三度目の石段
五月に入って、中間テストが近づいてきた。
図書室で、裕太は『このときの主人公の心情を答えよ』に頭を抱えて、「それ、山吹さんっぽい」と笑った。帰り道の交差点で、右を指して「こっちのが近い」と言った。
近くない道だった。
わかっていて、ついていった。
鳥居をくぐった。
二度目の私は、怖くて、本殿を見ないようにしてくぐった。
今度は本殿を見た。
古い屋根。賽銭箱。その脇の暗がり。絵馬掛けのあるほう。
立て札も、見た。
一行目だけが、夕方の光の中で読めた。
この社は、古くより——
私はそこで目を離した。
今は、まだ。
本殿の前の石段に、裕太が座った。
「ちょっと休憩」
ぽん、と隣の段を叩いた。
私は隣に座った。
石段は昼間の熱をまだわずかに残していた。
楠の葉が風に揺れて鳴っていた。境内の奥で、鳩が一羽、地面をつついていた。
「山吹さんってさ」
裕太が膝の上で指を組んだ。
「卒業したら、何したいとかある?」
一度目の私は、「まだ、わかんない」と答えた。
二度目の私は、「二年後の、五月を、一緒に過ごしたい」と答えた。
「……ある」
「え、あんの」
「……うん。でも、まだ言わない」
「なにそれ」
裕太は笑った。
「言わないの、ずるくない?」
「……ずるい」
「認めんのかよ」
鳩がばさばさと飛び立った。
裕太はその行方を、楠の梢の上まで目で追っていた。
それから、前を向いたまま、言った。
「あのさ」
「……うん」
「山吹さんって、言いにくくない?」
来た、と思った。
一度目の石段で、この人はこう訊いた。二度目は、私が初日に「裕太」と呼んでしまったから、この問いは来なかった。
今度は、来た。
「や、ま、ぶ、き、さ、ん。六文字。長い」
「……自分で、言ってるのに」
「そう。だから、長い」
裕太は組んだ指をほどいて、また組んだ。
「渚沙って、呼んでいい?」
答えはもう決まっていた。
いいよ、の三文字だった。
すぐに言えた。今の私なら、一秒もかからずに。
でも、言わなかった。
隣を見た。裕太は前を向いたまま、膝の上の指を、少しだけ強く組んでいた。
急かさなかった。
聞き返さなかった。
待っていた。
私はその待ち方を、見ていた。
一度目の私には、この待ち方の意味が、わからなかった。言葉が見つからなくて、焦って、やっとのことで「いいよ」と言った。
今の私にはわかっていた。
この人はこの先、何度もこうやって待つ。三日遅れの「ありがとう」を。花火のあとの「好き」を。門の前で、図書館で、共通テストの夜に。
そして、この人は何度も私のいない世界を待ってきた。
だから、今は。
この人が待つ時間を、少しだけ、長く見ていたかった。
「……いいよ」
楠の葉が三回鳴るのを待ってから、言った。
裕太がこちらを向いた。
「やった」
子どもみたいな笑い方だった。
「……渚沙」
「……うん」
「呼んでみただけ」
「……知ってる」
裕太は声を出して笑って、立ち上がった。私に手を差し出した。
私は迷わずに、その手を取った。
中間テストが終わって、三年二組は喫茶店に決まった。
私は装飾班で、教室の隅に新聞紙を敷いて、小さな黒板にメニューを書いた。
手が先に覚えていた。字の大きさも、行の間も、どこで息を継ぐかも。
それなのに、練習の紙の「いらっしゃいませ」だけは、三回書いて、三回とも気に入らなかった。
「ら」の払いが、いつも、同じところで震えた。
私はその紙を、新聞紙の端に置いた。
置いて、待った。
裕太が私の隣にしゃがみ込んで、同じ高さで黒板を見た。
「それ、渚沙が書いてんの。……店っぽい」
それから、裕太の靴の先が、新聞紙の端の紙を踏んだ。
「あ、ごめん」
足をどけて、拾い上げて、広げた。
「これ、捨てんの?」
一度目と、一文字も違わなかった。
「……うん。下手だから」
「もらっていい?」
「……いいよ」
今度は聞き返さなかった。
裕太は書き損じた「いらっしゃいませ」を、丁寧に四つ折りにして、胸ポケットにしまった。
白いシャツの布ごしに、紙の角が小さく四角く浮いた。
あの紙はこの人のほうにだけ行く。
一度目の紙が、そのあと、どこへ行ったのか、私はとうとう訊かなかった。
それで、よかった。
私の手元に残るのは、書き直した、きれいなほうだけだった。
次の日、チョークの箱が、メニューボードの前に置いてあった。
箱の上に、ノートの切れ端が載っていた。
白いの減ってたから。 今里
一度目と、同じ字だった。
少し右上がりの、急いで書いた字。
顔を上げると、教室の反対側で、裕太が段ボールを潰していた。目が合うと、何でもない顔をして、また段ボールに戻った。
切れ端は生徒手帳の、一度目と同じページに挟んだ。
六月の文化祭は、何事もなく過ぎた。
早瀬さんの封筒で三日間黙ることもなかったから、屋上の階段で、紙コップを二つ持った裕太に、あの問いを訊かれることもなかった。
俺がいなくなったらどうする。
その答えは、今度は別の場所で言おうと思った。
七月になった。
夜、水色のノートの新しいページに、三つ、書いた。
一度目の夏祭り。あの人はお守りを買いに行くと言って、本殿の脇の暗がりへ逸れた。戻ってきたとき、右手の人差し指の脇に、黒いインクがついていた。家の前で、何かを言いかけて、やめた。
二度目の夏祭り。同じ暗がり。同じインク。同じ「やっぱ、いいや」。
三度目の最後に、あの人は言った。何度も、過去に戻っている、と。
あの暗がりで、何を書いていたのか。それが何を始めたのか。
わからなかった。
でも、ひとつだけ、わかった。
あの夜の、あの暗がりに、何かがある。
ノートの一番下に、書いた。
夏祭りの夜、あの人を、一人で本殿へ行かせない。
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