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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第四章 君のいない世界

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懐かしい

 あの人は萩原くんの隣に座った。


 私の、斜め向かいだった。


 脱いだジャケットを畳んで、座布団の横に置いた。萩原くんが店員を呼んで、おしぼりをもう一つ頼んだ。


 萩原くんが「こいつ、隣の県の国立。経済。俺と同じ大学」と紹介した。紹介されるまでもなかった。高三のとき、同じクラスだったのだから。


 あの人はビールを頼んで、萩原くんの話に相槌を打っていた。ジョッキの内側に、泡が、細い輪になって残っていた。


 ときどき笑った。


 声を出さずに、肩を震わせて。


 学食の真ん中で、知らない人たちの肩を叩いていた笑い方ではなかった。


 一度目の春の昼休みに、四つの机を囲んで、萩原くんと亜美の話を聞いていたときの笑い方だった。


 萩原くんが身振りをつけて話すたびに、テーブルの醤油差しが、小さく揺れた。


 


 私はウーロン茶のグラスを見ていた。


 氷が溶けて、グラスの外側を水滴がいくつも伝っていた。下に敷いた紙のコースターが濡れて、色を変えていた。


 見ていないと、あの人を見てしまいそうだった。


 見ないようにしていても、わかった。


 あの人がときどき、こちらを見ていること。


 見て、少しだけ長く、目を留めること。


 何かを、覚えておこうとする目だった。


 二度目の夏の防波堤で、あの人はこういう見方をしていた。


 


 話を振られた。


「山吹さん、東京の大学なんだっけ。文学部?」


 留学するという男の子だった。


「……うん」


「どう、東京。楽しい?」


 言葉を、探した。


 楽しい、と言えばいい。三文字だ。


 口が、開かなかった。


 唐揚げの皿の端で、レモンの切れ端が、乾いて反り返っていた。


 テーブルの上が、静かになった。


 みんなが、私の答えを待っていた。


 


 斜め向かいで、あの人がグラスを置いた。


 置いて、膝の上で、指を組んだ。


 組んで、前を向いた。


 何も言わなかった。


 急かさなかった。


 話を、変えなかった。


 ただ待っていた。


 


 私はその指を見た。


 最初の夏の石段で、渚沙って呼んでいい、と訊いたあとに、組まれていた指。


 二度目の秋の図書館で、三日でいいから待って、と言った私に、わかった、と言って組まれた指。


 同じ指だった。


 同じ組み方だった。


 


 胸の奥で、何かが、音を立てて崩れた。


 懐かしかった。


 高校で、ろくに話したこともない人だった。この世界では。二年間、避け続けた人だった。何もしないで、と言った人だった。


 なのに、懐かしくて、懐かしくて、どうしようもなかった。


 この人の待ち方を、私の体が、覚えていた。


 


「……楽しい、けど」


 やっと声が出た。


「……ちょっと、疲れた」


 留学する男の子は「そっか、東京、人多いもんな」と笑って、次の話題に移っていった。


 斜め向かいで、あの人が組んだ指を、ほどいた。


 ほどいて、グラスを持ち直した。


 その手が、かすかに、震えていた。


 グラスの中で、ぬるくなったビールの泡が、音もなく消えていった。


 


 テーブルの皿は、ほとんど空になっていた。誰かが、締めにお茶漬けを頼もうか、と言っていた。


 九時を少し過ぎたころ、私は席を立った。


「……お手洗い」


 暖簾をくぐって、廊下に出た。


 廊下は座敷より少しだけ寒かった。厨房のほうから、油のはねる音と、店員の掛け声が聞こえていた。


 廊下の突き当たりの、非常口の緑の明かりの下で、スマホを取り出した。


 画面の明るさが、薄暗い廊下で、目に痛かった。


 相良さんから、メッセージが三件、来ていた。


『まだ?』


『九時って言ったよね』


『電話出て』


 着信も、二件あった。


 指先が、冷たくなった。


 廊下の壁に、背中をつけた。壁紙が、ひんやりと湿っていた。


 


「——大丈夫?」


 声がして、振り返った。


 あの人が廊下の角に立っていた。


 トイレに行くふりをして、出てきたのだとわかった。


「……大丈夫」


「顔、真っ青だけど」


「……大丈夫だから」


 スマホを、ポケットにしまった。


 あの人は私の手元を見ていた。


 カーディガンの袖を、指先まで引っ張っている手を。


 非常口の明かりが、あの人の頬を、薄い緑色に染めていた。


 


 あの人は何も訊かなかった。


 廊下の角に立ったまま、少しだけこちらに近づいた。


 それ以上は、近づかなかった。


「……俺さ」


 低い声だった。


「山吹さんに、何もしないで、って言われたじゃん。高三の十一月」


 覚えていた。


 この人はこの世界の、あの廊下のことを、覚えていた。


「あのとき、意味わかんなかった。……でも、今日、会えて、ちょっとわかった気がする」


「……」


「何もしない。……でも、いなくもならない」


 


 息が、止まった。


 いなくもならない。


 この人は、今、そう言った。


 二度、私の前からいなくなった人が。


「……なんで」


 声が、震えた。


「なんで、そんなこと、言えるの」


 あの人は答えなかった。


 答えないまま、私の顔を見ていた。


 何かを、ひどく言いたそうな顔だった。


 言えないことを、奥歯で噛み殺している顔だった。


 


 ポケットの中で、スマホが震えた。


 また相良さんからだった。


 私はあの人から目を逸らした。


「……戻らなきゃ」


「帰り、送る」


「……いい」


「送る」


 あの人は引かなかった。


「駅まででいい。……山吹さんの駅、ここから一駅だろ。歩いても二十分。夜道、一人で歩かせたくない」


「……亜美から、聞いたの」


「……うん」


 あの人は短く頷いた。


 


 帰れ、と言った人がいた。


 明るい道を通って帰れ、と言った人がいた。


 家まで角三つだろ、と言った人がいた。


 全部、この人だった。


 違う世界の、この人だった。


 私は非常口の緑の明かりの下で、長いあいだ、黙っていた。


 トイレから出てきた知らない人が、小さく会釈して、私たちのあいだを通り過ぎていった。座敷のほうで、誰かが大きな声で笑った。


 あの人は待っていた。


 廊下の角で、指を組むこともせずに、ただ立って。


「……駅、まで」


 やっとそれだけ言った。


 あの人の肩から、力が抜けたのがわかった。


「うん。駅まで」

渚沙。よかったね

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