようでして。……そちらの方で借りたいと申請のあった教授様の返却予定では、きちんと昨日の日付けにはなっておりますが」

「はぁ。つまりは、借りた人はきちんと返しているけれど、その本自体を、まだ中央図書館が持ったままになってしまっている、という事でしょうか?」


 確認してみると、彼が申し訳なさそうに「その通りです」と言って、また謝ってきた。



 ラック・ヴェール中央図書館については、マリアもよく知っていた。


 王都の中央区寄りにある、学者向けの国立の専門図書館となっており、軍人だった時代には、名誉教授バーグナー・ハリソンの護衛がてら、何度も足を運んだ事があった。そして、何より――



 王都中央三十四番街、か……。よくテレーサとも歩いた場所だ。



 マリアは、オブライトだった頃に見回りや、友人たちとの飲み会などでも馴染みがあったその場所を思い起こした。誰も知らないでいた彼女と、二人でいるところを、モルツに一度だけ目撃されて問われたのも、あの辺りだった気がする。


 生まれ変わった現在、王宮の馬車は通らないからと安心していたが、まさかここに来て、当時を思い出すから避けたいとしている場所名の一つを出されるとは、思ってもいなかった。


 でも、それを、いつかは乗り越えなければならないのだろう。まだ幼いから、すぐはされないだろうけれど、もしかしたら数年内には、いずれ婚約者である第四王子クリストファーとのデートで、リリーナが王都を歩いて散策する可能性もある。


 そもそも自分は、もうオブライトではないのだ。


 場所によっては、まだ向き合うだけの心の準備が出来ていないとは感じているものの、マリアとしている時間が増えて、十六年経った今、案外平気だった事も確かにあった。


 たとえば、リリーナ専属のメイドとして、こうして王宮を出入りするようになってから、登城するために王都の道中を馬車の窓から眺めるようになった。先日は、初めてジーン達と少し王都を歩く事にもなった。けれど、どれもアーバンド侯爵に拾われる前に考えていたようなショックは、なかったのを覚えている。


 いつかは全部を受け止めて、乗り越えなければならない。ならば、ルクシアの論文作成に必要な資料だというその本を、時間がある今のうちに取りに行ってあげるのも、また一つの手だ。


 それに、そういった難しい物を作成する際には、沢山の資料が必要だというのは、名誉教授だったバーグナーとの付き合いで分かってもいた。彼もまた、一つの学会の発表会の準備だけで本の山に埋もれていて、何度も本崩れを起こして、それを助けたのもしょっちゅうあったから。


 それ以外で、自分がルクシアを手伝えたり、役立てる事はない。


 だからこそ頑張らなければならないと思って、マリアは「よし」と決めると、顔を上げて初老の男性司書員を見つめ返した。


「分かりました。近くですし、これから直接取りに行きますわ」


 そう伝えると、男性司書員が躊躇するような間を置いた。


 こちらの年齢を、十三歳か十四歳あたりとでも勘違いしているのか。それとも、王宮のメイドではないのに、用を持たせる事に遠慮を覚えているのか。長らく判断が付かない様子で、彼は口を開いたり閉じたりする。


「大丈夫ですわ。私は立派な十六歳ですし、あそこは通い慣れている場所でもありますから。乗合馬車を乗ればすぐにつきますわ」


 恐らくは前者の可能性が高い気もして、マリアは持ち前のにっこりとした笑顔を作ってそう言った。今の『自分(マリア)』を知っているのなら、通い慣れているという答えには違和感を感じさせるだろうけれど、この司書員は自分を知らないのだ。


 だから安心させるように告げてから、直接本の受け取りに行くため、こちらの図書資料館から許可を得て返却委託を受けた、という旨の書類を書いてもらう事にした。彼は「よくご存知ですね」と目を丸くしたものの、急いで作成してくると言い、一旦再び奥の部屋へと引っ込んでいった。


 長い受け付けカウンターには、本日も多くの利用者がいて、それぞれの司書員が対応にあたっていた。待ち時間で少し暇になったマリアは、なんとなく視線を巡らせて、あの女性司書員の姿を探してしまう。


