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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第四章 君のいない世界

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飲み会

 亜美から電話があったのは、東京に来た日から十日後だった。


「来週の土曜、そっちで飲み会やるから。渚沙も来て」


「……飲み会」


「高校のメンバーで。朔と、美月と、あと何人か。東京に出てきてる子もいるし、こっちから行く子もいるし。……場所は、渚沙の駅の一つ隣にするから。近すぎると、彼氏に見つかりそうだし」


 亜美の声は明るかった。


 明るくしようとしている声だった。


「彼氏には、女子会って言えばいいよ。あたしと、美月と三人で飲むって。嘘じゃないし。途中からちょっと人数増えるだけ」


「……亜美」


「なに」


「……これ、あのときの、連れ出す方法?」


 電話の向こうで、亜美が少し黙った。


「一個目、かな」


 


 一個目、と亜美は言った。


 二個目も三個目も、考えているのだと思った。


「渚沙の周り、今、彼氏しかいないでしょ。……だから、ちょっとずつ、人に戻す。高校の友達とか、渚沙のこと昔から知ってる人とか。そういう人たちの中にいたら、渚沙、思い出すかもしれないじゃん」


「……何を」


「自分が、どういう顔で笑ってたか」


 


 私はスマホを耳に当てたまま、窓際のコップを見ていた。


 白い花が三本、挿さっていた。


 昨日、相良さんが持ってきたものだった。


「……行く」


 言ってから、自分で驚いた。


 亜美も驚いたようだった。


「……ほんと?」


「……うん」


「絶対だよ。ドタキャンしたら、あたし、渚沙の家まで迎えに行くからね」


 


 その週は、講義に出て、図書館で課題をして、夜は早く寝た。相良さんからの電話には、いつも通りに出た。いつも通りの声が出ることに、自分で少し驚いた。


 土曜日の夕方、相良さんにメッセージを送った。


『今日、亜美と、高校の友達と、三人でご飯行ってくる』


 既読はすぐについた。


『何時まで?』


『九時くらい』


『店どこ』


 店の名前を送った。


 既読のまま、五分ほど、何も来なかった。それから返事が来た。


『わかった。楽しんで』


 位置共有のアプリを開いた。


 私の青い点が、アパートにあった。相良さんの青い点は、大学の近くの相良さんのアパートにあった。


 二つの点は、電車で二駅、離れていた。


 家を出る前に、鏡の前で、カーディガンの袖を確かめた。外は昼過ぎに降った雨で、道路がまだ濡れていた。電車の窓を、細かい水滴が斜めに流れていった。


 


 店は、駅から歩いて五分のチェーンの居酒屋だった。


 入口の横に、今日のおすすめを書いた黒板が立てかけてあった。土曜日の夜の店の中は、どの席からも笑い声とグラスの音がしていた。


 座敷の奥の、仕切りのある部屋。暖簾をくぐると、亜美が「渚沙!」と手を振った。隣に早瀬さんがいた。その向かいに、萩原くんと、高校で同じクラスだった男の子が二人。


「山吹さん、久しぶり」


 萩原くんが大きな声で言った。


 高三の四月から、ほとんど話したことがなかった。それでも萩原くんの声は、一度目の春に、四つの机の上で聞いていたのと、同じ大きさだった。


「……久しぶり」


 私は亜美の隣に座った。


 座って、長袖の袖口を、指先まで引っ張った。


 亜美が何も言わずに、ソフトドリンクのページを開いたメニューを、私のほうへ向けてくれた。


 


 乾杯をして、みんなが近況を話し始めた。


 萩原くんと早瀬さんは、東京と隣の県の遠距離で、まだ続いているのだと言った。同じクラスだった男の子の一人は、来年から留学するのだと言った。


 テーブルの上に、枝豆と、唐揚げと、大きなサラダの皿が並んだ。早瀬さんが取り皿を一枚ずつ回してくれた。


 私はウーロン茶を飲みながら、聞いていた。


 誰も、私に答えを急かさなかった。


 話を振られると、少し遅れて答えた。遅れているあいだ、誰も、代わりに答えなかった。


 亜美がテーブルの下で、私の手をそっと握った。


 


 八時を少し過ぎたころだった。


 仕切りの向こうの部屋で、誰かの誕生日を祝う歌が始まって、店員の手拍子が重なった。


 萩原くんのスマホが、鳴った。


「あ、着いたって。……ちょっと、迎えに行ってくる」


 萩原くんが席を立った。


 亜美が一瞬だけ、私の顔を見た。


 何かを言おうとして、言わなかった。


「……誰か、来るの」


「……うん。朔が、連れてくるって」


 亜美はグラスを両手で持って、テーブルの上を見ていた。


「ごめん、渚沙。言わなくて。……言ったら、来なかったでしょ」


 


 心臓が、鳴った。


 誰が来るのか、訊かなくても、わかった。


 五月から、五回、私の連絡先を訊いてきた人。


 変なくらい必死だった人。


 立ち上がろうとした。


 足が、動かなかった。


 座布団の端を掴んだ指に、畳の目が食い込んだ。


 


 暖簾が、揺れた。


 萩原くんが先に入ってきた。


「お待たせー。……ほら、入れって」


 萩原くんの後ろから背の高い人が、暖簾をくぐった。


 黒いジャケット。少し伸びた髪。息が、少し上がっていた。駅から走ってきたのだとわかった。


 部屋の中を、見回した。


 私を、見つけた。


 


 目が、合った。


 


 高三の十一月、廊下で「俺、なんかした?」と訊かれた日から、夏の駅の、線路越しの一瞬を除けば、一度も、正面から見たことのない顔だった。


 最初の夏の石段で、指を組んで待っていた顔だった。


 二度目の夏の防波堤で、エンジンを鳴らしたまま見上げていた顔だった。


 あの人だった。


 何も変わっていなかった。


 なのに、何かが、決定的に違っていた。


 


 あの人の目が、私の顔の上で、止まっていた。


 驚いている顔ではなかった。


 探していたものを、やっと見つけた人の顔だった。


 見つけて、それが、まだそこにあることを、確かめている顔だった。


 あの人の唇が、動いた。


「——渚沙」


 


 部屋が、静かになった。


 萩原くんが、「え」と言った。


 早瀬さんが、グラスを持ったまま止まった。


 亜美が、私の手を、強く握った。


 あの人は、自分の口を押さえた。


 それから、ゆっくりと、手を下ろした。


「……ごめん、山吹さん。高校のとき、周りがそう呼んでたから」


 


 嘘だった。


 高校のとき、私を「渚沙」と呼んでいたのは、亜美と、家族だけだった。


 この世界では。


 あの人は、私を、一度も、下の名前で呼んだことがなかった。


 この世界では。


 私は、テーブルの下で、亜美の手を握り返した。


 握っていないと、どこかへ落ちていきそうだった。

朔グッジョブ


お読みいただき、ありがとうございます。


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