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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第四章 君のいない世界

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何度も

※本作には、恋人間の暴力(DV)の描写が含まれます。もし今、同じような状況にいる方がいたら、一人で抱え込まずに、DV相談ナビ(#8008)などの窓口に相談してください。

 振り返った。


 アパートの階段の影に、相良さんが立っていた。


 黒いパーカーのフードを目深に被っていた。


「……相良、さん」


「女子会、楽しかった?」


 低い声だった。


 笑っているような声だった。


「三人でご飯、って言ってたよね。……男、何人いた?」


「……」


「位置、見てたよ。店の前まで行った。窓から、見えた」


 相良さんは一歩近づいてきた。


「あいつでしょ。今里」


 


 私は後ずさった。


 背中が階段の手すりに当たった。


「……違う。亜美が、呼んだだけで」


「送ってもらって。家の前まで。……俺、家の前まで送ったこと、何回あったっけ」


 相良さんの手が伸びてきた。


 手首を、掴まれた。


「上、行こ。話しよ」


「……相良さん、痛い」


「話、しよって」


 


 引きずられるように階段を上った。


 外廊下の突き当たりの私の部屋の前。


「鍵」


 震える手で鍵を出した。


 鍵穴になかなか入らなかった。


 相良さんの手が私の手の上から鍵を掴んで、差し込んで、回した。


 扉が開いた。


 背中を押された。


 暗い部屋の中に倒れ込むように入った。


 扉が、閉まった。


 


 明かりはつけられなかった。


 窓から入る街灯の光だけが、部屋の中をぼんやりと照らしていた。


 窓際のコップに白い花が挿さっていた。


 相良さんは台所の前に立っていた。


「俺さ」


 かすれた声だった。


「渚沙だけは、俺を見てくれると思ってた。……親父も、兄貴も、誰も見てくれなかったけど、渚沙だけは」


「……見てた」


「嘘だよ」


 相良さんの声が裏返った。


「あいつの顔、見てたでしょ。窓から見えたよ。……俺のこと、一回も、あんな顔で見たことないくせに」


 


 相良さんの手が台所の流しの上で、何かを掴んだ。


 街灯の光が、細く光った。


 包丁だった。


 息が、できなくなった。


「……相良さん」


「渚沙が悪いんだよ」


 相良さんは泣いていた。


 泣きながら包丁を握っていた。


「渚沙が、俺じゃないやつのこと考えるから。……ずっと、そうだったでしょ。付き合ってから、ずっと。俺の隣にいて、ずっと、どっか遠いとこ見てたでしょ」


 


 遠いところ。


 亜美も同じことを言った。


 今年の渚沙、ずっと、どっか遠いとこにいるみたい。


 私はずっと、遠いところを見ていた。


 最初の夏の石段を。二度目の夏の防波堤を。


 あの人のいない場所から、あの人が生きている場所を。


 


 扉が、激しく叩かれた。


「——山吹さん!」


 あの人の声だった。


 相良さんの肩が、跳ねた。


「山吹さん、開けて! ……いるだろ!」


 帰ったはずの人だった。


 角を曲がって見えなくなったはずの人だった。


 扉の鍵は閉まっていなかった。相良さんが閉め忘れていた。


 扉が、開いた。


 外廊下の明かりを背にして、あの人が立っていた。


 


 相良さんが振り返った。


 あの人を見た。


 包丁を、握り直した。


「——お前か」


 相良さんがあの人のほうへ、踏み出した。


 あの人は動かなかった。


 避けようとしなかった。


 私を見ていた。


 部屋の奥の、私を。


 まるで、自分に向かってくるものなんか、どうでもいいみたいに。


 


 体が、勝手に動いた。


 考えるより先に。


 言葉を探すより、ずっと先に。


 私は、あの人と相良さんのあいだに、飛び込んでいた。


 


 脇腹に、熱いものが入ってきた。


 


 音が、しなかった。


 痛みも、すぐには来なかった。


 ただ、熱かった。


 相良さんの顔が、目の前にあった。


 真っ白だった。


 自分の手を見て、私を見て、それから何かを叫んで、包丁から手を離した。


 後ずさって、あの人を突き飛ばして外廊下へ飛び出していった。


 足音が階段を駆け下りていった。


 


