二十章 待機とお嬢様の準備期間(1)
マリアは、リリーナとサリーと共にアーバンド侯爵邸に戻った後、幼い主人がマーガレット達に連れられて湯浴みに向かったのを見届けたところで、屋敷の外に向かって歩いていた。
本日の登城にて『臨時班』として一回目の任務があった件について、ついでに今のうちに、ざっと執事長のフォレスに口頭報告しておこうと思ったのだ。先程までそこにあったはずの姿はなくなっていて、ガスパーに居場所を訊いたら、外にいると教えられてそちらへと足を向けていた。
「それにしても、最後の最後で相変わらず騒がしかったなぁ」
おかげで、せっかくのチャンスでもあったのに、あのブサイクで可愛い馬について相談するタイミングを逃してしまった。そう気付いたのは、事が終わった後である。
あの時、レイモンドが馬について何かしら言っていたような気もするが、物騒な騒がしさの最中だったので、結局ろくに話は出来ていない。ロイドのストッパーとして一役買っていたポルペオが、続いてこちらに説教の矛先を向けてきて、またしても皆で揃って逃げる事になったのを思い返すと、つい吐息がこぼれ落ちた。
ガスパーに言われた通り、屋敷の裏手側に回った。
広々とした芝生の場に目を留めた途端、そこに広がる光景に回想も途切れて、マリアはきょとんとしてしまった。
すぐ近くには、庭師のマークがいて、垂れた双眼を気だるそうにそちらへ向けていた。持っている庭道具に寄りかかるようにして、肉付きの悪い背を少し屈めて傍観している。柔らかく吹き抜けた秋先の風に、彼が絞っている襟足部分のくすんだ赤毛が揺れていた。
「マーク。これ、一体どうなってんの?」
「お嬢様が湯浴みしている間に、またいつもの決闘なんだと」
足音に気付いてこちらを振り返った彼が、もはや色々と諦めた表情で視線を戻しながら、顎をくいっとやってそちらを見るよう促す。
キレイに整えられた芝生地の上には、ピシリと背筋を伸ばして礼儀正しく立つ執事長フォレスと、眼鏡の奥に気の強い眼差しをして仁王立ちしているカレンがいた。闘志剥き出しの彼女に対して、ほとんど白くなった髪を後ろへ撫でつけている彼は、普段通り冷静だ。
「カレンにとって、執事長は憧れの人みたいなものなのかしら?」
自分が拾われた時から、ずっと続いている事を思って、マリアはそう呟いた。体術戦専門の戦闘使用人として師匠でもあるらしく、カレンは昔からフォレスに体術戦を挑んでおり、どうやら彼から一本取る事が目標のようだった。
すると、隣に立ったこちらを見下ろしてきたマークが、「お前さ」と呆れたように口を開いた。
「なんか軍人の『稽古つけてくれた上官を超える』的な感じの言い方にも聞こえるけどさ、あの物騒な雰囲気は絶対に違うって。あの殺気を見てみろよ。尊敬というより、ぶっ倒して行くっていう闘気だわ」
そこで深い溜息をこぼし、彼が視線を戻した。改めて現場の状況を見つめると、地に沈む現在のテンションについての本音を、ポロリとこぼす。
「……そして破壊された庭を直すのは、俺……」
時間がかかると、カレンの足技で芝生地は大抵破壊されてしまう。けれど、今は仕事の間の、ちょっとした空き時間のタイミングなので、恐らくはフォレスも時間をかけないのではないだろうか。だからガスパーも、それを知ってこっちに向かうよう言った気がする。
そう考えていたマリアは、見守っていた視線の先で、カレンが土を抉るほどの瞬発力で一気に動き始めたのを見て「あ」と声を上げた。途端にマークが、遠い目をして「ほらな」と呟く。
「ああやって、過激に荒していくんだよなぁ…………」
跳躍して突っ込んでいったカレンが、思い切り振るった足をフォレスがひらりと避けた。その落ち着いた眼差しが、次の軌道を読むように、スカートから覗く白い足を流し見る。
その取っ組み合いの光景を眺めながら、マークがマリアに「というかさ」と話しかけた。
「俺としては、執事長から一本取るとか、無理があると思うんだけどな。それなのに、やりあおうってところには感心するけどさ」
「執事長は、カレン達には絶対に怪我をさせないから、安心しているんだけどね」
「俺らの場合だと即、拳骨が落ちてきそうだよな」
普段マリアやマークや、他の男性使用人に平気で『教育的指導』として拳骨を落とす執事長フォレスは、いつもカレンが向かっていっても、痛い思い一つさせないまま試合に勝ってしまう。だから使用人仲間一同、そしてアーバンド侯爵も、ずっと続いている彼女の挑戦については心配していなかった。
それを思い返して話すマリアは、執事長は男性使用人にしか拳骨を落としていないらしい、という先輩戦闘使用人たちの話を都合良く忘れて「確かになぁ」と素の口調で答えていた。いつも一緒に拳骨を食らっているマークも、違和感を覚えないまま「おぅ」と相槌を打つ。
数分ほど、カレンのしたいように攻撃させ、それを避けていたフォレスが、唐突にふっと右足を踏み込んだ。瞬きをした一瞬後には、鍛えられた彼の長身の引き締まった身体は、カレンの間合いの死角に滑り込んでいた。
