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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第五章 最後の願い

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三度目の石段

 五月に入って、中間テストが近づいてきた。


 図書室で、裕太は『このときの主人公の心情を答えよ』に頭を抱えて、「それ、山吹さんっぽい」と笑った。帰り道の交差点で、右を指して「こっちのが近い」と言った。


 近くない道だった。


 わかっていて、ついていった。


 


 鳥居をくぐった。


 二度目の私は、怖くて、本殿を見ないようにしてくぐった。


 今度は本殿を見た。


 古い屋根。賽銭箱。その脇の暗がり。絵馬掛けのあるほう。


 立て札も、見た。


 一行目だけが、夕方の光の中で読めた。


 この社は、古くより——


 私はそこで目を離した。


 今は、まだ。


 


 本殿の前の石段に、裕太が座った。


「ちょっと休憩」


 ぽん、と隣の段を叩いた。


 私は隣に座った。


 石段は昼間の熱をまだわずかに残していた。


 楠の葉が風に揺れて鳴っていた。境内の奥で、鳩が一羽、地面をつついていた。


「山吹さんってさ」


 裕太が膝の上で指を組んだ。


「卒業したら、何したいとかある?」


 


 一度目の私は、「まだ、わかんない」と答えた。


 二度目の私は、「二年後の、五月を、一緒に過ごしたい」と答えた。


「……ある」


「え、あんの」


「……うん。でも、まだ言わない」


「なにそれ」


 裕太は笑った。


「言わないの、ずるくない?」


「……ずるい」


「認めんのかよ」


 


 鳩がばさばさと飛び立った。


 裕太はその行方を、楠の梢の上まで目で追っていた。


 それから、前を向いたまま、言った。


「あのさ」


「……うん」


「山吹さんって、言いにくくない?」


 


 来た、と思った。


 一度目の石段で、この人はこう訊いた。二度目は、私が初日に「裕太」と呼んでしまったから、この問いは来なかった。


 今度は、来た。


「や、ま、ぶ、き、さ、ん。六文字。長い」


「……自分で、言ってるのに」


「そう。だから、長い」


 裕太は組んだ指をほどいて、また組んだ。


「渚沙って、呼んでいい?」


 


 答えはもう決まっていた。


 いいよ、の三文字だった。


 すぐに言えた。今の私なら、一秒もかからずに。


 でも、言わなかった。


 隣を見た。裕太は前を向いたまま、膝の上の指を、少しだけ強く組んでいた。


 急かさなかった。


 聞き返さなかった。


 待っていた。


 


 私はその待ち方を、見ていた。


 一度目の私には、この待ち方の意味が、わからなかった。言葉が見つからなくて、焦って、やっとのことで「いいよ」と言った。


 今の私にはわかっていた。


 この人はこの先、何度もこうやって待つ。三日遅れの「ありがとう」を。花火のあとの「好き」を。門の前で、図書館で、共通テストの夜に。


 そして、この人は何度も私のいない世界を待ってきた。


 だから、今は。


 この人が待つ時間を、少しだけ、長く見ていたかった。


 


「……いいよ」


 楠の葉が三回鳴るのを待ってから、言った。


 裕太がこちらを向いた。


「やった」


 子どもみたいな笑い方だった。


「……渚沙」


「……うん」


「呼んでみただけ」


「……知ってる」


 裕太は声を出して笑って、立ち上がった。私に手を差し出した。


 私は迷わずに、その手を取った。


 


 中間テストが終わって、三年二組は喫茶店に決まった。


 


 私は装飾班で、教室の隅に新聞紙を敷いて、小さな黒板にメニューを書いた。


 手が先に覚えていた。字の大きさも、行の間も、どこで息を継ぐかも。


 それなのに、練習の紙の「いらっしゃいませ」だけは、三回書いて、三回とも気に入らなかった。


 「ら」の払いが、いつも、同じところで震えた。


 私はその紙を、新聞紙の端に置いた。


 置いて、待った。


 


 裕太が私の隣にしゃがみ込んで、同じ高さで黒板を見た。


「それ、渚沙が書いてんの。……店っぽい」


 それから、裕太の靴の先が、新聞紙の端の紙を踏んだ。


「あ、ごめん」


 足をどけて、拾い上げて、広げた。


「これ、捨てんの?」


 一度目と、一文字も違わなかった。


「……うん。下手だから」


「もらっていい?」


「……いいよ」


 今度は聞き返さなかった。


 裕太は書き損じた「いらっしゃいませ」を、丁寧に四つ折りにして、胸ポケットにしまった。


 白いシャツの布ごしに、紙の角が小さく四角く浮いた。


 


 あの紙はこの人のほうにだけ行く。


 一度目の紙が、そのあと、どこへ行ったのか、私はとうとう訊かなかった。


 それで、よかった。


 私の手元に残るのは、書き直した、きれいなほうだけだった。


 


 次の日、チョークの箱が、メニューボードの前に置いてあった。


 箱の上に、ノートの切れ端が載っていた。


 白いの減ってたから。 今里


 一度目と、同じ字だった。


 少し右上がりの、急いで書いた字。


 顔を上げると、教室の反対側で、裕太が段ボールを潰していた。目が合うと、何でもない顔をして、また段ボールに戻った。


 切れ端は生徒手帳の、一度目と同じページに挟んだ。


 


 六月の文化祭は、何事もなく過ぎた。


 早瀬さんの封筒で三日間黙ることもなかったから、屋上の階段で、紙コップを二つ持った裕太に、あの問いを訊かれることもなかった。


 俺がいなくなったらどうする。


 その答えは、今度は別の場所で言おうと思った。


 


 七月になった。


 夜、水色のノートの新しいページに、三つ、書いた。


 


 一度目の夏祭り。あの人はお守りを買いに行くと言って、本殿の脇の暗がりへ逸れた。戻ってきたとき、右手の人差し指の脇に、黒いインクがついていた。家の前で、何かを言いかけて、やめた。


 二度目の夏祭り。同じ暗がり。同じインク。同じ「やっぱ、いいや」。


 三度目の最後に、あの人は言った。何度も、過去に戻っている、と。


 


 あの暗がりで、何を書いていたのか。それが何を始めたのか。


 わからなかった。


 でも、ひとつだけ、わかった。


 あの夜の、あの暗がりに、何かがある。


 


 ノートの一番下に、書いた。


 夏祭りの夜、あの人を、一人で本殿へ行かせない。

お読みいただき、ありがとうございます。


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