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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第三章 二度目の春

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29/62

でも

 境内には、誰もいなかった。


 裸電球の光の届かないところは楠の影と夜が混ざって、どこまでが木でどこからが空なのか、わからなかった。


 砂利を踏む音が、一人分だけ響いた。


 私は、本殿を見なかった。


 本殿の脇の、古い木の立て札の前に立った。


 四月から、一度も、ちゃんと読んだことのない立て札だった。一度目の高三の五月、あの人に「山吹さん」と呼ばれて、一行目で目を離したきりの。


 暗くて、字が見えなかった。


 スマホを取り出して、ライトをつけた。


 


 白い光の輪が、灰色に褪せた板の上に落ちた。


 墨で書かれた文字が、光の中に浮かび上がった。


 この社は、古くより——


 一行目だった。


 私は、光の輪を、ゆっくりと下へずらしていった。


 一行ずつ、字が浮かんで、光が過ぎると、また闇に沈んでいった。


 縁を結ぶ神を祀る、と書いてあった。


 人の願いを聞き届け、その縁を結び、守る、と。


 願いを掛けし者は、その願いの続くかぎり——


 そこから先は、墨がかすれていた。


 雨風に晒されて、字の輪郭が溶けていた。光を近づけても、遠ざけても、読めるのは、ところどころの一文字だけだった。


 代。


 日。


 命。


 


 手が、止まった。


 光の輪の中で、その一文字が、じっとこちらを見ていた。


 命。


 その先を、読もうとした。


 目が、滑った。


 字を追おうとするたびに、視界が揺れて、行が重なって、どこを読んでいるのかわからなくなった。かすれているせいなのか、自分の目のせいなのか、わからなかった。


 最後の数行は、光を当てても、ただの灰色の木目にしか見えなかった。


 ただ、一番下の行の端に、一文字だけ、墨の濃いところがあった。


 覚。


 何を覚えるのか。何を、覚えていろというのか。それも、わからなかった。


 


 私は、スマホを下ろした。


 ライトが、砂利の上に、白い円を描いた。


 膝が、冷たかった。


 砂利に膝をついているわけではなかった。立っていた。それなのに、膝の下で何かが水を吸っていく感覚が、どうしても消えなかった。


 ここで、問いかけた。


 ここで、戻された。


 この立て札には、それが書いてあるのかもしれなかった。書いてあって、私には、読めなかった。


 


 本殿の横の絵馬掛けの前に立った。


 何百枚もの絵馬が、幾重にも重なって掛かっていた。合格祈願。家内安全。恋愛成就。スマホの光を当てると、色とりどりの文字が次々と浮かんでは消えた。


 何を探せばいいのか、わからなかった。


 夜風が吹くたびに、絵馬どうしが触れ合って乾いた音を立てた。表に見えているものだけを、眺めていた。


 知らない人の名前。知らない人の願い。


 どれも私には関係のないものに見えた。


 


 あの人は行くなと言った。


 あれほど強い声で、あの人が遠ざけようとした場所。


 何があの人をそうさせるのか、私には、わからなかった。


 立て札は途中までしか読めず、絵馬掛けには知らない願いが並んでいるだけだった。


 答えがあるはずの場所で、私は何も見つけられなかった。


 私は鳥居をくぐって、坂を下りた。


 振り返らなかった。


 


 三日後の朝、五時に目が覚めた。


 五月二十七日だった。


 枕元のスマホを見た。五時十二分。


 何も、鳴らなかった。


 私は布団の中で、しばらくその数字を見ていた。


 二年前の今日、この時間に、あの人は息を止めた。


 今年のあの人は、海の町で、たぶんまだ眠っている。


 生きている。


 五時十三分になった。


 私は目を閉じた。


 


 次の土曜日も、七時十二分の電車に乗った。


 無人駅の箱に切符を入れて、防波堤沿いの道を歩いた。


 先週より、日差しが強かった。防波堤の上にカモメが三羽、等間隔に並んでとまっていて、私が近づくと、一羽ずつ面倒くさそうに飛び立った。


 民宿の裏口の扉は叩いても開かなかった。


 玄関に回ると、白い割烹着の女の人が出てきた。民宿のおかみさんだった。私の顔を見て、少し困ったように笑った。


「裕太くんの、お知り合い?」


「……はい」


「あの子ね、今、裏で魚捌いてるんだけど。……会いたくないって」


 おかみさんは気の毒そうに眉を下げた。


「麦茶、飲んでいきなさい。暑いから」


 玄関の上がり框で、冷たい麦茶を飲んだ。


 土間は外よりずっとひんやりしていた。下駄箱の上に、貝殻を並べた小さな籠と、色の褪せたこけしが一つ。壁の柱時計がこち、こち、と、少し遅れたような音で鳴っていた。


 廊下の床板は飴色に光っていた。奥の部屋の障子が半分開いていて、扇風機の首が、ゆっくり右に回って、左に回っていた。


 開け放した窓から、波の音が途切れ途切れに入ってきた。


 グラスの外側に、細かい水滴がついていた。指でなぞると、すぐにぬるくなった。


 奥の廊下の先から、包丁の音が聞こえていた。一度も、止まらなかった。


 私は麦茶を飲み終えて、おかみさんに頭を下げて、最終の一本前の電車で帰った。


 


 その次の土曜日も、来た。


 六月の最初の土曜日だった。


 裏口の扉を叩くと、しばらくして扉が開いた。


 裕太が立っていた。


 Tシャツの袖を肩まで捲って、首にタオルを掛けていた。手首に、黒い革のベルトが見えた。


「……また来た」


 低い声だった。


「来るなって、言ったよな」


「……言われた」


「なんで来んの」


 私は答えなかった。


 代わりにずっと胸の中で転がしていた言葉を、口にした。


「私のこと、本当に好き?」


 


 口にしてから、気づいた。


 雨の神社で、答えてくれる人のいない場所に投げた問いと、同じ言葉だった。


 裕太は、動かなかった。


 扉の枠に手をかけたまま、私の顔を見ていた。


 長いあいだ、黙っていた。


 潮風が、二人のあいだを通り過ぎていった。遠くで、カモメが鳴いた。


 裕太の喉が、一度だけ動いた。


「本当に大好きだよ」


 息が、止まった。


「でも、一緒にはいられない」


 


 それだけ言って、裕太は、扉を閉めた。


 内側から、鍵をかける音がした。


 私は閉まった扉の前に立っていた。


 本当に大好きだよ。


 あの雨の日、どうしても知りたかったことの、答えだった。


 答えをもらったのに、何も終わらなかった。


 でも、一緒にはいられない。


 その「でも」の先が、わからなかった。


 どうして、一緒にいられないのか。大好きなのに、どうして。


 扉は、もう開かなかった。


 


 無人駅に戻ると、二両の電車がもうホームに入っていた。


 座席に座ると、車体がことん、ことん、と揺れた。揺れるたびに、膝の上の鞄が少しずつ前へずれた。窓を少しだけ開けると、潮の匂いの混じった風が髪の先をさらっていった。


 トンネルに入った。


 帰りの電車の窓に、自分の顔が映っていた。


 窓に映った目は、乾いたままだった。


 あの「でも」の続きを、私はまだ、聞いていない。

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