手首
※この話から、恋人間の暴力(DV)の描写があります。
大学は、夏休みに入っていた。
昼間は、バイトに出た。帰ってくると、窓を閉め切っていた部屋の中は、むっとした熱でいっぱいだった。窓を開けても、入ってくるのは、隣の家の室外機のぬるい風だけだった。
八月の最初の日曜日、一晩だけ、実家に帰った。
お盆には帰れないと言うと、せめて一晩だけでも、と母が何度も電話をしてきたからだった。父とは、夕飯のときに、二言三言話しただけだった。
次の日の昼、地元の駅のホームで、東京へ戻る上りの電車を待っていた。
屋根の影が、足元で短く縮んでいた。線路の上の空気が熱で、ゆらゆらと揺れていた。
向かいのホームに、人が一人、立っていた。
白いシャツ。少し伸びた髪。片手に、コンビニの袋を提げていた。
あの人だった。
卒業式の日に、校門の前を通り過ぎてから、一度も見ていなかった顔だった。
あの人もこちらを見ていた。
線路を二本挟んで、目が合った。
あの人の手から、コンビニの袋が落ちた。
拾わなかった。
あの人は跨線橋の階段のほうへ、駆け出していた。
私は動けなかった。
動かなければ、と思った。どちらへ動けばいいのかは、わからなかった。
上りの電車の到着を告げるアナウンスが、頭の上で鳴った。
電車が、ホームに滑り込んできた。銀色の車体が、向かいのホームごと、あの人を隠した。
扉が開いた。
私は乗った。
跨線橋の階段を駆け下りてくる足音が、聞こえた気がした。
扉が、閉まった。
窓の外で、あの人がホームの端に立っていた。
肩で、息をしていた。
窓ガラスの向こうで、唇が動いた。声は、届かなかった。
何と言ったのか、わからなかった。
わからないことにした。
電車が、動き出した。
あの人の姿が、後ろへ流れていった。
私は空いている席に座って、膝の上の鞄の持ち手を、握りしめていた。
手のひらが、汗で濡れていた。
その夜、アパートに戻ると、亜美から、またメッセージが来ていた。
『渚沙。今里、また訊いてきた』
『電話していい?』
返事を打つ前に、スマホが震えた。
出る前に、位置共有のアプリを開いた。相良さんの青い点は、大学の駅を出て、線路の上をこちらへ動いていた。
通話のボタンを押した。
「……もしもし」
「あ、出た。よかった」
亜美の声の後ろで、車の走る音がしていた。外からかけているようだった。
「今日、駅で渚沙のこと見かけたって。帰ってきてたんだね」
「……うん。一晩だけ」
「今里さ、そのあと、あたしのバイト先まで来たんだよ。駅前のドラッグストア。あたしが上がるまで、二時間、外のベンチで待ってた」
扇風機が首を振るたびに、ぬるい風を私の足に当てていった。
「それで、頭、下げたんだよ。あの今里が。……五回目」
「……五回目」
「一回目は朔経由。そのあとは、全部自分で来た。短大の門の前で待ってたこともある。……五月から、ずっと」
亜美は少し黙った。
「今日は、番号じゃなくていいって。元気かどうかだけでいいって。……彼氏いるらしいよって言ったら、それでもいい、元気なら、って」
私はスマホを耳に当てたまま、ベッドの端に座っていた。
ホームの端で肩で息をしていた顔が、目の奥に浮かんで、消えなかった。
ドラッグストアの前のベンチで、二時間、背中を丸めて待っている姿を、私は見ていない。見ていないのに、目の奥で、その形になった。
「ねえ、渚沙。あいつ、変なくらい必死なんだけど。……元気だよって、それだけでも、だめ?」
言葉を、探した。
元気だよ、の五文字が、あの人のところまで届く。届いたら、あの人はその糸を手繰る。手繰った先に、私がいる。私がいれば、あの人はまた私から離れようとする。
スマホを、耳から少しだけ離した。
地図の上で、相良さんの青い点が、私の駅に着いていた。
「……ごめん」
「……」
「教えないで。……元気かどうかも、言わないで」
電話の向こうで、亜美が長く息を吐いた。
「……わかった。でも、渚沙。あたし、あいつに、なんて言えばいいの」
答えられなかった。
「……ごめん。切るね」
通話を切って、スマホを伏せた。
五回。
五月から、ずっと。
なぜ、そこまで。
五回目も、同じ言葉で断った。
両手で顔を覆った。
閉め切っていた部屋の熱は、夜になっても引かなかった。冷蔵庫から麦茶を出して、コップに半分だけ注いだ。飲みきれずに、流しに置いた。
玄関のチャイムが鳴ったのは、そのすぐあとだった。
相良さんだった。
玄関で靴を脱ぐなり、私のスマホを、机の上から取り上げた。
「見ていい?」
訊く前に、もう画面を開いていた。
私は止めなかった。止めても無駄だと、もうわかっていた。
相良さんはトークの一覧を指で繰っていた。亜美とのトーク画面で、指が止まった。
「……今里って、誰」
息が、止まった。
「……高校の、同級生」