眼鏡の奥の少しつり上がった目が、完全に目標を見失ったうえ、あっさり攻防の隙を突破されたと気付いて見開かれる。振り返る余裕もないまま腕を取られて、彼女の身体がフォレスによってふわりとひっくり返されるのを、マリアとマークは見届けた。
倒される衝撃音もなかった。フォレスのもう片方の腕は、彼女の背中を支えていて、少しだけ舞い上がったスカートが芝生の上でカサリと音を立てる。
「ッあああああもうッ悔しい! また負けた……!」
腕を離されたカレンが、座りこんでそう叫んだ。
ほとんど乱れもない襟元を整えにかかりながら、フォレスが相変わらず冷静そのものといった表情で、息切れの一つもなく彼女を見下ろして口を開く。
「淑女が地べたに座り込むものではありませんよ」
「どうせ言い方がどうのとかも言うんでしょ!? くっそぉ涼しい顔が憎たらしいッ、その蝶ネクタイだけでも乱してやりたかったのに!」
「相変わらずですね、カレンさん。分かっているのなら、女性がそのような事を口にするのも、控えた方がよろしいでしょう」
本日も怪我の一つさえないカレンの方に少し背を屈めて、フォレスが頭にある大人のメイド衣装用の白い髪の飾り留めの位置を、肉弾戦派とは思えない細長い指先でそっと直した。助け起こす事はせず、子供みたいに感情豊かに悔しがる彼女に「大人なのですから」と告げ、淡々とした様子で踵を返して歩き出す。
マリアは、また彼女の負けだと分かって、マークと目を合わせて苦笑を浮かべていた。こちらに向かって歩いてくるフォレスに、いつもながら丁寧な口調で「マリアさん」と呼ばれて目を戻した。
「来月にあるお嬢様と殿下の、婚約のお披露目パーティーですが。そちらに向けて、明日と明後日の時間を使い、王宮でお二人の絵を描いてもらう事になっております。こちらで用意する物はありませんが、午後の授業の時間にそれを行う事は、把握しておいてください」
そういえば、そのためだけの衣装などの用意も進められている、とは先日にも聞いていた。恐らく、注文していた二人の衣装が仕上がって、王宮に届いたのだろう。
マリアは、馬車の中で情報交換もしているサリーから、先日寸法されていた様子を教えられ、是非見たかったなぁと思った時の事を振り返った。
外部からの仕立て屋も若い女主人で、珍しい女性だけの会社でもあった事から、訪問者は全員女性であったらしい。どうやら当時、第四王子のメイド達が全員参加してリリーナの方の世話にもあたり、現場は大変華やかだったという。
それに比べて、自分は騒動に巻き込まれたり、出会う人間のほとんどが男だらけである。つい、どうしてだろうか、とマリアは考えてしまった。
「なかなかお屋敷でも、寸法を取る現場に居合わせられていないんですよねぇ……。お嬢様の腕を持ってあげる係りとか、ありませんかね」
「そんな係りはございませんよ、マリアさん」
フォレスに間髪入れず返され、マリアは「おっと」と口に手をあてた。つらつらと考えていたから、うっかり声に出してしまったのだと気付いて反省しつつも、少し前にあった事をチラリと思い出した。
以前、屋敷でリリーナの十歳のお祝いと、春用に新しいドレスを作るための打ち合わせがあった際、何故か料理長ガスパーに全力で止められ、夜の門扉の警備を担当している衛兵の先輩戦闘使用人の二人組にも「止まれマリアあああああッ」「君は相変わらず馬鹿力だなクソッ」と、羽交い締めにされた一件があったのだ。
あの時は、アルバートも同じように阻止されていた。リリーナの実兄と、専属メイドであるというのに、一体どうしてだろうなと不思議でならない。
隣にいるマークが、何か言いたそうな視線を向ける。全く別件に考えが飛んでいるらしいと察して、執事長もその様子をじっと観察していた。
マリアは、いつも多忙な戦闘使用人トップを思って、そんな事を思い出している場合でもなかった、と小さな疑問を放り投げた。二人の視線がどこか物言いたげであると気付かないまま、優秀な部下の如く彼に向ってにっこりと笑い返す。
「お嬢様の王宮での予定は、しっかり把握しておきます。それから、お時間があるのなら、今日あった『臨時班』の事を、先にざっと報告してもいいですか?」
「あなたの事ですから、そうくると思いましたので、そのための時間は取ってあります」
そう冷静に答えた執事長フォレスが、動きのない後方の様子を確認するようにして振り返った。いまだ悔しそうにしているカレンを目に留めて、小さく息を吐く。
「あなたは、幼い頃から全然変わりませんね。ご自分で立ち上がりなさい」
そう言いながらも、彼があちらへと歩み寄っていく様子を、マリアはマークと共にきょとんとして見守っていた。
そばまで来たフォレスが、白い手袋をした掌を差し出した。それをずっと目で追っていたカレンが「今度こそ勝ってやるんだからッ」と、悔し過ぎて涙目になりつつも手を添えると、彼は指先をそっと握り、何も言わず立ち上がらせた。




