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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第三章 二度目の春

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麦茶

 六月の二回目の土曜日も、来た。


 三回目も、四回目も。


 裏口の扉は、ときどき開いて、たいていは開かなかった。開いたときも、裕太は「帰れ」とだけ言って、すぐに閉めた。


 私は帰らなかった。


 玄関に回って、おかみさんに頭を下げた。おかみさんは三回目からは何も訊かずに、麦茶を出してくれるようになった。


「あなた、毎週来るのね」


「……はい」


「遠いでしょう。どこから?」


 私は町の名前を言った。


 おかみさんは目を丸くした。


「三時間もかけて?」


「……はい」


 おかみさんはグラスの縁に指をかけたまま、私の顔を見ていた。


 それからふっと笑った。


「……そう。裕太くんの、彼女さんなのね」


 


 違います、と言おうとした。


 言えなかった。


 違うのかどうか、わからなかった。


 本当に大好きだよ、とあの人は言った。一緒にはいられない、とも言った。


 それが何なのか、私には、名前がつけられなかった。


「……わかりません」


 正直に言うと、おかみさんは声を出して笑った。


「わかんないのに、毎週来るの」


「……はい」


「いいわねえ、若いって」


 おかみさんは麦茶のおかわりを注いでくれた。


「今日、午後から二階の布団干すの。手伝ってくれたら、お昼、ごちそうするわよ」


 


 その日から、私は民宿の手伝いをするようになった。


 布団を干して、取り込んで、畳んだ。客室の窓を拭いた。台所で、おかみさんの横に立って、野菜を刻んだ。


 二階の客室は、どの部屋も、日に焼けた畳の匂いがした。


 窓を開けると、正面に海があった。拭いたばかりのガラスに、午後の光が白く跳ねた。


 物干しで布団を叩くと、ぽすん、と鈍い音がして、日向と潮の混ざった匂いが立ちのぼった。


 階段は、真ん中あたりの一段だけが、踏むたびに、きい、と鳴った。


 その音で、誰かが上り下りするのが、どの部屋にいてもわかった。


 裕太は私のいる場所を、避けて歩いた。


 私が二階にいれば一階に、台所にいれば裏の作業場に。同じ建物の中にいるのに、一度も、同じ部屋にはいなかった。


 それでも、ときどき廊下の角で目が合った。


 目が合うと、裕太はすぐに逸らした。


 逸らすのが、いつも、少しだけ遅かった。


 


 六月の終わりの土曜日だった。


 台所で、おかみさんと並んで、昼の味噌汁の支度をしていた。


 台所は、建物のいちばん奥にあった。流しの上の小さな窓から、裏の作業場のトタン屋根が見えた。


 私は洗い桶に張った水で、ネギを洗った。根元に入り込んだ砂が、指の先でほどけて、桶の底に沈んでいった。水は、思っていたより冷たかった。


 おかみさんは隣で大根の皮を剥いていた。包丁を持った手は、ほとんど動いていないように見えるのに、白い皮が、途切れずに長く垂れていった。


「……上手ですね」


「毎日やってればね」


 おかみさんは剥いた皮を、ざるの端に寄せた。


「皮はね、きんぴらにするの。捨てるとこ、ないのよ」


 私はネギをまな板に並べて、端から刻み始めた。


 とん、とん、とん、と、自分の包丁の音が、おかみさんの音よりずっと遅れて、台所に響いた。


「もうちょっと、細かく」


「……はい」


「そう。上手、上手」


 鍋の中で、昆布が、ゆらゆらと揺れていた。煮干しの匂いが、湯気と一緒に立ちのぼって、網戸のほうへ流れていった。網戸の向こうから、波の音と、どこかの家のラジオの音が、混ざって聞こえた。


「あの子ねえ」


 おかみさんが鍋をかき回しながら言った。


「来たとき、ほんとに何も言わなかったのよ。知り合いの知り合いの紹介で、住み込みで働かせてくれって。理由は訊かないでくれって。……真面目に働くから、置いてやってたけど」


「……」


「毎晩、防波堤の端に座って、海見てるの。何時間も。……最初は、なんか悪いことでもして逃げてきたのかと思ったけど」


 おかみさんはお玉を置いて、私のほうを見た。


「あなたが来るようになってから、あの子、土曜日だけ、朝の支度が妙に早いのよ。気づいてた?」


 


