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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第五章 最後の願い

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四度目の四月

 脇腹から、手を離した。


 指先に、何もついていなかった。


 紺色のブレザーの生地が、ただ乾いていた。


 


「——出席番号順な。相沢から」


 前の席の子が立ち上がって、教卓へ歩いていく。


 私は、膝の上で、両手を握った。


 握った手の中に、まだ、あの人の頬の濡れた感触が残っている気がした。


 ずっと、一人で、戻ってたの。


 最期に、私はそう訊いた。


 裕太は、答えなかった。答えないまま、私の手に、自分の手を重ねた。


 


 四度目の四月だった。


 一度目は、何も知らなかった。二度目は、知っていて、助けようとした。三度目は、知っていて、逃げた。


 どれも、同じ場所に着いた。


 そして、三度目の最後に、知った。


 私だけではなかった。


 


 箱から引いた紙は、四度目の二十九だった。三十番の枠には、少し右上がりの字で「今里」。私は「山吹」と書いて、交換はしなかった。


 机を運んで、窓際の列へ。


 窓の外で、校庭の桜が半分くらい散っていた。


 心臓が、うるさかった。


 来る。


 隣の机が、がたん、と音を立てて止まる。


 そして、あの人が。


 何度も戻ってきた、あの人が。


 


「よっ、と」


 


 声がした。


 私は、顔を上げた。


 裕太がいた。


 机の端を両手で押さえて、位置を微妙に調整していた。一度前に出しすぎて、また少し引いた。


 私を見た。


 目が、合った。


 


 私は、待った。


 あの人の目の奥に、何かが浮かぶのを。


 飲み会の暖簾をくぐったときの、探していたものをやっと見つけた人の顔を。


 あの夜、床に座り込んで、ぼろぼろと涙を落としていた顔を。


 浮かばなかった。


「よろしく。山吹さん、だよね」


 


 息が、止まった。


 何も、なかった。


 あの人の目の中には、座席表で見たばかりの同級生の名前しか、なかった。


 一度目の四月と、同じ顔だった。


「……うん」


 やっと、それだけ言えた。


 裕太は、少し首を傾げた。


「……大丈夫? 顔色、悪いけど」


 


 私は、机の下で、自分の手を強く握った。


 爪が、手のひらに食い込んだ。


 この人は、覚えていない。


 三度目の最後に、あれほど泣いていた人が。「……お前を、なくしたくないから」と言った人が。何度も過去に戻っている、と言った人が。


 今、ここでは、何も覚えていない。


 


「……大丈夫」


 声が出た。


「……ちょっと、寝不足で」


「そっか。無理すんなよ」


 裕太は机に頬杖をついて、窓の外を見た。


 私はその横顔を見ていた。


 一度目の四月も、この横顔だった。


 


 亜美も、何も知らない高三の顔で、窓際いいな、と笑った。改札の前で私の手首を掴んで泣いた亜美は、どこにもいなかった。


 水曜日の昼休みには、隣でパンの袋が破れて、「昼いつもどこで食べてんの」が来た。今度は怖がらずに答えた。立ち上がる前に、口の端のパンくずを、指で教えた。この人は反対側をこすって、二度目で取れた。


 金曜日の放課後には、「しゃべるの遅いよね」が来た。その続きは二度目の周では、とうとう聞けなかった。


「待ってると、ちゃんと来るじゃん。考えたやつが。……それが、いいなって。思っただけ」


 全部を覚えている私のまま、何も覚えていないこの人の口から、もう一度聞いた。


 


 その夜、水色のノートを開いた。


 今度はあの人のことを書くためではなかった。私が知っていることを、並べるためだった。


 


 一度目。あの人は五月七日の朝、変わった。『おはよ』が来なかった。


 二度目。あの人は五月七日の朝、大学を休むと言った。そのまま、いなくなった。


 三度目。あの人は五月の十日には、もう私の連絡先を探していた。


 


