何度も
※本作には、恋人間の暴力(DV)の描写が含まれます。もし今、同じような状況にいる方がいたら、一人で抱え込まずに、DV相談ナビ(#8008)などの窓口に相談してください。
振り返った。
アパートの階段の影に、相良さんが立っていた。
黒いパーカーのフードを目深に被っていた。
「……相良、さん」
「女子会、楽しかった?」
低い声だった。
笑っているような声だった。
「三人でご飯、って言ってたよね。……男、何人いた?」
「……」
「位置、見てたよ。店の前まで行った。窓から、見えた」
相良さんは一歩近づいてきた。
「あいつでしょ。今里」
私は後ずさった。
背中が階段の手すりに当たった。
「……違う。亜美が、呼んだだけで」
「送ってもらって。家の前まで。……俺、家の前まで送ったこと、何回あったっけ」
相良さんの手が伸びてきた。
手首を、掴まれた。
「上、行こ。話しよ」
「……相良さん、痛い」
「話、しよって」
引きずられるように階段を上った。
外廊下の突き当たりの私の部屋の前。
「鍵」
震える手で鍵を出した。
鍵穴になかなか入らなかった。
相良さんの手が私の手の上から鍵を掴んで、差し込んで、回した。
扉が開いた。
背中を押された。
暗い部屋の中に倒れ込むように入った。
扉が、閉まった。
明かりはつけられなかった。
窓から入る街灯の光だけが、部屋の中をぼんやりと照らしていた。
窓際のコップに白い花が挿さっていた。
相良さんは台所の前に立っていた。
「俺さ」
かすれた声だった。
「渚沙だけは、俺を見てくれると思ってた。……親父も、兄貴も、誰も見てくれなかったけど、渚沙だけは」
「……見てた」
「嘘だよ」
相良さんの声が裏返った。
「あいつの顔、見てたでしょ。窓から見えたよ。……俺のこと、一回も、あんな顔で見たことないくせに」
相良さんの手が台所の流しの上で、何かを掴んだ。
街灯の光が、細く光った。
包丁だった。
息が、できなくなった。
「……相良さん」
「渚沙が悪いんだよ」
相良さんは泣いていた。
泣きながら包丁を握っていた。
「渚沙が、俺じゃないやつのこと考えるから。……ずっと、そうだったでしょ。付き合ってから、ずっと。俺の隣にいて、ずっと、どっか遠いとこ見てたでしょ」
遠いところ。
亜美も同じことを言った。
今年の渚沙、ずっと、どっか遠いとこにいるみたい。
私はずっと、遠いところを見ていた。
最初の夏の石段を。二度目の夏の防波堤を。
あの人のいない場所から、あの人が生きている場所を。
扉が、激しく叩かれた。
「——山吹さん!」
あの人の声だった。
相良さんの肩が、跳ねた。
「山吹さん、開けて! ……いるだろ!」
帰ったはずの人だった。
角を曲がって見えなくなったはずの人だった。
扉の鍵は閉まっていなかった。相良さんが閉め忘れていた。
扉が、開いた。
外廊下の明かりを背にして、あの人が立っていた。
相良さんが振り返った。
あの人を見た。
包丁を、握り直した。
「——お前か」
相良さんがあの人のほうへ、踏み出した。
あの人は動かなかった。
避けようとしなかった。
私を見ていた。
部屋の奥の、私を。
まるで、自分に向かってくるものなんか、どうでもいいみたいに。
体が、勝手に動いた。
考えるより先に。
言葉を探すより、ずっと先に。
私は、あの人と相良さんのあいだに、飛び込んでいた。
脇腹に、熱いものが入ってきた。
音が、しなかった。
痛みも、すぐには来なかった。
ただ、熱かった。
相良さんの顔が、目の前にあった。
真っ白だった。
自分の手を見て、私を見て、それから何かを叫んで、包丁から手を離した。
後ずさって、あの人を突き飛ばして外廊下へ飛び出していった。
足音が階段を駆け下りていった。
膝から、力が抜けた。
床に崩れる前に、誰かの腕が、私を抱きとめた。
「——渚沙!」
あの人だった。
床に座り込んで、私を抱えて、私の脇腹を両手で押さえていた。