 私は包丁を持ったまま、止まった。


「……え」


「七時過ぎには、布団全部上げちゃってるの。それで、あなたの電車が着く時間になると、二階の窓から、駅のほうばっかり見てるの」


 おかみさんはくすくす笑った。


「会いたくないって言いながらね。……変な子」


 私は手元のネギを見た。


 刻みかけのまま、まな板の上で止まっていた。


 二階の窓。


 初めて来た日、閉まった扉の前で見上げたとき、カーテンが、ふっと揺れて、止まった。


 あれは。


 鍋が、ことことと鳴っていた。


「ほら、手。止まってる」


 おかみさんに言われて、私はまた包丁を動かした。


 ネギの青い匂いが、指に移った。


 おかみさんはもう別の話をしていた。味噌は、隣町の蔵のを使っているとか、裏の畑のトマトが、やっと赤くなってきたとか。


 私はひとつひとつに、はい、と答えた。


 答えながら、二階の窓のことを考えていた。


 刻み終えたネギを、おかみさんが手のひらに集めて、鍋の上で、ぱらぱらと散らした。


 


 その日の帰り、裏口の前で、裕太とすれ違った。


 作業場から、ゴム長靴のまま出てきたところだった。私を見て、足を止めた。


 私も、止まった。


 ゴム長靴の先から、水が一滴、コンクリートに落ちた。どちらも、口を開かなかった。


「……おかみさんに、変なこと聞いた?」


 裕太が先に言った。


「……聞いてない」


「聞いたろ」


「……ちょっとだけ」


 裕太は深く息を吐いた。


「……電車、何時の」


「……六時十分」


「最終の、二本前か」


「……うん」


 裕太は腕の時計を見た。


 黒い革のベルトの、飾り気のない時計。


「……あと、二十分」


 


 裕太は私の横を通り過ぎて、防波堤のほうへ歩いていった。


 五歩くらい先で、振り返った。


「駅まで、歩けば十五分だろ。……来週、もうちょい早い電車にしろよ。この時間、暑いから」


 それだけ言って、また歩いていった。


 


 来週も、来ていい。


 そう言われたのかどうか、わからなかった。


 わからないまま、私は駅まで歩いて、六時十分の電車に乗った。


 窓の外で、海が夕方の色に変わり始めていた。


 カーブにさしかかるたびに、二両の電車は大きく揺れて、窓ガラスが、かたかたと細かく鳴った。


 防波堤の上を、誰かが歩いているのが見えた。遠すぎて、誰なのかは、わからなかった。


 


 七月の最初の土曜日。


 一本早い電車で、無人駅に着いた。


 ホームに降りた。


 潮の匂いと、日に焼けたコンクリートの匂いがした。


 ベンチに、裕太が座っていた。


 日に焼けた腕。民宿の名前が背中に入った、紺色のTシャツ。首にタオルを掛けて、足元にペットボトルが一本、置いてあった。


 私を見て、立ち上がりかけて、やめて、座り直した。


「……暑いから」


 裕太は私から目を逸らして、言った。


「迎えに来たわけじゃない。……ついで」


「……何の、ついで」


「……」


 裕太は答えなかった。


 足元のペットボトルを、私のほうへ押し出した。


 スポーツドリンクだった。


 冷たかった。


 まだ開いていなかった。


 


 私はそれを両手で受け取った。


 受け取って、裕太の隣に座った。


 裕太は立ち上がらなかった。


 海のほうを見ていた。


 私も、海を見た。


 白っぽく霞んだ空と、凪いだ水面の境目が、どこにあるのかわからなかった。


 しばらく、そうしていた。


 


 五月七日から、二ヶ月が過ぎていた。


 二年前のあの人は、三週間もたたずに、いなくなった。


 今年のあの人は、まだここにいる。


 朝早く起きて、布団を干して、魚を捌いて、夜は防波堤の端で海を見て。


 土曜日には、二階の窓から、駅のほうを見て。


 生きていた。


 二年前とは、違う。


 私はペットボトルの冷たさを、両手の中に閉じ込めるようにして、握っていた。

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