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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第四章 君のいない世界

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長袖

 九月になっても、暑い日が続いた。


 昼になると、欅の下のベンチに日陰を探す学生が集まった。講義室の窓は開け放たれて、天井の古い扇風機が、ぎこちなく回っていた。


 キャンパスでは、みんなが半袖を着ていた。


 私だけが、長袖を着ていた。


「山吹さん、暑くないの」


 ゼミの女の子に訊かれた。


「……冷房、苦手で」


「えー、でも外、三十度あるよ」


「……うん」


 私はカーディガンの袖を、指先まで引っ張った。


 袖口の毛糸が、汗で手の甲に貼りついた。


 


 二度としない、と相良さんは言った。


 二度目は、八月の終わりだった。


 三度目は、九月の半ばだった。


 どれも最初と同じだった。何かのきっかけで、相良さんの声が低くなる。私の言葉が遅れる。遅れているあいだに、手が伸びてくる。


 終わると、相良さんは泣いて謝った。次の日には、花を持ってきた。


 窓際のコップには、いつも白い花が挿さっていた。


 枯れる前に、次の花が来た。


 古い花は、ゴミの日の朝に新聞紙に包んで出した。包むとき、乾いた花びらが、指のあいだでかさかさと崩れた。


 


 相良さんは優しい日もあった。


 熱を出した日には、コンビニでスポーツドリンクとゼリーを買ってきて、一晩中そばにいてくれた。額に冷たいタオルを当てて、「大丈夫、大丈夫」と言いながら、私の髪を撫でてくれた。


 枕元で、ゼリーの蓋が半分だけ開いていた。カーテンの隙間から入る街灯の光が、天井に細い線を引いていた。


「俺、渚沙がいないと、ダメなんだよ」


 熱に浮かされた耳に、その声が何度も聞こえた。


 


 ある夜、相良さんが酔って電話をかけてきた。


 日付が変わる少し前だった。電話の向こうで、どこかの駅のアナウンスがくぐもって聞こえていた。


 実家からの帰りだと言った。父親と、また言い合いになったのだと。


 相良さんの実家は、私の町と同じ県の北のほうにあった。


「親父がさ、お前は昔から中途半端だって。……兄貴と比べて、ずっと、そう言われてきた」


 電話の向こうで、相良さんの声が子どもみたいに揺れていた。


「誰も、俺のこと、ちゃんと見てくれなかった。……渚沙が、初めてなんだよ。俺の話、最後まで聞いてくれたの」


 最後まで。


 私はただ、言葉が遅れて、黙っていただけだった。


 黙っているあいだ、この人はずっと話し続けていた。


 あの人なら、待ってくれた。


 ふとそう思った。


 思ってしまってから、スマホを握る手に、力が入った。


「……渚沙? 聞いてる?」


「……うん。聞いてる」


 窓の外を、酔った誰かの笑い声が、ゆっくり遠ざかっていった。


 


 優しさと、そうでないものが、同じ手から来ていた。


 だから、わからなくなった。


 どちらが本当の相良さんなのか。


 どちらも、本当なのか。


 わからないまま、私はここにいた。


 


 九月の終わりになって、ようやく朝晩が涼しくなった。講義室の窓の外で、欅の葉の先が少しだけ黄色くなり始めていた。


 十月の初め、亜美から電話がかかってきた。


「渚沙、今週末、そっち行っていい?」


「……え」


「東京。久しぶりに、会いたい。……あたし、渚沙の住んでるとこ、一回も見たことないし」


 断ろうとした。


 断る理由を、探した。


 探しているあいだに、亜美が言った。


「断らないでね。もう、新幹線の切符、取ったから」


 新幹線ではなかった。在来線で、一時間半の距離だった。


 亜美なりの、冗談だった。


 私はほんの少し笑った。笑ったのは、久しぶりだった。


「……うん。待ってる」


 電話を切ってから、部屋を見回した。


 窓際のコップの白い花が、少し首を垂れていた。床に落ちた髪の毛を一本ずつ拾った。それから窓を開けて、こもった空気を入れ替えた。


 


 土曜日の昼、駅の改札で、亜美を待った。


 人の流れの中に、見覚えのある髪を見つけた。卒業式の日より、少し伸びていた。明るい茶色に染まっていた。


「渚沙!」


 亜美が大きく手を振った。


 駆け寄ってきて、私の両手を掴んだ。


 


 その瞬間、亜美の表情が、止まった。


 私の手首を掴んだ指が、カーディガンの袖をほんの少し押し上げていた。


 袖の下の、黄色く変わりかけた痣が、見えていた。


 私は手を引こうとした。


 亜美は離さなかった。


「……渚沙」


 低い声だった。


 高三の夏、電話の向こうで「あたし、何かした?」と訊いたときとは、まるで違う声だった。


「これ、なに」


 


「……ぶつけた」


「どこに」


「……ドアに」


「両方の手首を?」


 亜美は私のもう一方の手も掴んで、袖を押し上げた。


 同じ形の痣が、あった。


 改札の前を、人が流れていった。誰も、私たちを見ていなかった。


 亜美は長いあいだ、黙っていた。


 黙って、私の手首を見ていた。


 


「彼氏?」


 私は答えなかった。


 答えなかったことが、答えになった。


 亜美の手が、震えていた。


「……ねえ、渚沙」


「……うん」


「なんで、別れないの」


 


 言葉を、探した。


 探して、見つけた言葉は、口に出せば、ひどく間違っているとわかる言葉だった。


 私がここにいれば、あの人は死なない。


 この人のそばにいれば、あの人のそばにいなくて済む。


 これくらい、あの人がいなくなることに比べたら。


 どれも言えなかった。


 言えば、亜美は、私が頭がおかしくなったと思う。


「……相良さん、優しいときも、あるから」


 やっとそれだけ言った。


 


 亜美の顔が、歪んだ。


「優しいときもある、は、理由にならないよ」


 はっきりした声だった。


「優しい人は、手首に痣つけない。……つけたあとで優しくするのは、優しいんじゃない。渚沙を逃がさないためだよ」


「……」


「渚沙が、何を考えてるのか、あたしには、わかんない。高三のときから、ずっと、わかんない。……でも、これは、違う。これだけは、絶対に、違う」


 


 亜美の目から、涙が一粒、落ちた。


 私の手首の上に、落ちた。


 温かかった。


「……ごめん」


 私は言った。


 何に謝っているのか、わからなかった。


「謝らないで。渚沙が謝ることじゃない」


 亜美は私の手首を、両手で包んだ。


 それから顔を上げて、改札の向こうを見た。


「……あたし、一人じゃ、どうにもできない気がする」


 亜美は唇を噛んだ。


「ちょっと、考えさせて。……渚沙を、ここから連れ出す方法」

亜美っていいやつなんだよなぁ…渚沙の腕を見た時悲しかっただろうなぁ


お読みいただき、ありがとうございます。


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