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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第五章 最後の願い

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行かせない

 七月の最後の土曜日。


 坂の上の神社の、夏祭り。


 紺地に、白い朝顔の浴衣と、祖母の形見の簪。紺色の甚平で走ってきた裕太は、「わり、遅れた」を言いかけて、三秒止まって、「……似合ってる」と言った。


 三度目の「似合ってる」だった。


 三度目でも、胸が痛いほど鳴った。


 


 屋台を覗いて、亜美に置いていかれて、本殿の前の石段に、並んで座った。


 今度は本殿を背にしなかった。


 本殿のほうを向いて座った。


 本殿の脇の暗がりが、見えた。絵馬掛けのあるほう。提灯の明かりがわずかに届いて、何百枚もの絵馬の輪郭が、ぼんやりと浮かんでいた。


 


 どん、と音がした。


「渚沙」


「……うん」


「俺さ」


 花火が鳴った。


 裕太はその音が消えるのを待った。


「渚沙のことが、好きだ」


 


 三度目の告白だった。


 一度目は、何もわからないまま、袖をつまんで、最後の花火を待った。


 二度目は、同じ場所に同じ順番で着きたくて、わざと最後の花火を待った。


 三度目は。


 私は袖をつまんだ。


 それから、最後の花火を、待たなかった。


「……私も」


 息を、吸った。


「好き」


 


 裕太が目を見開いた。


 花火がまだ上がっていた。赤い光が、裕太の横顔を照らして、消えた。


「……え、今?」


「……うん」


「花火、まだ終わってないけど」


「……知ってる」


 裕太は口を半分開けたまま、私の顔を見ていた。


 それから、顔をくしゃくしゃにして笑った。


 笑いながら、袖をつまんでいた私の手を、上から包んだ。


 大きくて、温かくて、かすかに震えていた。


 


 頭の上で、次の花火が開いた。その次も。


 まだ、いくつも残っていた。


 私は包まれた手の中で、指を一本ずつ、この人の指のあいだに入れた。


 


 最後の花火が上がった。


 金色の光が、夜空いっぱいに広がって、垂れ落ちていった。


 全部、消えた。


 境内がしんと静かになった。


 人の流れが、坂の下へ向かっていった。


 裕太がふいに立ち上がった。


「ちょっと待ってて」


 来た。


「……どこ行くの」


「お守り買ってくる」


 裕太は本殿の脇の授与所のほうを指さした。


「受験の。……二人分」


 


 私は立ち上がった。


「……一緒に行く」


 裕太が振り返った。


「え、いいよ、すぐ戻るし」


「一緒に、行く」


 私は裕太の手を取った。


 取って、離さなかった。


 裕太は少し驚いた顔をした。


「……わかった」


 


 授与所の小さな窓口まで、二人で歩いた。


 紺色の、学業成就のお守りを二つ。裕太が財布を出そうとして、私が先に千円札を出した。


「え、俺が買うって」


「……いい。今日は、私が」


 袋を受け取って、振り返った。


 


 裕太が本殿の横の、暗がりのほうを見ていた。


 絵馬掛けのあるほうを。


 じっと、見ていた。


 私は繋いだ手に、力を込めた。


「……今里くん」


 


 裕太の肩が、ぴくりと動いた。


 こちらを向いた。


 一瞬、知らない人の顔をしていた。


 それから、瞬きをして、いつもの顔に戻った。


「……あ、ごめん。なんか、ぼーっとしてた」


「……行こ」


「……うん」


 裕太は暗がりから目を離した。


 離して、長く、息を吐いた。


 肩から、力が抜けていった。


 ほっとした顔だった。


 妙に、ほっとした顔だった。


 


 なぜ、そんな顔をしたのか。


 この人は、何も覚えていないはずだった。五月七日まで、あと二年近くあるのだから。


 私はそれを見ていた。


 見ていて、何も訊かなかった。


 


 帰り道、手を繋いで坂を下りた。


 角を三つ曲がって、家の前に着いた。


 玄関の明かりが、ついていた。


 手を離す前に、裕太が立ち止まった。


 私は待った。


 一度目の夜も、二度目の夜も、この人はここで「渚沙、あのさ」と言った。何かを言いかけて、「やっぱ、いいや」と、首を振った。


 裕太は私のほうを向いた。


 私は繋いだ手の指先を、見た。


 右手の人差し指の脇に、インクは、ついていなかった。


「……今日、楽しかった」


 裕太は、それだけ言った。


「また明日」


 


 来なかった。


 「渚沙、あのさ」も、「やっぱ、いいや」も。


 裕太は、手を振って、角を曲がっていった。


 私は玄関の明かりの下で、自分の手を見ていた。


 インクのついていない、この人の指を握っていた手。


 


 インクのない指と、来なかった言葉が、同じ夜に並んでいた。

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