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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第三章 二度目の春

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帰れ

 無人駅だった。


 改札もなく、切符を入れる箱が一つ置いてあるだけの、小さなホーム。降りたのは、私一人だった。


 二両の電車は、私を降ろすと、短く警笛を鳴らして、また走り出した。


 最後の一時間、あの電車は、よく揺れた。


 カーブのたびに、吊り革が一斉に同じほうへ傾いて、座席の下から、モーターの低い唸りが、足の裏に伝わってきた。トンネルを抜けるたびに、窓の外が、ぱっと明るくなった。いくつ目かのトンネルを抜けたところで、海が見えた。


 それからずっと窓の左側に海があった。


 電車の音が、線路の先へ小さくなって、消えた。


 潮の匂いがした。


 海は、駅のすぐ向こうにあった。白っぽく霞んだ空の下で、凪いだ水面が、ほとんど動いていないように見えた。


 切符を、箱に入れた。


 かたん、と、底のほうで小さな音がした。


 地図を頼りに、防波堤沿いの道を歩いた。


 防波堤のコンクリートは、手を置くと、もう温かかった。表面がざらざらしていて、ところどころに、乾いた海藻が白く貼りついていた。低いところで、波が、テトラポッドのあいだを出たり入ったりしていた。そのたびに、ちゃぷ、と、くぐもった音がした。


 十五分ほどで、写真の建物が見えてきた。


 古い木造の二階建て。色の褪せた看板。玄関の脇に、干した布団がいくつも並んでいた。


 


 玄関の前に立ったまま、干された布団が海風にふくらんで、しぼむのを見ていた。


 呼び鈴を押せなかった。


 押して、あの人が出てきたら、何を言えばいいのか。


 押して、あの人が出てこなかったら。


 どちらも、怖かった。


 建物の横の細い道から、裏手に回った。勝手口のような扉の横に、ビールのケースが積まれていた。その向こうに、自転車が一台と、黒いバイクが一台、停まっていた。


 知らないバイクだった。


 萩原くんのお兄さんのものより、ずっと古くて、あちこちに錆が浮いていた。


 私はそのバイクから、目を離せなかった。


 


「——何してんの」


 声がした。


 振り返ると、勝手口の扉が開いていた。


 裕太が立っていた。


 民宿の名前が入った、紺色のTシャツ。首にタオル。手に、空のビールケースを一つ提げていた。


 私を見て、動きを止めていた。


「……なんで」


 かすれた声だった。


「なんで、ここ、知ってんの」


 


 私は答えられなかった。


 二週間ぶりに見た顔だった。少し痩せていた。日に焼けていた。目の下に、薄く影があった。


 生きていた。


 それだけで、喉の奥が詰まった。


「……萩原くんの、写真」


 やっと、それだけ言えた。


 裕太は目を閉じた。


 深く、息を吐いた。


「……あいつ」


 ビールケースを、地面に置いた。


 それから目を開けて、私を見た。


「帰れ」


 


 知っている声だった。


 二年前、居酒屋の路地で聞いた声だった。


「帰れよ。……ここ、渚沙の来るとこじゃない」


「……どうして」


「どうしてもだよ」


「大学、やめたって。おばさんから聞いた」


「……」


「何も言わないで、いなくなって。……どうして」


 裕太は答えなかった。


 ポケットに手を入れて、足元を見ていた。


「今は、話せない」


「いつなら、話せるの」


「……わかんない」


 


 私は一歩、近づいた。


 裕太が一歩、下がった。


 勝手口の扉に、背中が当たった。


「来んなって」


 低い声だった。


 怒っているような。


 怖がっているような。


 二年前の、花屋のシャッターの前で聞いたのと、同じ声だった。


「……帰れ。最後の電車、八時だから。それ逃したら、明日の朝までない」


 


 私は動けなかった。


 帰れと言われて、帰れなかった。


 帰ったら、この人はまた見えないところに行ってしまう。見えないところで、二年前と同じように。


 裕太は私の顔を見ていた。


 何かを確かめるように。


 それから目を逸らした。


 逸らしたまま、言った。


「それから」


「……」


「神社には、行くな」


 


 息が、止まった。


 神社。


 この人は今、神社と言った。


「……どこの」


「高校の近くの。坂の上の」


 裕太はまだ目を逸らしていた。


「あそこには、近づくな。……理由は、訊くな」


「……」


「いいから。行くな」


 いつもより、強い声だった。


 帰れ、と言ったときよりも、ずっと。


 


 どうして、と訊こうとした。


 どうして、あの神社なの。


 どうして、あそこに行くなと言うの。


 口を開いた。


 声が出る前に、裕太は勝手口の扉を開けて、中に入った。


 扉が、閉まった。


 内側から、鍵をかける音がした。


 


 私は閉まった扉の前に、しばらく立っていた。


 潮風が、髪を揺らした。


 足元に、裕太が置いていったビールケースがあった。


 民宿の二階の窓から、誰かがこちらを見ている気配がした。見上げると、カーテンが、ふっと揺れて、止まった。


 三時四十分に、防波堤沿いの道を、駅に向かって歩き出した。


 振り返らなかった。


 振り返ったら、二階の窓に、あの人の顔があるかもしれない。


 なかったら、と思うと、振り返れなかった。


 


 帰りの電車は、行きより長く感じた。


 窓の外が、海から山に変わって、山から街に変わった。乗り換えを二回して、地元の駅に着いたのは、七時を過ぎていた。


 改札を出た。


 いつもなら、角を三つ曲がって、家に帰る。


 私は反対のほうへ歩いた。


 高校のほうへ。


 


 神社には、行くな。


 あの人はそう言った。


 四月からずっと、私が怖くて近づけなかった場所だった。あの人と一緒のときだけ、本殿を見ないように、立て札を読まないように、通り抜けてきた場所だった。


 あの人はあそこを、怖がっている。


 なぜなのかは、見当もつかなかった。ただ、あの人が私を遠ざけようとしたものが、あそこにある。


 だったら。


 確かめるしかなかった。


 


 坂を上った。


 鳥居の前で、足が止まった。


 夜の境内は、暗かった。本殿の前に、裸電球がひとつだけ灯っていた。楠の葉が、風に揺れて鳴っていた。


 一人でこの鳥居の前に立つのは、あの雨の日以来だった。


 喪服で膝をついた日以来。


 膝の下で、何かが水を吸っていく感覚が、また、戻ってきた。


 私は息を吸った。


 鳥居を、くぐった。

裕太、渚沙に冷たくしないでよ!!!!!!!!!!


お読みいただき、ありがとうございます。


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