十九章 友人と彼と公共食堂と(3)下
走り抜ける悪寒に震えていたマリアは、不意にニールの悲鳴が聞きこえきて、ふっとそちらへ目を向けた。
先程までそこにいた迷惑級な軍人後輩である二人が、いない事に気付いて首を捻った。しかし、こちらに向かってきた騎馬隊の若い軍人二人の姿を見て、疑問を忘れた。直前のドM野郎との一件であったおぞましさは、怒りに変わっていた。
「ヤロー、よくも上手い具合に誘導しやがって」
まずは、あのド変態野郎を潰してくれる。
蹴り飛ばすという選択肢しか残されていなかった状況を思い返しながら、マリアは手の指をゴキリと慣らして、向かってきた騎馬隊員の腹をしたたかに打った。そのまま軍服を鷲掴むと、勢いのまま足払いを掛けて、背負い投げるようにして投げる。
テーブルに残っていた若い軍人たちも、ほとんど全員が「面白ぇぞ、あのメイドなかなか強い!」やら「名将軍に続け!」やら「ポルペオ師団長の部下として負けてなるものかッ」と、参戦してしまっていた。彼らは途中から、鍋プリンも忘れて本気で上官組に挑んでいた。
「マリアちゃん、パス」
「ちょッ、グイードさん、なんでこっちにぶん投げるんですか! ――レイモンドさん、任せた」
「おいいいいい!? 蹴ってこっちに回してくるなよ!?」
グイードの馬鹿力で投げられた第六師団の若い軍人を、マリアは回し蹴りで軌道を変えた。レイモンドが「足癖悪すぎるぞッ」と言いながら、両手で掴まえて宙に放り投げる。
いつもの取っ組み合いだ。
自分たちと、部下や後輩組みで、よくこうしてやり合った。
マリアは、途中からやっぱり面白くなってしまって、気付いたらグイードとレイモンドと足並みを揃えて、三人で笑ってしまっていた。さりげなくサポートに入りつつ暴れているジーンが、カラカラと愉快そうに笑い、一緒になって若い軍人たちに特訓をつけるように体術戦で勝負を持ち込む。
騎馬隊の部下の一人を掴まえたレイモンドが、「よっしゃッ」と堪え性のなかった頃の顔でニヤリとした。ここに集まっていた部下たちの中で、三十代に入ったばかりの彼が「まさか」と、顔面を引き攣らせて上司を見やる。
「レイモンド総帥様、ちょっと待ッ――」
「待たん! エヴァンス、お前も派手に吹き飛んでこい」
その直後、放り投げられた彼の「あんたらなんで揃いも揃って馬鹿力持ちなんですかあああああ!」という悲鳴が宙を待った。
それを見ていた、マリア達をザベラまで連れて行った御者役も務めた騎馬隊の男、トリスが「班長ぉぉおおおお!?」と慌てて追い駆ける。
その時、入れ違うように一つの黒い影が躍り出て、レイモンドの脇を風のように通過し、グイードの後ろも通り過ぎていった。二人はその一瞬後に、疑問を覚えて動きを止めた。
「…………ん?」
「…………今、昔に覚えのある感じで、なんか通っていったような」
グイードがそう言って、レイモンドと共に、気配を追って視線を動かす。
その一瞬後、マリアは背後にぴったりと寄り沿うように立った影に、本能的な拒絶心からぞわりと総毛った。
まさかと思って振り返ると、こちらを真っ直ぐ見下ろす美麗な無表情をした、銀縁眼鏡越しに鮮やかな碧眼を向けてくるモルツと目が合った。冷たくも感じる涼しげな表情で、彼が凛々し眼差しを浮かべて、胸に手をあてこう告げる。
「残りのご褒美を頂くため、舞い戻ってまいりました」
律儀に戻ってくるな。
そう思った時には、マリアは反射的に攻撃態勢に入って背を屈め、きゅっと床を踏み締めると、反動をつけて彼の顎下から渾身の蹴りを打ちこんでいた。
ふわりとスカートが広がる中、形のいい細く白い太腿を下げてすぐ、マリアは容赦なく第二派を見舞うべく跳躍した。くるりと回って、バックから思い切りモルツの脇腹を蹴り飛ばし、自分の視界からド変態野郎を物理的に排除した。
しかも残りってなんだよ。褒美なんて一つもやった覚えはないからな!