「連絡先、教えてって、五月から何回も言ってきてんじゃん」
「……教えないでって、返した」
「なんで」
「……」
「なんで、わざわざ教えないでって言うの。どうでもいいやつなら、別に、いいよって言えばいいじゃん」
相良さんの声が低くなった。
「どうでもよくないから、教えないんでしょ」
違う、と言おうとした。
言葉が、出てこなかった。
いつものように、少しだけ遅れた。
遅れているあいだに、相良さんの手が私の手首を掴んだ。
「答えてよ」
強かった。
指の骨が軋んだ、六月の夜よりも、ずっと。
「……痛い」
「答えてって」
「……違う。本当に、何も」
「嘘つくなよ」
手首を、引かれた。
体が傾いて、肩が、壁に当たった。
鈍い音がした。
相良さんが手を離した。
自分の手を見て、それから私を見た。
顔が、真っ青だった。
「……ごめん」
かすれた声だった。
「ごめん、渚沙。俺、何やって……」
相良さんはその場にしゃがみ込んだ。両手で頭を抱えて、肩を震わせていた。
「ごめん。ほんとにごめん。……俺、どうかしてた。就活も全然ダメで、親父にもまた言われて、それで、渚沙が、俺じゃない誰かのこと考えてるんじゃないかって思ったら、頭、真っ白になって」
泣いていた。
私は壁にもたれたまま、自分の手首を見ていた。
指の形に、赤くなっていた。
その夜は、ほとんど眠れなかった。
扇風機を止めると、冷蔵庫の低い音だけが残った。明け方、窓の外を新聞配達のバイクが通り過ぎていった。
次の日、相良さんは花束を持ってきた。
小さな、白い花の束。駅前の花屋で買ったのだと言った。
昼過ぎだった。外廊下の手すりが、日に焼けて熱くなっていた。相良さんの額に、汗が浮いていた。
「昨日のこと、ほんとにごめん。二度としない。……約束する」
玄関で、相良さんは深く頭を下げた。
開けたままの扉から、蝉の声と、外の熱い空気が、流れ込んできた。
花束を差し出したまま、相良さんは言った。
「……あの、今里ってやつ。昨日、調べた」
相良さんの手の中で、花束のセロハンが、かさりと鳴った。
「SNS、名前で検索したら出てきた。隣の県の国立の、経済学部。……サッカーやってる写真とか、友達と飲んでる写真とか」
相良さんは自分のスマホの画面を、私に向けた。
知らない誰かが撮った写真の中で、あの人が笑っていた。
大学の友達らしい人たちと、居酒屋の座敷で。グラスを持って。
楽しそうな顔だった。
でも、私の知っている顔ではなかった。照れくさそうに笑っている、あの顔では。
あの顔は、この世界では、まだ誰も撮っていないのだと思った。
瞬きが、できなかった。
「こいつ?」
相良さんの声がかすかに低くなった。
私は頷かなかった。
首を振りもしなかった。
相良さんはしばらく私の顔を見ていた。それからふっと笑って、スマホをポケットにしまった。
「……まあ、いいや」
私は花束を受け取った。
手首の赤いところは、青紫色に変わっていた。長袖のカーディガンの袖で、隠れていた。
「……うん」
私は言った。
相良さんは顔を上げて、泣きそうな顔で笑った。
花を、コップに活けた。
花瓶は、なかった。流しの下から、引っ越してきたときに買ったガラスのコップを出して、水を張った。茎を切る鋏もなくて、束ねていた輪ゴムだけを外した。
窓際に置いて、ベッドに座って、それを見ていた。
白い花びらの縁が、窓からの光で、少し透けていた。水の中で、茎のまわりに細かい泡がついていた。外では、まだ蝉が鳴いていた。
二度としない、と相良さんは言った。
あれは、たまたまだった。就職活動がうまくいかなくて、父親に何か言われて、疲れていた。私がすぐに答えなかったから。言葉が、遅れたから。
私があの人の名前に、動揺したから。
夜になって、窓の外の蝉の声が、虫の声に変わった。どこかの部屋で、テレビの笑い声がしていた。網戸に、小さな羽虫が一匹、じっと止まっていた。
手首を、そっと押さえた。
鈍く、痛んだ。
痛みの中で、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
あの人は生きている。
私の連絡先を訊いてくるくらい、生きている。
私がここにいるかぎり、あの人は私から離れなくていい。
だったら、これくらい。
これくらい。
私はその言葉を、口の中で転がした。
転がすたびに、何かが、少しずつ、すり減っていく気がした。
相良。渚沙を傷つけたら許さないからな←
お読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になると思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると励みになります。
感想も、一言でもうれしいです。




