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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第一章 好きになる

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9/60

すぐに

 夏休みは、ほとんど図書館で終わった。


 市立図書館の二階、窓際の長机。朝の九時に開館すると同時に入って、閉館の音楽が鳴るまでそこにいた。今里くんは、たいてい私の向かいに座っていた。


 付き合い始めたからといって、何かが大きく変わったわけではなかった。


 受験生の夏には、デートと呼べるようなことをする時間はほとんどない。ただ、同じ机で問題集をほどいて、昼になったら一緒に外のベンチでおにぎりを食べて、帰りに駅まで並んで歩く。それだけだった。


 それだけのことが、毎日、ちゃんと嬉しかった。


 向かいの席で、今里くんが数学の問題に唸っている。シャーペンの尻で額を叩いて、ノートを睨んで、また叩く。そのシャーペンの軸には、駅前の歯医者の名前が金色で印刷されていた。待合室でもらったのだと、本人は言っていた。


 私は、自分の英文から目を上げて、その様子を眺めていた。天井の送風口から降りてくる冷房の風が、開いたページの端を小さく揺らしていた。


 目が合った。


「……見てた?」


「見てない」


「見てたじゃん」


「……額、赤くなってる」


 今里くんは、慌てて額をこすった。余計に赤くなった。


 図書館の司書さんが、こちらを見て咳払いをした。私たちは同時に問題集に顔を伏せた。


 


 志望校は、同じだった。


 隣の県の、国立大学。家から電車で一時間と少し。私の成績なら、たぶん大丈夫。今里くんの成績だと、夏の模試の判定はCだった。


「秋までにBにする」


 今里くんは、判定の紙を折り畳みながら言った。


「冬にはA」


「……できるの」


「する」


 迷いのない声だった。


 今里くんは、その日から、図書館にいる時間がさらに長くなった。閉館の音楽が鳴っても、最後の一問が終わるまで席を立たなかった。


 同じ大学に行く。


 それが、二人のあいだで、いつのまにか当たり前の約束になっていた。


 


 二学期の最初の日に、席替えがあった。


 私は廊下側の前から三番目、今里くんは窓際の一番後ろになった。四月から五ヶ月、ずっと隣にあった横顔が、教室の対角線の向こうへ行ってしまった。


 授業中にふと振り返ると、ときどき、目が合った。今里くんは、そのたびに、何でもない顔で黒板のほうを向いた。


 


 九月の終わりだった。


 放課後、進路指導室に呼ばれた。


 担任の宮下先生と、学年主任の先生が並んで座っていた。机の上に、一枚の書類が置いてあった。


「山吹。指定校推薦の枠が一つ、空いてる」


 宮下先生が、書類を私のほうへ滑らせた。


 大学の名前を見て、息が止まった。


 東京の、私立大学だった。名前を知らない人はいない、というくらいの。文学部。私が、小学生のころから、なんとなく憧れていた場所。


「評定は足りてる。校内選考も、たぶん通る。……ただ、専願だから、出したら他は受けられない」


「……」


「締め切りは、十月の二週目。家の人とも、よく相談しなさい」


 私は、書類を持って、進路指導室を出た。


 廊下の窓から、夕日が斜めに差し込んでいた。


 書類の文字が、橙色に染まって、うまく読めなかった。


 


 その夜、母に書類を見せた。


 母は、書類を二度読み返してから、顔を上げた。


「すごいじゃない」


「……うん」


「行きたいんでしょう。昔から」


「……わかんない」


 母は、私の顔を見た。


「わかんないの、そこの大学のこと? それとも、別のこと?」


 私は、答えられなかった。


 母は、それ以上は訊かなかった。


 書類を私に返して、「お父さんには、私から話しておく」とだけ言った。


 


 今里くんに話さなきゃ、と思った。


 思いながら、三日が過ぎた。


 図書館の向かいの席で、今里くんは相変わらず数学の問題に唸っていた。九月の模試は、B判定だった。「言ったろ」と、得意げに紙をひらひらさせた。


 その顔を見ると、口が開かなかった。


 三日目の夕方、図書館の外のベンチで、今里くんが自販機のココアを二本買ってきた。


「なあ、大学入ったらさ」


 缶を私に渡しながら、今里くんは言った。


「学食、毎日一緒に食べようぜ。あそこの学食、カレーがうまいらしい。朔の兄貴が言ってた」


「……うん」


「あと、なんだっけ。キャンパスに、でかい銀杏並木があんの。秋になると、道がぜんぶ埋まるくらい葉っぱが落ちるんだって。……それ、二人で見たいなって」


 今里くんは、缶のプルタブを開けて、空を見上げた。


「なんか、楽しみなことばっかだな」


 私は、手の中のココアの缶を見ていた。


 温かかった。温かすぎて、指先が痛かった。


 言うなら、今だった。


 でも、この人の「楽しみなことばっか」の中に、私の書類の話を落とす方法が、どうしても見つからなかった。


 


 東京の大学。家から通えない距離ではない。でも、隣の県の国立とは、方向がまるで逆だった。同じキャンパスに通う、という約束は、そこで終わる、はずだった。


 言ったら、私が何かを手放したことが、本当になってしまう。


 だから、言わなかった。


 席替えのあとも、昼休みになると、窓際の一番後ろの今里くんの席に集まった。隣の空いた机を借りて、四つをくっつける。


 四日目の昼休み、そうして机を囲んでいたとき、萩原くんが何気なく言った。


「そういや山吹さん、指定校の話きてんでしょ。美月が言ってた。職員室で聞こえたって」


 


 箸が、止まった。


 亜美が、「ちょっと、朔」と小声で言った。


 萩原くんは、きょとんとした顔で私たちを見回した。それから、隣の今里くんの顔を見て、自分が何かを踏んだことに、ようやく気づいたらしかった。


「……え、言ってなかった?」


 今里くんは、私を見ていた。


 驚いた顔だった。


 でも、それはほんの一瞬で、すぐに、別の顔に変わった。


「どこ?」


「……」


「大学。どこ」


 私は、大学の名前を言った。


 今里くんは、目を見開いた。


「すげーじゃん」


 すぐだった。


「行けよ。そんなの、行くしかないじゃん」


 笑っていた。


 いつもの笑い方だった。私の前で、よくする笑い方。


 すぐだった。


 一秒も、なかった。


 


 四月から、ずっと、この人は待ってくれた。


 私が言葉を探している間、シャーペンを指で回したり、パンの次の一口を遅らせたりしながら、ずっと隣にいてくれた。


 その人が、今、一秒も待たなかった。


 私が何を考えているのかも、訊かなかった。行きたいのかどうかも。迷っているのかどうかも。


 行けよ、と言った。


 すぐに。


 まるで、離れることなんて、何でもないみたいに。


「……なんで」


 声が出た。


 自分でも驚くくらい、速かった。


「なんで、すぐ言うの」


 今里くんの笑顔が、固まった。


 私は、弁当の蓋を閉めた。手が震えて、うまく閉まらなかった。二回目で、やっと閉まった。


 立ち上がった。


「渚沙」


 呼ばれた。


 振り返らなかった。


 教室を出て、廊下を歩いた。後ろで、亜美が「待って」と言うのが聞こえた。


 上履きの音が、ぱたぱたと鳴っていた。


 六月の階段で聞いたのと、同じ音だった。

お読みいただき、ありがとうございます。


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