大きなリボンと、たっぷりのダークブラウンの髪が舞って、大きく広がったスカートが、遅れて白い膝を隠す。近くにいた若い軍人が、目を剥いて動きを止めるそばで、ヴァンレットが歩いているニールの「あれ? あの変態どこに行った?」に気付いて目を向けた。
再びマリア達の大乱闘が再開した時、それまで椅子に座ったまま、テーブルの上で組んだ手に顎先をあてて沈黙していたロイドが、ゆらりと立ち上がった。
周りの温度が、五度以上下がっていた。近くにいた若い軍人たちが、それを察知してすぐ警戒を覚えて振り返ると、王宮の魔王ことロイド・ファウストの殺気立った目が、絶対零度の空気をまとって、彼らを冷やかに見下ろしていた。
「――おい。今、スカートの中を見た奴は挙手しろ。今すぐ俺が殺してやる」
問われた近くの男たちが、一瞬呆気に取られて「は?」と声を上げた。その数秒後、質問内容を理解して「いやいやいやいやいや」と揃って後ずさりする。
「そもそもなんで!?」
「風紀か!? 風紀の問題なのか!?」
「殺す宣言が容赦ねぇッ、あの目はマジだよ……!」
「そもそも、そんな事をストレートに言われて、挙手する奴なんかいな――」
「絶妙に下着だけは見えなかったんだし、いいんじゃね?」
悠長に辺りをきょろきょろとして、天敵であるド変態を探していたニールが、近くを通過するついでに足を止めて、ロイドの方を振り返りそう答えた。
そこに居合わせた騎馬隊と、第六師団の若い男たちが「おい赤毛ええええええええ!?」と、見事に声を揃えて叫んだ。
しかし、ニールは殺気立った空気さえ読まない様子で、むしろ気付いているのかも分からない笑顔で「つかさ」と、指を一本をピンと立て、思ったまま言葉を続ける。
「魔王って、幼女枠じみた女の子の下着見たいの? それって変態じゃね? 俺は大人の女性のがいいから、お嬢ちゃんのとか興味ないし!」
そう言って、ニールが「あははは」と笑う。
「おいいいいいいい!? そこの赤毛、今すぐやめろ!」
「総隊長様に向かって、ストレートになんて事言ってんだよ!?」
「んなわけないだろうがッお前死にたいのか!?」
周りの男たちが、年齢不詳の彼に向かって、必死に説得の言葉を投げかけた。しかし、その直後、ロイドの殺気が場を支配していた。
テーブルを挟んだ向かいから、強烈な殺気を発せられて、アーシュとルクシアが本能的にピキリと固まった。様子を見守っていた宰相ベルアーノが、途端に腹を押さえて「あんのクソニールめ……!」と、忌々しげに呟いてテーブルに額をぶつける。
ロイドが、腰に差していた剣の柄に指を掛けて、カチャリと鳴らした。
「ぶっ殺す」
発せられた強烈な殺気に気付いて、マリアは一人の軍人を押さえ込んだ姿勢のまま、友人たちと共に動きを止めていた。揃って目を向けてみると、何故かロイドが、遅れて危機感を察知したニールに向かって、こう宣言しているのが見えた。
「ニール、先に言っておく。俺はロリコンじゃない」
…………こいつ、なんでそれを、今ここで言った?
マリア達は、呆気に取られた。若い軍人たちが「そんなの誰もが知ってますッ」、「頼みますから殺気を抑えてください気が遠のきそうです!」と半泣きで言うそばで、ジーンだけが腹を抱えて大爆笑する。
というか、こいつがいたのを、うっかり忘れていた。怒らせた原因といった詳細は不明だが、またしてもニールが何かしら失言したのだろう。
マリアは、騎馬隊の男の胸倉を掴み寄せて、腹を片足で踏んでいる姿勢のまま、しばし真面目に考えていた。若い彼は、髪型も軍服の襟元も乱れた状態で、同じようにロイドの方を見て硬直している。
冷静になったレイモンドが、ふと、その姿勢に気付いて声を掛けた。
「女の子としては、結構過激な構図になっているんだが――マリア、大丈夫か?」
すると、ロイドがこちらを見た。
目が合った瞬間、何故か更に温度が五度下がった。マリアは、これは説得不可な怒りようだと察して、やはりニールが原因で切れたのだろうか、と真顔のまま思案してしまった。そうしたら、彼が「おい」と地を這うような声を投げてきた。
「殺す前に訊いておいてやる。――お前はどこの部隊だ」
「なんで俺!? 俺、とっくにこの子に負かされてるんですけど!?」
まさかの見境なしだった。
てっきり、ニールや自分たちだけが対象かと思っていたのだが、この騒ぎが何かしら逆鱗に障ったのだろうか?
