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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第三章 二度目の春

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線香花火

 それから、土曜日の朝は、一本早い電車に乗るようになった。


 乗り換えは二回。最後の一時間は、窓の外がずっと海だった。二両しかない電車は冷房の効きが悪くて、窓を少しだけ開けると、潮の匂いと一緒に、生ぬるい風が入ってきた。


 無人駅のベンチには、毎週、裕太が座っていた。


 次の土曜日も。その次の土曜日も。


「……また来た」


「来た」


「暑いのに」


「暑いね」


 裕太は、ため息のように笑った。


 


 防波堤の上を、二人で歩いた。


 海は凪いでいて、遠くの漁船が、ほとんど動いていないように見えた。


「おかみさんがさ、昨日の夜、テレビ見ながら寝てて」


 裕太が話した。


「起こしたら、『寝てない』って言うんだよ。いびきかいてたのに。で、そのまま三十分くらい『寝てない』って言いながらまた寝てた」


 私は笑った。


 裕太も、少し笑った。


 このごろの裕太は、よく話した。


 最初のころは、何を訊いても一言しか返ってこなかった。目も合わせてくれなかった。今は、訊かなくても話してくれた。民宿の仕事のこと、常連の釣り客のこと、裏の家の犬のこと。


 話しながら、ときどき私を見た。


 見て、少しだけ長く、目を留めた。


 何かを、覚えておこうとするように。


 私はそれを、いいことだと思っていた。


 


 午後は、民宿の手伝いをした。


 おかみさんは、私のことを「裕太くんの彼女さん」と呼ぶようになっていた。最初のころは訂正しようとしたけれど、途中で諦めた。裕太も、訂正しなかった。


 二階の客室で、干した布団を二人で畳んだ。


 布団の端を持って、向かい合って、半分に折った。もう半分に折った。裕太の手と私の手が、布団の角で重なった。日に焼けた手首に、黒い革のベルトが見えた。


 裕太は、すぐには手を離さなかった。


「……何」


「いや」


 裕太は目を逸らして、布団を押し入れに押し込んだ。


 窓の外で、蝉が鳴いていた。


 


 夕方、防波堤の端に並んで座った。


 日が傾いて、海が少しずつ橙色に変わっていった。風が出てきて、昼間の熱がようやく引き始めていた。


「来週も、来ていい?」


 来ていい、とは、一度も言われていなかった。


 訊いたのは、初めてだった。


 訊いたら、断られる気がしていた。だから、毎週、訊かずに来ていた。


 裕太は、海を見ていた。


 しばらく、何も言わなかった。


「……うん」


 小さな声だった。


 私は、膝を抱えた腕に、顔を半分埋めた。そうしないと、何かがこぼれそうだった。


「なあ」


「うん」


「花火、する?」


 顔を上げると、裕太がこちらを見ていた。


「花火なんて、ずっとしてないじゃん。……線香花火くらいなら、そこの浜でできるし」


「……うん。したい」


「じゃあ、買ってくる」


 裕太が立ち上がって、尻についた砂を払った。


「どこまで?」


「隣町のコンビニ。この辺、売ってるとこないんだよ」


「……バイクで?」


 声が、固くなったのが自分でもわかった。


 萩原くんのお兄さんのバイクは、他の人に渡ったはずだった。それなのに、この町に来た裕太は、どこかで中古のバイクを手に入れていた。民宿の裏に停めてあるのを、私は毎週見ていた。見るたびに、胸の奥が冷たくなった。


「私も行く」


「メット一個しかない」


「じゃあ、歩いて」


「歩いたら一時間かかるって」


 裕太は、困ったように笑った。


「十五分で戻る。海沿いの一本道だし、この時間、車ほとんど通らないから」


 私は、何か言おうとした。


 言葉を探している間に、裕太が私の頭に、ぽんと手を載せた。


「待ってて。すぐ戻るから」


 二ヶ月、何も起きなかった。


 裕太は、ここで、ちゃんと生きていた。


「……気をつけてね」


 私は、そう言った。


 


 民宿の裏から、エンジンの音が聞こえてきた。


 防波堤の下の道に、裕太のバイクが出てきて、止まった。ヘルメットのシールドを上げたまま、裕太がこちらを見上げた。


 私が手を振ると、裕太も片手を上げた。


 それから、私を見ていた。


 バイクを停めたまま、エンジンの音だけを鳴らして、ずっと。


「なに?」


 声を張ると、裕太はシールドを下ろした。


 何も答えずに、走り出した。


 赤いテールランプが、海沿いのカーブの向こうに消えていった。


 


 十五分が過ぎた。


 二十分が過ぎた。


 太陽が水平線に触れて、海の上に、橙色の道が一本だけ引かれた。それから、急に暗くなった。


 三十分が過ぎた。


 スマホを取り出して、画面を見た。何の通知もなかった。電話をかけた。呼び出し音が、七回鳴って、切れた。


 コンビニが、混んでいるのかもしれなかった。


 線香花火が見つからなくて、別の店まで行ったのかもしれなかった。


 そう思おうとした。


 遠くで、サイレンが鳴っていた。

優しい裕太が好きだ



お読みいただき、ありがとうございます。


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