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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第三章 二度目の春

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また

 走った。


 サンダルが脱げそうになって、途中で脱いで、手に持って走った。アスファルトが、まだ昼間の熱を残していた。


 海沿いの一本道には、街灯がほとんどなかった。左手に黒い海があって、右手に黒い山があって、その間を、道だけがぼんやりと白く続いていた。


 サイレンの音が、近くなったり、遠くなったりした。


 カーブを曲がったところで、光が見えた。


 トラックが、道を塞ぐように斜めに停まっていた。ハザードランプが、黄色く点滅していた。その光の中で、何人かの人影が動いていた。


 道の端に、バイクが倒れていた。


 前輪が、おかしな方向に曲がっていた。


 その少し先に、誰かが横たわっていた。


 紺色のTシャツだった。


 


 何を叫んだのか、覚えていない。


 気がつくと、私はアスファルトに膝をついていた。


 裕太は、仰向けに倒れていた。ヘルメットは外れて、少し離れたところに転がっていた。こめかみから流れた血が、アスファルトの上で黒く広がっていた。


「動かさないで! 救急車、もう呼んだから!」


 知らない女の人の声がした。


 私は、裕太の手を握った。


 冷たくはなかった。まだ、温かかった。


 手首に、黒い革のベルトがあった。文字盤のガラスが、割れていた。


 秒針は、動いていた。


「裕太」


 瞼が、動いた。


 ゆっくりと目が開いて、焦点の合わない目が、私のほうを向いた。


「……なぎ、さ」


「うん。いる。ここにいる」


「……」


 裕太の唇が、動いた。


 声になっていなかった。私は顔を近づけた。血と、汗と、潮の匂いがした。


「ごめん」


「いい。いいから、しゃべらないで」


「……また、間に合わなかった」


「救急車、来るから。もうすぐ来るから。しゃべらないで」


 私は、握った手に力を込めた。


 裕太の指が、少しだけ、握り返してきた。


 それから、ゆっくりと、力が抜けていった。


「裕太」


 瞼が、閉じていた。


「ねえ、裕太。聞こえる?」


 答えはなかった。


 声に出したのは、四月の朝以来だった。


 すぐ横の道の上に、コンビニの袋が落ちていた。


 中身が、散らばっていた。


 細い紙の束。色とりどりの、線香花火。


 ハザードランプが点くたびに、それが黄色く浮かび上がって、また消えた。


 


 病院に着いてから、四時間後だった。


 廊下の長椅子に座っていた私のところに、看護師さんが来て、何か言った。何を言われたのかは覚えていない。覚えているのは、その人のサンダルの底が、床の上できゅっと鳴ったことだけだ。


 日付が変わる少し前に、裕太のお母さんが着いた。


 おばさんは、私を見て、何か言おうとして、言えずに、私の手を両手で包んだ。


 同じだった。


 前の春と、同じ手だった。同じ冷たさで、同じ震え方だった。


 私は、また、泣けなかった。


 


 最後に裕太が何を言ったのか、うまく思い出せない。


 ごめん、と言った気がする。


 それだけだった。


 それだけで、十分だった。十分すぎて、それ以上のことを思い出そうとすると、頭の奥が白くなった。


 


 出棺のあと、斎場の玄関で萩原くんに呼び止められた。


「山吹さん。……あのとき、なんで、バイクのこと」


 萩原くんはそこまで言って、口をつぐんだ。


 私の顔を見て、何かを言いかけて、やめた。


「……ごめん。なんでもない」


 私は答えなかった。


 答えられるはずがなかった。


 


 葬儀のあと、私はあの海の町へ向かう電車には乗らなかった。


 斎場を出て、歩いた。どこへ向かっているのかは、途中からわかっていた。


 ——神社には、行くな。


 帰れ、のすぐあとだった。拒むことしかしなかったあの人が、ひとつだけ、違う種類の言葉を口にした。


 あの夜、立て札は、途中までしか読めなかった。


 あのとき、裕太はどうして、行くなと言ったのだろう。


 答えてくれる人は、もういない。


 


 鳥居をくぐった。


 夕方だった。蝉の声が境内を埋め尽くしていた。


 砂利の上を歩いて、本殿の前に立った。


 前の春はここで膝をついた。雨の中で、指を組んで、問いかけた。


 今日は、膝をつかなかった。


 指も、組まなかった。


 何を問えばいいのか、わからなかった。


 本当に大好きだよ、と裕太は言った。あの答えは、もう聞いた。聞いたのに、何も終わらなかった。


 その続きの「でも」を、私はまだ、どこにも持っていけずにいる。


 私は本殿を見上げていた。


 願ったことは、一度もない。


 今日も、何も願わなかった。


 


 蝉の声が、ふっと途切れた。


    *


「——はい、じゃあ席替えするぞー。一人ずつ引きに来い。引いたら黒板に名前書いとけよ」


 目を開けると、黒板に白いチョークで座席表が描かれていた。


 教卓の上にお菓子の空き箱が置かれている。


 窓の外で桜が半分くらい散っていた。


 三年二組の教室だった。


 出席番号順にクラスメイトが一人ずつ立ち上がって、前へ出ていく。紙を引いて、開いて、黒板に名前を書き込んでいく。


 廊下側の列から、今里くん、と誰かが呼ぶ声がした。


 私は自分の番が近づいてくるのを、ただ座って待っていた。


 窓際の、後ろから二番目。


 その番号だけは、引きたくなかった。

お読みいただき、ありがとうございます。

全部知っているのに、同じ場所にたどり着いてしまう。

海の町と、おかみさんの台所と、線香花火の章でした。

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