そうマリア達が考えているそばで、その台詞で笑いを引っ込めたジーンが「こりゃまずいなぁ……」と口にして、そろりと動いた。若い軍人の後ろ襟首を掴まえているヴァンレットと、硬直しているニールにこっそり手招きすると、ぎこちなく口を開く。
「えぇっと、……ここは逃げるが勝ち!」
ジーンが、そう言って踵を返して走り出した。思わずレイモンドが「またそのパターンかよッ」と叫ぶそばで、合図を出されたニールが、ヴァンレットと共に公共食堂の出入り口で一旦足を止めて、振り返りざま「お嬢ちゃん行こう」と呼んだ。
その声を聞きながら、グイードは「なぁ相棒」とレイモンドに問いかける。
「で、結局は誰が勝ったんだ?」
「そんな事より、早く出る!」
「オーケー、ひとまず落ち着けよ。ルクシア様を回収するのが先だぜ」
「待て待て待て、俺らと連れて行った方が巻き込むんじゃ――あ、待てよッ」
勝手に走り出したグイードを、レイモンドが慌てて追い駆けた。その様子に気付いたマリアも、遅れて動き出し、二人に並んだところで「あ」と思い出した。
「チクショー、プリンを食い損ねた」
「そっち!?」
「ははは。マリアちゃん、デカい独り言だなぁ。女の子が『チクショー』なんて言うもんじゃないぞ~」
マリアとグイードは、レイモンドが呼び止めるのも構わず、身動きできず硬直しているルクシアとアーシュの元に一直線に向かった。
到着してすぐ、グイードが「ルクシア様、緊急事態なので失礼します」とひょいと担ぎ上げる。その隣で、マリアは女性恐怖症である事を配慮して、アーシュの後ろ襟首をガシリと掴んだ。
目の前のロイドから発せられる威圧感から、半ば解放されて金縛りが少し解けた彼が、条件反射のように顔を向けた。ルクシアと自身の様子に目を留め、青い顔で「おい、マリア」と呼ぶ。
「ちょっと待て、なんだこの手。嫌な予感がするんだが――」
「アーシュすぐに立てないでしょ? 時間がないから、ちょっと我慢しててね」
「よっしゃ退却!」
グイードが号令を出し、レイモンドも咄嗟にアーシュの後ろ襟首を掴まえて、マリアは加勢する彼と共に走り出した。出入り口に待機しているジーン達に気付いて、彼がルクシアを担いだまま片手で合図を送る。
「待つな、後がつっかえるだろ。行け行けッ」
「はははっ、ウチの連中が『マリア』を待って動こうとしねぇんだ」
ニヤリとしてジーンが言い、ほら行くぞ、とニールとヴァンレットに促して駆け出した。
※※※
逃走に巻き込まれ、勢いよく引っ張られていったアーシュの「こうなると思ったんだよチクショーおおおおおおおこの脳筋メイドめええええ!」という叫びが、公共食堂から遠ざかっていく。
ロイドが「逃がすか」と低く呟いて走り出し、それを見たポルペオが、「馬鹿者! 貴様らはまた騒ぎを起こす気か!」と叱りつけながら後を追って食堂を出て行った。しばし傍観していたモルツも、悠々とそれに続く。
騒がしいメンバーがいなくなった事で、しん、と食堂内が静まり返った。
それを見届けた直後、中央のテーブル席に残された宰相ベルアーノが、とうとう腹を押さえてテーブルに突っ伏した。
しばし呆然としていた若い軍人たちは、嵐でも去ったかのように静かになった公共食堂内を見回した。九割以上が乱闘に参加していたから、彼らはボロボロに負かされた互いの姿を見合ったところで、「ははっ」と乾いた笑みを浮かべた。
「そもそも黄金時代に活躍していた人達に、俺らみたいなペーペーが勝てる訳がないんだよなぁ」
「ははっ、同感だ。ポルペオ様も参加していたら、とんでもなかっただろうな」
「騎馬隊のところの総帥は、まだまだ現役で強いんだな」
「お前らのところの第六師団だって、同じだろ」
彼らは、茫然と佇んでいるコック達に申し訳なさそうに笑いかけて「片付け、手伝いますよ」と言った。ついさっきまで、荒々しい騒ぎを起こしていたとは思えないくらい落ち着いていた。
彼らが王宮の軍人として、教育が行き届いている丁寧な手付きで、コック達と椅子やテーブルの位置を戻し始める中、料理長は茫然とした様子で出入り口に目を留めていた。直前の騒ぎと、そして出て行った彼らの様子を思い返す。
「結局のところ、楽しそうだったなぁ……」
ふと、ポツリと言葉がこぼれ落ちた。とても、彼らしい、と思わされた。
不意に、懐かしさと悲しみが胸を貫いて、それでいて『ああ、良かった』という安堵感で涙腺が緩んだ。料理長はよく分からないまま、十六年間強張っていた心が軽くなるのを感じて「ははは」と笑い、目尻に浮かんだ涙をひっそり拭った。




