行かせない
七月の最後の土曜日。
坂の上の神社の、夏祭り。
紺地に、白い朝顔の浴衣と、祖母の形見の簪。紺色の甚平で走ってきた裕太は、「わり、遅れた」を言いかけて、三秒止まって、「……似合ってる」と言った。
三度目の「似合ってる」だった。
三度目でも、胸が痛いほど鳴った。
屋台を覗いて、亜美に置いていかれて、本殿の前の石段に、並んで座った。
今度は本殿を背にしなかった。
本殿のほうを向いて座った。
本殿の脇の暗がりが、見えた。絵馬掛けのあるほう。提灯の明かりがわずかに届いて、何百枚もの絵馬の輪郭が、ぼんやりと浮かんでいた。
どん、と音がした。
「渚沙」
「……うん」
「俺さ」
花火が鳴った。
裕太はその音が消えるのを待った。
「渚沙のことが、好きだ」
三度目の告白だった。
一度目は、何もわからないまま、袖をつまんで、最後の花火を待った。
二度目は、同じ場所に同じ順番で着きたくて、わざと最後の花火を待った。
三度目は。
私は袖をつまんだ。
それから、最後の花火を、待たなかった。
「……私も」
息を、吸った。
「好き」
裕太が目を見開いた。
花火がまだ上がっていた。赤い光が、裕太の横顔を照らして、消えた。
「……え、今?」
「……うん」
「花火、まだ終わってないけど」
「……知ってる」
裕太は口を半分開けたまま、私の顔を見ていた。
それから、顔をくしゃくしゃにして笑った。
笑いながら、袖をつまんでいた私の手を、上から包んだ。
大きくて、温かくて、かすかに震えていた。
頭の上で、次の花火が開いた。その次も。
まだ、いくつも残っていた。
私は包まれた手の中で、指を一本ずつ、この人の指のあいだに入れた。
最後の花火が上がった。
金色の光が、夜空いっぱいに広がって、垂れ落ちていった。
全部、消えた。
境内がしんと静かになった。
人の流れが、坂の下へ向かっていった。
裕太がふいに立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
来た。
「……どこ行くの」
「お守り買ってくる」
裕太は本殿の脇の授与所のほうを指さした。
「受験の。……二人分」
私は立ち上がった。
「……一緒に行く」
裕太が振り返った。
「え、いいよ、すぐ戻るし」
「一緒に、行く」
私は裕太の手を取った。
取って、離さなかった。
裕太は少し驚いた顔をした。
「……わかった」
授与所の小さな窓口まで、二人で歩いた。
紺色の、学業成就のお守りを二つ。裕太が財布を出そうとして、私が先に千円札を出した。
「え、俺が買うって」
「……いい。今日は、私が」
袋を受け取って、振り返った。
裕太が本殿の横の、暗がりのほうを見ていた。
絵馬掛けのあるほうを。
じっと、見ていた。
私は繋いだ手に、力を込めた。
「……今里くん」
裕太の肩が、ぴくりと動いた。
こちらを向いた。
一瞬、知らない人の顔をしていた。
それから、瞬きをして、いつもの顔に戻った。
「……あ、ごめん。なんか、ぼーっとしてた」
「……行こ」
「……うん」
裕太は暗がりから目を離した。
離して、長く、息を吐いた。
肩から、力が抜けていった。
ほっとした顔だった。
妙に、ほっとした顔だった。
なぜ、そんな顔をしたのか。
この人は、何も覚えていないはずだった。五月七日まで、あと二年近くあるのだから。
私はそれを見ていた。
見ていて、何も訊かなかった。
帰り道、手を繋いで坂を下りた。
角を三つ曲がって、家の前に着いた。
玄関の明かりが、ついていた。
手を離す前に、裕太が立ち止まった。
私は待った。
一度目の夜も、二度目の夜も、この人はここで「渚沙、あのさ」と言った。何かを言いかけて、「やっぱ、いいや」と、首を振った。
裕太は私のほうを向いた。
私は繋いだ手の指先を、見た。
右手の人差し指の脇に、インクは、ついていなかった。
「……今日、楽しかった」
裕太は、それだけ言った。
「また明日」
来なかった。
「渚沙、あのさ」も、「やっぱ、いいや」も。
裕太は、手を振って、角を曲がっていった。
私は玄関の明かりの下で、自分の手を見ていた。
インクのついていない、この人の指を握っていた手。
インクのない指と、来なかった言葉が、同じ夜に並んでいた。