 膝から、力が抜けた。


 床に崩れる前に、誰かの腕が、私を抱きとめた。


「——渚沙!」


 あの人だった。


 床に座り込んで、私を抱えて、私の脇腹を両手で押さえていた。


「渚沙、渚沙、しっかりしろ。……今、救急車、呼ぶから」


 あの人の声が、震えていた。


 あの人の手が、濡れていた。


 温かかった。


 私の血だった。


 


「……なんで」


 声が、出た。


 自分の声ではないみたいに、遠かった。


「なんで、戻ってきたの」


「……顔」


 あの人は、片手でスマホを耳に当てながら、言った。


「スマホ見たときの、顔。……あれ、見たことあったから」


「……」


「前に、見たことあったんだよ。……同じ顔」


 


 前に。


 この世界で、あの人と私は、ほとんど話したことがなかった。


 あの人が、私のそんな顔を見たことは、一度もないはずだった。


「……前、って」


 あの人は、答えなかった。


 電話の向こうに住所を叫んでいた。


 叫び終えて、スマホを床に放って、両手で私の脇腹を押さえ直した。


 強く。


 痛いくらい、強く。


「……ごめん」


 あの人が、言った。


「ごめん、渚沙。……また、間に合わなかった」


 


 また。


 その言葉を、私は、前にも聞いていた。


 二度目の夏の海沿いの国道で。散らばった線香花火の横で。


 ごめん。また、間に合わなかった。


 あのとき、私は、聞き流した。救急車が来るから、しゃべらないで、と言って。


 今、私は、聞き流さなかった。


「……また、って」


 かすれた声で、言った。


「また、って、なに」


 


 あの人は、私の顔を見た。


 泣いていた。


 声を出さずに、ぼろぼろと、涙を落としていた。


 その涙が、私の頬に、落ちた。


 温かかった。


「……お前を、なくしたくないから」


 あの人の声が、崩れた。


「俺は、何度も、過去に戻ってるんだ」


 


 


 世界が、音を失った。


 


 何度も。


 過去に。


 戻っている。


 この人も。


 この人も、ずっと、同じ時間の中にいた。


 最初の夏の石段も。二度目の夏の防波堤も。高三の十一月の廊下も。今夜の飲み会の暖簾も。


 この人は、全部、知っていた。


 知っていて、私の名前を、呼んでしまった。


 知っていて、「何もしない、でも、いなくもならない」と言った。


 知っていて、また、私の前に、立っていた。


 最初の世界の、あの人の通夜で、萩原くんが言っていた。


 ——なあ朔。もし同じ日を何回もやり直せるとしたらさ、お前どうする。


 ゲームの話だと思った、と萩原くんは泣き笑いの顔で言った。


 ゲームの話ではなかった。


 一度目の五月の銀杏並木で、のど飴を押しつけて、「明日、熱出るから」と言った。


 私が顔をしかめていたからだ、と、あのときは思った。


 あれも、もしかしたら。


 


 ずっと、一人だと思っていた。


 この繰り返しの中で、覚えているのは、私だけだと。


 違った。


 この人も、ずっと、一人で。


 


 手を、伸ばした。


 あの人の頬に、触れた。


 濡れていた。


「……裕太」


 


 呼んだ。


 あの四月の朝から、二年半、一度も、心の中でさえ呼ばなかった名前を。


 あの人、としか呼ばずにきた人の、名前を。


 裕太が、目を見開いた。


「……渚沙」


「……ずっと、一人で、戻ってたの」


「……」


「……ずっと?」


 裕太は、答えなかった。


 答えないまま、私の手に自分の手を重ねた。


 それが、答えだった。


 


 遠くで、サイレンが鳴っていた。


 近づいてくるのか、遠ざかっていくのか、わからなかった。


 体が、冷たくなっていった。


 裕太の手だけが、温かかった。


「……ごめんね」


 私は、言った。


 何に謝っているのか、今度は、わかっていた。


「……一人に、して」


 


 裕太の顔が、滲んでいった。


 窓際のコップの白い花が、滲んでいった。


 街灯の光が、滲んでいった。


 最後に聞こえたのは、裕太が、私の名前を呼ぶ声だった。


 何度も。


 何度も。


 


    *


 


 チョークの粉の匂いがした。


 椅子を引く音。誰かの笑い声。窓の外で鳥が鳴いている。


「——はい、じゃあ席替えするぞー。一人ずつ引きに来い。引いたら黒板に名前書いとけよ」


 


 私は目を開けた。


 脇腹に、手を当てた。


 紺色のブレザーの下で、何も、痛まなかった。


 

お読みいただき、ありがとうございます。


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