懐かしい
あの人は萩原くんの隣に座った。
私の、斜め向かいだった。
脱いだジャケットを畳んで、座布団の横に置いた。萩原くんが店員を呼んで、おしぼりをもう一つ頼んだ。
萩原くんが「こいつ、隣の県の国立。経済。俺と同じ大学」と紹介した。紹介されるまでもなかった。高三のとき、同じクラスだったのだから。
あの人はビールを頼んで、萩原くんの話に相槌を打っていた。ジョッキの内側に、泡が、細い輪になって残っていた。
ときどき笑った。
声を出さずに、肩を震わせて。
学食の真ん中で、知らない人たちの肩を叩いていた笑い方ではなかった。
一度目の春の昼休みに、四つの机を囲んで、萩原くんと亜美の話を聞いていたときの笑い方だった。
萩原くんが身振りをつけて話すたびに、テーブルの醤油差しが、小さく揺れた。
私はウーロン茶のグラスを見ていた。
氷が溶けて、グラスの外側を水滴がいくつも伝っていた。下に敷いた紙のコースターが濡れて、色を変えていた。
見ていないと、あの人を見てしまいそうだった。
見ないようにしていても、わかった。
あの人がときどき、こちらを見ていること。
見て、少しだけ長く、目を留めること。
何かを、覚えておこうとする目だった。
二度目の夏の防波堤で、あの人はこういう見方をしていた。
話を振られた。
「山吹さん、東京の大学なんだっけ。文学部?」
留学するという男の子だった。
「……うん」
「どう、東京。楽しい?」
言葉を、探した。
楽しい、と言えばいい。三文字だ。
口が、開かなかった。
唐揚げの皿の端で、レモンの切れ端が、乾いて反り返っていた。
テーブルの上が、静かになった。
みんなが、私の答えを待っていた。
斜め向かいで、あの人がグラスを置いた。
置いて、膝の上で、指を組んだ。
組んで、前を向いた。
何も言わなかった。
急かさなかった。
話を、変えなかった。
ただ待っていた。
私はその指を見た。
最初の夏の石段で、渚沙って呼んでいい、と訊いたあとに、組まれていた指。
二度目の秋の図書館で、三日でいいから待って、と言った私に、わかった、と言って組まれた指。
同じ指だった。
同じ組み方だった。
胸の奥で、何かが、音を立てて崩れた。
懐かしかった。
高校で、ろくに話したこともない人だった。この世界では。二年間、避け続けた人だった。何もしないで、と言った人だった。
なのに、懐かしくて、懐かしくて、どうしようもなかった。
この人の待ち方を、私の体が、覚えていた。
「……楽しい、けど」
やっと声が出た。
「……ちょっと、疲れた」
留学する男の子は「そっか、東京、人多いもんな」と笑って、次の話題に移っていった。
斜め向かいで、あの人が組んだ指を、ほどいた。
ほどいて、グラスを持ち直した。
その手が、かすかに、震えていた。
グラスの中で、ぬるくなったビールの泡が、音もなく消えていった。
テーブルの皿は、ほとんど空になっていた。誰かが、締めにお茶漬けを頼もうか、と言っていた。
九時を少し過ぎたころ、私は席を立った。
「……お手洗い」
暖簾をくぐって、廊下に出た。
廊下は座敷より少しだけ寒かった。厨房のほうから、油のはねる音と、店員の掛け声が聞こえていた。
廊下の突き当たりの、非常口の緑の明かりの下で、スマホを取り出した。
画面の明るさが、薄暗い廊下で、目に痛かった。
相良さんから、メッセージが三件、来ていた。
『まだ?』
『九時って言ったよね』
『電話出て』
着信も、二件あった。
指先が、冷たくなった。
廊下の壁に、背中をつけた。壁紙が、ひんやりと湿っていた。
「——大丈夫?」
声がして、振り返った。
あの人が廊下の角に立っていた。
トイレに行くふりをして、出てきたのだとわかった。
「……大丈夫」
「顔、真っ青だけど」
「……大丈夫だから」
スマホを、ポケットにしまった。
あの人は私の手元を見ていた。
カーディガンの袖を、指先まで引っ張っている手を。
非常口の明かりが、あの人の頬を、薄い緑色に染めていた。
あの人は何も訊かなかった。
廊下の角に立ったまま、少しだけこちらに近づいた。
それ以上は、近づかなかった。
「……俺さ」
低い声だった。
「山吹さんに、何もしないで、って言われたじゃん。高三の十一月」
覚えていた。
この人はこの世界の、あの廊下のことを、覚えていた。
「あのとき、意味わかんなかった。……でも、今日、会えて、ちょっとわかった気がする」
「……」
「何もしない。……でも、いなくもならない」
息が、止まった。
いなくもならない。
この人は、今、そう言った。
二度、私の前からいなくなった人が。
「……なんで」
声が、震えた。
「なんで、そんなこと、言えるの」
あの人は答えなかった。
答えないまま、私の顔を見ていた。
何かを、ひどく言いたそうな顔だった。
言えないことを、奥歯で噛み殺している顔だった。
ポケットの中で、スマホが震えた。
また相良さんからだった。
私はあの人から目を逸らした。
「……戻らなきゃ」
「帰り、送る」
「……いい」
「送る」
あの人は引かなかった。
「駅まででいい。……山吹さんの駅、ここから一駅だろ。歩いても二十分。夜道、一人で歩かせたくない」
「……亜美から、聞いたの」
「……うん」
あの人は短く頷いた。
帰れ、と言った人がいた。
明るい道を通って帰れ、と言った人がいた。
家まで角三つだろ、と言った人がいた。
全部、この人だった。
違う世界の、この人だった。
私は非常口の緑の明かりの下で、長いあいだ、黙っていた。
トイレから出てきた知らない人が、小さく会釈して、私たちのあいだを通り過ぎていった。座敷のほうで、誰かが大きな声で笑った。
あの人は待っていた。
廊下の角で、指を組むこともせずに、ただ立って。
「……駅、まで」
やっとそれだけ言った。
あの人の肩から、力が抜けたのがわかった。
「うん。駅まで」
渚沙。よかったね