 すると、よく分かんない、としばし対応を任せきっていたニールが、隣から落ち着きのない子供みたいに「ねぇねぇ」と肩をつついてきた。


「お嬢ちゃん、外に行くんだよね?」

「まぁ、そうですわね」


 キラキラと瞳を輝かせたニールを見て、マリアは顔を顰めた。そういえば、こいつの事を考えていなかったな、と思い至り、二秒ほど思案する。


「ニールさんは、もしかしたらお仕事が入るかもしれないですし、ここで帰ってもいいですわよ」

「何言ってんの、勿論ついていくに決まってるじゃん! 大丈夫、俺の仕事は、町の様子を見るのも含まれているんだぜ!」


 つまり、それって見回りのようなものか?


 マリアは、黒騎士部隊時代を思い返した。それなら、このまま自分が連れていっても問題ないのだろう。そもそも彼が『大臣の部下として仕事がないから』という理由で、そのまま研究私室に戻って、アーシュに迷惑を掛けない保証もない。


 その時、先程の初老の男性司書員が戻ってきて、確認させるように、許可の印が押されたその書面をカウンターに広げて見せた。それは、オブライトだった頃、何度も見た物と変わっていなかった。


「お待たせ致しました。こちらを、ラック・ヴェール中央図書館の職員にお見せください。そうすれば、本を受け取る事が可能です」

「ありがとうございます。ご配慮頂き、感謝致しますわ」

「いいえ。こちらこそ手違いがあったようで、誠に申し訳ございませんでした……。それから、受け取った本につきましては、こちらの方で貸し出し手続きを先に済ませておきますので、いつも通り、返却予定日までにこちらまでお戻し頂ければ問題ございません」


 本日中に再来館する必要はない事を告げて、彼は「それでは」と頭を下げると、まだカウンターの上に置かれたままだった返却本を腕に抱えて、持っていった。


 マリアは、その書面を慣れたように畳んだ。スカートのポケットにしまいながら、アーシュがああ見えて自分を女の子扱いする時があり、友人として心配してくれている節もある事を考えて、こう提案した。


「二人で出掛けるのなら、まずはアーシュに事情を説明して、それから行きましょうか」


 踵を返しながら、無意識に十六年前と同じく、片手を振るように手招きして「一旦戻りますわよ」と声を掛けていた。ついてくると疑わない様子歩き出した彼女を見て、ニールが面白くなってきたと言わんばかりに、楽しげな様子で後を追う。


「やったねッ。お嬢ちゃんに付いて行っていいんだ」

「駄目だったら、誘いませんわ」

「だよねー。思わせぶりな前置きとか無しに、お嬢ちゃんならバッサリ切るところは、力づくでも断りそうだもんねー」


 それはどういう意味だと思って、マリアは隣に目を向けた。すると、ニールが少し背を屈めるようにしてこちらを覗き込み、目の前に飴玉の包みを出してきた。


「はい、飴玉あげる」


 それ、大事な時に食べるとか言ってなかったか?


 黒騎士部隊時代の見周りの時も、いつもそうだった。彼は勝手についきて、ヴァンレットと共に隣に並んで、唐突にそうやって飴玉を差し出してきていた。


 今も変わっていないらしい。相変わらず変な奴だなと思いながら、マリアは「ありがとうございます」と、ひとまずは礼を言って受け取った。図書資料館を出たタイミングで、揃って口に入れた数秒後――



「また飴玉がガリゴリ噛み砕かれる音が聞こえるんだけどぉぉおおおおお!?」



 またしてもニールが騒いだ。


 飴玉がなんとなく美味かったのを思い返していたマリアは、ついオブライト思考で反射的に『いつもの教育的指導』に入った。ニールの背中から腕を回すと、思い切り後ろへと背をそらし、今度は容赦せず頭から廊下につき落としていた。


 図書資料館前の公共区の大廊下を歩いていた人々が、一斉に動きを止めた。けれど、マリアは引き続き考えていたから「多分、果物の味だったなぁ」と口にして、意識が飛んだ彼を『うっかり』少しの間引きずって歩いた。

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