 シャーペンが、止まった。


 どの周も、あの人が変わるのは、五月七日だった。


 あの人は五月七日に、思い出すのだ。


 それまでの自分が、何度戻ってきたのかを。


 だから、それまでは何も覚えていない。


 だから、今日、あの顔で「よろしく」と言った。


 


 ノートの上に、書いた。


 五月七日。


 四度目の四月から、二年と少し先。


 


 何も覚えていないあの人と、二年間。


 一度目も二度目も、私はあの人と恋をした。三度目は逃げた。


 窓の外で、雨が降り始めていた。


 私はノートを閉じた。


 今度は、逃げない。


 今度は、止めようともしない。


 ただ、もう一度、この人と恋をする。


 そして、五月七日の朝、この人が全部を思い出したとき、隣にいる。


 言うのだ。


 知ってる、と。


 全部、知ってる、と。


 今度は、一人にしない。


 


 四月の終わり、雨の日だった。


 六限が終わって、昇降口で靴を履き替えると、外はひどい土砂降りになっていた。


 朝は晴れていた。傘を持ってきていなかった。


 亜美は委員会で遅くなる日だった。


 傘立ての傘が、一本、また一本と抜かれていって、生徒たちが雨の中へ出ていった。


 校門の先が白く霞んでいた。


 


「——傘ないの?」


 隣で、声がした。


 裕太だった。


 黒い傘を一本、手に提げていた。


「……ない」


「駅だよね、山吹さん」


「……うん」


「じゃあ、入る?」


 裕太は傘を開いた。


 黒い布がばさりと広がった。


「……いいの」


「いいって。どうせ同じ方向だし」


 


 これまでの三回になかったのは、雨ではなかった。傘を持たない私と、傘を持ったこの人が、昇降口に二人きりでいることだった。


 


 傘の中に、入った。


 狭かった。


 裕太の肩と、私の肩がほとんど触れそうだった。


 雨の音が黒い布の上で、ばらばらと鳴っていた。


 裕太は前を向いたまま歩いていた。


 私も、黙ってその歩幅に合わせた。


 沈黙が嫌ではなかった。


 


 交差点で、裕太はまっすぐ駅のほうへ歩いた。


 右には曲がらなかった。この人が「こっちのが近い」と言って曲がるのは、五月の、中間テストの前だった。


 


 駅の屋根の下に着いた。


 裕太が傘を閉じた。


 水滴がコンクリートの上に、ぱたぱたと落ちた。


「……ありがとう」


「いいって」


 裕太は傘を振って水を切った。


 そのとき、見えた。


 裕太の左肩が、びしょ濡れだった。


 紺色のブレザーの肩から袖にかけて、雨がしみ込んで、色が変わっていた。


 右肩は乾いていた。


 私の肩も、乾いていた。


 


 傘を、ずっと私のほうに傾けていたのだ。


 校門から、ここまで。


 黙ったまま。


 


 裕太は、自分の肩には気づいていないような顔をしていた。


 気づいていないふりをしているのだと、わかった。


 言ったら、この人はきっと照れて、何でもない顔をする。


 だから、言わなかった。


 見ていた。


 濡れた左肩を。


 それから、改札へ向かう裕太の背中を。


 


「じゃあ、また明日」


 裕太が振り返って、手を上げた。


「……また明日」


 私も、手を上げた。


 


 改札の向こうに、裕太の背中が消えていった。


 雨の音が少しずつ弱くなっていった。


 


 この人は何も覚えていない。


 私が誰なのかも。私たちが何度、この四月を繰り返してきたのかも。


 覚えていないまま、傘を私のほうに傾けて、自分の左肩を濡らしていた。


 


 一度目も、二度目も、そうだった。


 何も覚えていないこの人は、何度でも、私を好きになった。


 そして今、四度目の私の前で、また。


 


 胸の奥が痛いほど温かかった。


 目の奥が熱かった。


 こぼさないように、瞬きをこらえた。


 あの雨の神社で涙が出なかったのとは、違う理由だった。


 泣いたら、この温かさが、流れてしまう気がした。


 


 私は駅の屋根の下で、濡れていない自分の両肩を、そっと抱いた。

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