二十章 待機とお嬢様の準備期間(2)
ハーパーの件を終えたその日。
ようやく帰りの馬車の中で一人になったところで、ふと、マリアに自分の名前を呼ばせる事に成功したのだった、と思い出して――ロイドは、車内にいる間じっくり回想してしまった。
つい、それを振り返って上機嫌になっていた。下車する際、昔からの専属御者が「え、何かあったのか……?」と幽霊を見るような目を向けてきても気付かず、普段通り「お帰りなさいませ、旦那様」と出迎えた執事に、いつも通りコートを預けて公爵邸へと入った。
彼にしては珍しいくらい、浮き足立っていた。
そのせいで、自身が抱えている『問題』を思い出すのに遅れた。
リビングにゆっくり腰を落ち着けて、仕事帰りの珈琲を口にしたところで、ロイドはハッと我に返った。一旦執事が退出していった静かな室内にて、『マリア』以外にもあった今日一日の出来事が、ようやく全部思い出された途端に頭を抱えていた。
「くそッ。名前を呼ばせるとか、まずはそういう事じゃないだろう俺……!」
どうしてか、名前を呼んで欲しかったのだ。
自分だけが『総隊長様』と呼ばれていて、他のメンバー達が当たり前のように『レイモンドさん』や『ベルアーノさん』といった名前呼びをされているのが、時間が経つごとに我慢ならなくなった。
ただのじゃじゃ馬なメイドかと思ったら、馬車に乗せるのを手伝っただけで、ふんわりと微笑されて素直に礼を言われた。その大人びた微笑は、誰かにとてもよく似ている気がしたものの、そういえば十六歳だったなとも思わされて、違和感を覚える方が間違いなのか考えた時――
ああ、なんだ。普通に可愛いじゃないか。
と、自分の中でそんな独白が起こり、それを直後に自覚して悶絶してしまったのだ。何せ、これまで異性に対してそう感じた経験はない。あの時フードを被っていたおかげで、どうにか最悪の醜態を晒さずに済んでいた。
ロイドは多くの女を見てきたから、マリアが美少女ではないとは知っている。目を引くほど顔立ちが整っているわけでもなく、特別可愛いというわけでもない。それでいて露骨にげんなりとした表情を浮かべたり、不機嫌さを隠さない時も平気であるから、余計に女の子らしさが薄れる気がする。
出会ってそんなに時間も経過しておらず、彼女が成長して色気付いたという事実もなかった。そのうえ、衣装や髪型に変化もない。
だというのに今日は、彼女が警戒心なくきょとんとしていた表情を、可愛いと感じて、じっと見つめてしまっていたのも事実だった。
男相手に平気で飛びかかるところや、少年みたいな笑顔を浮かべるところも、実年齢より幼い感じがある。それでいて、ゆっくり自分の事を語った際には、またどこか大人びた眼差しを浮かべて……その全部が、いちいちロイドの目を引いた。
一見すると十三歳そこらの女の子くらいの容姿なのに、強気な態度をする彼女を『イケメンだ』と感じて、つい長らく目に留めてしまってもいた。ハーパーの屋敷を出る際に、肩にかかったダークブラウンの髪を後ろに払うマリアを見て、その髪に触れてみたいな、と思った自分に驚愕した。
有り得ない。髪に触ってみたいとか、一体なんだ。
しかも公共食堂では、食べさせてくれるという提案を逃す方が惜しくて、友人たちがいるという状況を忘れて、プツリと切れた。よく覚えていないが、あの時は必死になっていて、気付いたら彼女の手を掴んで食べさせていたとか……本当になんて事をしてんだ俺、と思う。
ジーン達との活動が賑やかだという話を聞き、何故かポルペオも一緒になって外出し、そのうえ昼食を共にしたと知って、もう気になって気になって仕方がなくなっていた。
そのせいか、ジーンに今回の役をもらう前日、夢にオブライトが出てきた。
もう思い出すのも嫌なのだが。とはいえ既に、頭の中で何度か回想してもしまっているそれは、オブライトが「仕方ないな」と苦笑をこぼして、「ロイド」と呼ばれて「おいで」と手を引かれるという夢だった。
初恋であったと、そう自覚している今の状況で見た夢だったせいか。不覚にもきゅんとしてしまったとか、もう、ほんと、色々と最悪である。
「――ふっ。これで夢にまでマリアが出てきたら、笑えないな」
俺はロリコンじゃないし、人生で二度目の恋とか、そういうのではないはずだ。そう、この俺に限って、断じて有り得な――
「旦那様は最近、とても活き活きとしていらっしゃいますねぇ」