「渚沙、渚沙、しっかりしろ。……今、救急車、呼ぶから」
あの人の声が、震えていた。
あの人の手が、濡れていた。
温かかった。
私の血だった。
「……なんで」
声が、出た。
自分の声ではないみたいに、遠かった。
「なんで、戻ってきたの」
「……顔」
あの人は、片手でスマホを耳に当てながら、言った。
「スマホ見たときの、顔。……あれ、見たことあったから」
「……」
「前に、見たことあったんだよ。……同じ顔」
前に。
この世界で、あの人と私は、ほとんど話したことがなかった。
あの人が、私のそんな顔を見たことは、一度もないはずだった。
「……前、って」
あの人は、答えなかった。
電話の向こうに住所を叫んでいた。
叫び終えて、スマホを床に放って、両手で私の脇腹を押さえ直した。
強く。
痛いくらい、強く。
「……ごめん」
あの人が、言った。
「ごめん、渚沙。……また、間に合わなかった」
また。
その言葉を、私は、前にも聞いていた。
二度目の夏の海沿いの国道で。散らばった線香花火の横で。
ごめん。また、間に合わなかった。
あのとき、私は、聞き流した。救急車が来るから、しゃべらないで、と言って。
今、私は、聞き流さなかった。
「……また、って」
かすれた声で、言った。
「また、って、なに」
あの人は、私の顔を見た。
泣いていた。
声を出さずに、ぼろぼろと、涙を落としていた。
その涙が、私の頬に、落ちた。
温かかった。
「……お前を、なくしたくないから」
あの人の声が、崩れた。
「俺は、何度も、過去に戻ってるんだ」
世界が、音を失った。
何度も。
過去に。
戻っている。
この人も。
この人も、ずっと、同じ時間の中にいた。
最初の夏の石段も。二度目の夏の防波堤も。高三の十一月の廊下も。今夜の飲み会の暖簾も。
この人は、全部、知っていた。
知っていて、私の名前を、呼んでしまった。
知っていて、「何もしない、でも、いなくもならない」と言った。
知っていて、また、私の前に、立っていた。
最初の世界の、あの人の通夜で、萩原くんが言っていた。
——なあ朔。もし同じ日を何回もやり直せるとしたらさ、お前どうする。
ゲームの話だと思った、と萩原くんは泣き笑いの顔で言った。
ゲームの話ではなかった。
一度目の五月の銀杏並木で、のど飴を押しつけて、「明日、熱出るから」と言った。
私が顔をしかめていたからだ、と、あのときは思った。
あれも、もしかしたら。
ずっと、一人だと思っていた。
この繰り返しの中で、覚えているのは、私だけだと。
違った。
この人も、ずっと、一人で。
手を、伸ばした。
あの人の頬に、触れた。
濡れていた。
「……裕太」
呼んだ。
あの四月の朝から、二年半、一度も、心の中でさえ呼ばなかった名前を。
あの人、としか呼ばずにきた人の、名前を。
裕太が、目を見開いた。
「……渚沙」
「……ずっと、一人で、戻ってたの」
「……」
「……ずっと?」
裕太は、答えなかった。
答えないまま、私の手に自分の手を重ねた。
それが、答えだった。
遠くで、サイレンが鳴っていた。
近づいてくるのか、遠ざかっていくのか、わからなかった。
体が、冷たくなっていった。
裕太の手だけが、温かかった。
「……ごめんね」
私は、言った。
何に謝っているのか、今度は、わかっていた。
「……一人に、して」
裕太の顔が、滲んでいった。
窓際のコップの白い花が、滲んでいった。
街灯の光が、滲んでいった。
最後に聞こえたのは、裕太が、私の名前を呼ぶ声だった。
何度も。
何度も。
*
チョークの粉の匂いがした。
椅子を引く音。誰かの笑い声。窓の外で鳥が鳴いている。
「——はい、じゃあ席替えするぞー。一人ずつ引きに来い。引いたら黒板に名前書いとけよ」
私は目を開けた。
脇腹に、手を当てた。
紺色のブレザーの下で、何も、痛まなかった。
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