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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第四章 君のいない世界

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角を二つ

 店を出ると、夜の空気が冷たかった。


 十月の下旬の、土曜日の夜。駅前の通りは、飲み会帰りの人たちで賑わっていた。


 昼過ぎの雨で濡れたアスファルトに、カラオケの看板の光が、赤や青に滲んでいた。どこかの店の前で、呼び込みの声が、同じ言葉を繰り返していた。


 亜美が私の腕を掴んだ。


「渚沙、ほんとに大丈夫? あたしも一緒に帰ろうか」


「……大丈夫。亜美、終電あるでしょ」


「あるけど」


 亜美は私の後ろに立っているあの人を、ちらりと見た。


 それから私の耳元で、小さな声で言った。


「……今里、悪いやつじゃないから」


「……知ってる」


 亜美は驚いたような顔をした。


 それから少しだけ笑って、「またね」と言って、萩原くんたちと改札のほうへ歩いていった。


 明るい茶色の髪が、人混みの中に紛れて、見えなくなった。


 


 一駅ぶんの道を、二人で歩いた。


 線路沿いの、細い道だった。ときどき頭の上を電車が通り過ぎて、そのたびに会話が途切れた。窓の明かりが、ひと続きの帯になって、私たちの上を流れていった。


 フェンスの向こうで、線路の砂利が、街灯の光を受けて、ところどころ白く浮いていた。どこかの家の庭から、金木犀の匂いがした。


 会話、と言えるほどのことは、ほとんどなかった。


 あの人は私の半歩前を歩いていた。車道側を。


 私の歩幅に合わせて、ゆっくりと。


 街灯の下を通るたびに、黒いジャケットの肩の上を、光が滑っていった。


 一度目の春の、最初の帰り道で、最初の十歩で私が小走りになりかけて、何も言わずにゆっくりになったのと、同じ速さだった。


 


「……東京、疲れたって言ってたじゃん」


 あの人が前を向いたまま言った。


「……うん」


「なんで、東京にしたの」


 答えを、探した。


 あなたから、離れるため。


 言えるはずがなかった。


「……昔から、行きたかったから」


「そっか」


 あの人は、それ以上、訊かなかった。


 前を向いたまま、少しだけ歩く速さを落とした。


 


 ポケットの中で、スマホが震えた。


 取り出して、画面を見た。


 相良さんからだった。


『今、どこ』


 着信が、また来ていた。四件目だった。


 位置共有のアプリを開いた。


 私の青い点が、線路沿いの道の上を、ゆっくり動いていた。


 相良さんの青い点は、どこにもなかった。


 地図の上から、消えていた。


 


 指先が、冷たくなった。


 位置共有を、切ったのだと思った。


 相良さんが自分の場所を、私に見せないようにしたのだと。


 いつから。


 どこで。


 私は、振り返った。


 線路沿いの道の、ずっと後ろのほうに、人影がいくつか見えた。どれも知らない人のように見えた。暗くて、よくわからなかった。


 遠くで、踏切の警報機が鳴り始めた。


「……どうした」


 あの人が足を止めた。


「……なんでもない」


 私はスマホをポケットにしまった。


 歩き出すと、靴の底が、濡れた落ち葉を踏んで、小さく滑った。あの人の手が、一瞬、こちらへ動いて、止まった。


 


 駅に着いた。


 改札の前は、さっきの駅よりずっと静かだった。売店のシャッターは、もう下りていた。自動改札の電子音が、ときどき思い出したように鳴った。


 私のアパートは、駅の改札を出て、角を二つ曲がった先だった。


「ここで、いい」


 私は言った。


 あの人は改札の前で立ち止まった。


 立ち止まったまま、動かなかった。


「……家の前まで、送る」


「……いい」


「送る」


 飲み会の廊下で聞いたのと、同じ言い方だった。


 引かない人の、言い方だった。


「……角、二つだけだから」


「じゃあ、角二つぶん」


 改札の横の時計は、十時を少し回っていた。


 


 角を一つ曲がった。


 街灯の少ない、住宅街の道だった。


 どこかの家の窓から、テレビの音が漏れていた。自転車が一台、ベルを鳴らさずに、私たちの横を追い越していった。あの人は少しだけ車道の側に寄った。


 角を二つ曲がった。


 古いアパートの、二階の外廊下が見えた。


 外廊下の蛍光灯が、一本だけ、切れかけて瞬いていた。


「……ここ」


 私は階段の下で立ち止まった。


 階段の下に、住人の自転車が三台、斜めに並んでいた。一台のかごに、誰かのチラシが、雨に濡れたまま貼りついていた。


 あの人はアパートを見上げた。二階の、私の部屋の窓を。明かりは、ついていなかった。


「……一人暮らし?」


「……うん」


「そっか」


 


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 頭の上を、最終に近い電車が通り過ぎていった。車輪の音が、線路のほうへ、長く尾を引いて遠ざかっていった。


「山吹さん」


「……うん」


「さっき、スマホ見たとき、顔、変わったよな」


 スマホを握る指に、力が入った。


「……変わってない」


「変わった」


 あの人は私の顔を見ていた。


 それから視線を下ろした。


 スマホを握っている私の手を。


 カーディガンの袖口から、ほんの少しだけ覗いている、手首を。


 


 あの人の顔から、表情が消えた。


 私は袖を引っ張った。


 遅かった。


「……それ」


「……ぶつけた」


「どこに」


 亜美と、同じことを訊いた。


 私は答えなかった。


 あの人は、長いあいだ、黙っていた。


 黙って、私の手首のあたりを見ていた。


 拳を握っているのが、わかった。


 


「……ごめん」


 あの人が、言った。


 何に謝っているのか、わからなかった。


「今日は、帰る。……でも、何かあったら、小野寺に連絡して。俺でもいい。番号、小野寺に渡しとくから」


「……」


「何もしない、って言ったよな。……でも、これは、何もしないってわけにいかない」


 あの人は一歩、後ろに下がった。


「おやすみ」


「……おやすみ」


 


 あの人が角を曲がって見えなくなるまで、私は階段の下に立っていた。


 一度も、振り返らなかった。


 振り返ってほしい、と思ったことに、自分で驚いた。


 階段の鉄の手すりに、手を置いた。夜の冷たさが、手のひらに移ってきた。頭の上で、切れかけた蛍光灯が、じじ、と小さく鳴った。


 


 ポケットの中で、スマホが震えた。


 相良さんからの、メッセージだった。


『見てたよ』


 


 背中のほうで、足音がした。

相良ぁぁぁああああああ



お読みいただき、ありがとうございます。


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