ふと、そんな声が聞こえて、ロイドは心の呟きを途切らせた。怪訝に思って目を向けてみると、そこには執事のトーマスがいて、目尻にある薄い皺を穏やかに深めている。
トーマスは、幼少の頃からの専属執事だった。当時は二十歳そこそこの青年だったが、現在は五十歳前の落ち着きもあった。持ち前の童顔のせいか、眼差しにはどこか子供っぽい印象がある。
こっちは、人生で最大の悩みや問題が重なるように集中して、これまで生きてきた三十四年で、有り得ないくらいに心が揺らされているのだ。ちっとも良いはずがない。
「なわけないだろうッ」
ロイドは思わず立ち上がり、相変わらずのんびりとした感じもあるトーマスに反論していた。睨みつけてやるものの、やはり今だ時々癖のように『坊ちゃま』と呼ぶ事がある彼は、どこかきょとんとした様子で微笑んでいるばかりだ。
そういえば、奴にこうして威嚇しても効果がなかったんだった、と遅れて思い出した。こちらが殺気を放とうと、まるで一心に信頼して、信じきっているように、ただただ安心しきった様子でそばにいる男なのだ。
こっちは、衝撃的な『男への初恋』の自覚と同時に浮上した、『ロリコン問題』で大変悩まれているのだ。それだというのに、事情を知らないにしても、そうやって呑気に笑っている執事が忌々しい。
それを教えてしまえば、少しは反応も変わってくるのだろう気もする。しかし、やはり言えるはずがなく、こちらが公爵を継いでから、持ち前の危機感が更に低下したみたいに、のんびりとしたところがよく出るようになったトーマスに、ロイドは苛立ちもそがれた。
変な男だ。毎日、楽しそうにしている。
どうしてか、まだ少年師団長だった頃、熱発で倒れた自分を王宮に迎えに来た彼が、ジーンやグイードや、オブライト達に感謝して、深々と頭を下げていた光景が脳裏に蘇った。
数時間前、初めて二人きりでプライベートに話したマリアが、当時の使用人はどうなったのかと訊いてきて、今でも自分のもとにいるに決まっているだろうと教えてやったら、ほんのり優しげに微笑んでいた光景も思い出された。
まるで、良かったと安心して、それでいて褒めるみたいな、やはりどこか誰かに似た大人びた優しげな表情で――
不意に、胸の中に残っていた苛立ちが消え失せた。よく分からないが、ああ、ならばそれでいいのだろう、とも思えて、深く考えるのも馬鹿らしくなってきた。
ロイドは思考を中断すると、トーマスに向かって『ヤメだ』と伝えるように片手を振って見せた。今日、マリアに名前を呼ばせたり食べさせてもらったりと、自分でもよく分からない感情の浮き沈みを思い出して、途端に頭痛と精神的疲労感が戻ってきた。
「何かあれば呼べ」
最近ずっと続いている『ロリコン疑惑』の悩みで、またしても思考が埋まりそうになったロイドは、屋敷を任せてある彼に不機嫌そうに告げてから、一旦書斎室に向かうべく歩き出した。
※
主人であるロイドの後ろ姿を見送った執事のトーマスは、「王宮で、何か良い事でもあったんですかねぇ」と、ややはりほっこりとした様子で呟いた。
「そうやって元気に声を上げるところも、普段はご友人様方がいらっしゃるまで、ないじゃないですか」
こちらに怒っていない事は分かっている。幼い頃からずっと見てきた『坊ちゃま』は、少し不器用な人なのだ。目がそらされる直前、一瞬だけふっと小さく笑った表情を、彼はきっと自覚していないのだろう。
滅多に八つ当たりもされないお方だ。軍の仕事を始めてから、向こうで沢山の出会いがあり、急激に身長が伸び始めた十八歳以降、若くして総隊長に就任したり爵位を継いだりという出来事もあったせいか、そのたった数年間だけで随分と大人びた。
これまで、時々ぼんやりとした眼差しをしていたのに、最近はそれも滅多に見掛けなくて、あちらこちらとやりとりして随分忙しそうだ。それでいて、何やら一人で頭を抱えて、珍しく感情が見え隠れもしている。
『旦那様、テンションが高いのかしら』
『朝、寝室から苦悶の声が聞こえたのだけれど、一体何があったのか気になりますよわね……』
『そういや旦那様、朝食の席で青いリボン見て咽てたなぁ』
『ぐおぉぉと呻ってるのなら、俺、見ましたよ。本人、気付かれてないと思ってるみたいですけど』
『つまり元気なんだろうな。そりゃあいい事だ、なら知らない振りしとけ』
トーマスは、昔からロイド専属で、現在も仕えているメイドや使用人たちの様子を思い返すと、自分なりの平和的な解釈で「旦那様が楽しそうで何よりです」と、ぽやぽやとした表情で微笑んだのだった。




