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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第四章 君のいない世界

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交換

 私の番が来た。


 立ち上がって、教卓まで歩いた。お菓子の空き箱に、手を入れた。


 紙を一枚、掴んだ。


 開く前に、目を閉じた。


 開いた。


 二十九。


 


 知っていた。


 三度目だった。何度引いても、この紙は、私の手に来るのだと思った。


 黒板の座席表を見上げた。窓際の列の、後ろから二番目。その隣の三十番の枠には、もう「今里」と書かれていた。


 少し右上がりの、急いで書いたみたいな字だった。


 二度とも、私はこの字を見ていなかった。自分の名前を書いて、机を運んで、隣の机が止まる音を聞くまで、あの人がどこに名前を書いたのか、知らなかった。


 チョークを取らなかった。


 教卓の横に立ったまま、振り返った。


 後ろの列で、黒板を見上げてため息をついている子がいた。廊下側の前から三番目の枠に、その子の名前があった。


 二年前の二学期、私が座った席だった。


「……ねえ」


 声をかけると、その子は驚いたように顔を上げた。


 同じクラスになって一週間。話したことは、一度もなかった。


「……席、交換しない? 私、窓際なんだけど」


 


 その子は目を丸くした。


「え、いいの? 窓際だよ?」


「……うん。前のほうが、黒板見やすいから」


「山吹さん、目悪いんだっけ」


「……うん」


 嘘だった。


 宮下先生は紙を交換する私たちを見て、少し眉を上げたけれど、何も言わなかった。


 その子が前に出てきて、自分の名前を黒板消しで消して、二十九の枠に書き直した。


 私は廊下側の前から三番目の枠に「山吹」と書いた。


 指先に、白い粉が残った。


 字は、震えていなかった。


 


 机を運んだ。


 廊下側の、前から三番目。窓の外の桜は、ここからはほとんど見えなかった。


 代わりに廊下の窓ガラス越しに、隣のクラスの掲示板が見えた。色の褪せた画鋲が、四隅に一つずつ刺さっていた。


 椅子を下ろして、座った。


 机の天板に、小さな傷があった。前の年の誰かが、コンパスの針で彫ったらしいイニシャルだった。指でなぞると、ざらりとした。


 背中のほうで、机を引きずる音がした。


 窓際の、後ろから二番目。


 その隣に、別の机が、がたん、と音を立てて止まった。


「よっ、と」


 声がした。


 振り返らなかった。


 振り返らないように、机の木目を見ていた。


「よろしく。……あれ、山吹さんじゃないんだ」


 背中の遠くで、あの人が言った。


 教卓の横で、紙を交換する私たちを、見ていたのだと思った。


 窓際の、自分の名前の隣を。


 


 二度、見た。


 二度とも、あの人は私のそばで変わっていった。


 どちらも、私から離れていった。離れていった先で、いなくなった。


 理由は、わからない。


 わからないけれど、わかっていることが、ひとつだけあった。


 あの人はいつも、私から離れようとしていた。


 だったら。


 最初から私がそばにいなければ。


 あの人は私から離れなくていい。


 


 四月の最初の週末、机の引き出しの奥を開けた。


 部屋の窓から、午後の日が斜めに入っていた。下の階で、母が掃除機をかける音がしていた。


 水色のノートは、使われないまま、そこにあった。一ページ目は、真っ白だった。


 私はそれを、閉じた。


 何も書かなかった。


 書くことが、もうなかった。


 五月七日の朝、あの人に何が起きるのか。私は二度見て、二度とも何もできなかった。止める方法を書き並べても、どれもあの人を止められなかった。


 だから、今度は何も書かない。


 何も止めない。


 ただ近づかない。


 


「渚沙、どうしたの、最近」


 四月の終わり、昼休みに、亜美が言った。


 廊下側の前から三番目の私の席まで、弁当を持ってやってきて。


「なんか、ずっと下向いてるし。話しかけても、上の空だし」


「……そうかな」


「そうだよ。……ねえ、窓際の席、なんで替わったの。あそこ、いい席じゃん」


「……黒板、見やすいから」


「目、悪くないじゃん」


 亜美は弁当の蓋を開けながら、私の顔をじっと見た。


「中学から一緒にいて、渚沙が嘘つくの、初めて見た」


 


 私は答えられなかった。


 箸を持ったまま、自分の弁当の、冷めた卵焼きを見ていた。


 窓際の、後ろのほうから、笑い声が聞こえた。


 萩原くんが隣のクラスから購買のパンを持ってやってきて、あの人の机の前に座っていた。


「裕太ー、コロッケしかなかった」


「え、焼きそばパンは」


「瞬殺」


 二年前と、同じ会話だった。


 あの四つの机は、今年は二つだけだった。


 亜美は萩原くんとは同じ委員会になっていた。委員会の帰りに話すようになったらしく、四月の終わりには、もう「朔」と呼んでいた。


 私のいないところで、亜美の四月は、ちゃんと進んでいた。


 亜美はそっちを一度だけ見て、それから私に視線を戻した。


「……まあ、いいけど」


 いいけど、と言った亜美の声は、少しだけ寂しそうだった。


 


 五月に入って、中間テストが近づいてきた。


 放課後、図書室には行かなかった。


 校門を出て、駅のほうへ、一人で歩いた。


 住宅街の中を抜けていく道。垣根から、つつじの花がこぼれている。どこかの家から、夕飯の匂いがした。


 後ろから、足音が近づいてきた。


「山吹さん」


 呼ばれた。


 足が、止まりかけた。


 止めずに、歩いた。


「山吹さんってさ、帰り、どっち?」


 


 隣に、あの人が並んでいた。


 少し息が上がっていた。走ってきたのだとわかった。


 二年前と、同じ問いだった。


 四年前と、同じ問いだった。


 私は前を向いたまま、答えた。


「……反対」


 あの人は瞬きをした。


「え」


「……駅と、反対」


 嘘だった。


 交差点が、近づいてきた。


 まっすぐ行けば、駅。右に曲がれば、坂の上の神社。


 私は交差点で、左に曲がった。


 家とも、駅とも違う、知らない住宅街のほうへ。


 細い道の両側に、同じような形の家が並んでいた。ブロック塀の上で、猫が一匹、目を細めて私を見ていた。


 


 あの人は交差点の真ん中で、立ち止まっていた。


 私は振り返らなかった。


 十歩ほど歩いたところで、背中のほうから、声がした。


「……じゃあ、また明日」


 それだけだった。


 私は答えなかった。


 知らない住宅街を、ぐるりと遠回りして、三十分かけて駅に着いた。ホームのベンチに座って、電車を二本、見送った。


 ベンチの鉄が、夕方の風で、少し冷たかった。向かいのホームで、塾の鞄を提げた中学生たちが、何かを言い合って笑っていた。誰かの落としたレシートが、風に押されて、線路の上を転がっていった。


 あの人はあの交差点を、右に曲がったのだろうか。


 一人で坂を上って、あの石段に座ったのだろうか。


 楠の葉の音を聞きながら、誰かを待つみたいに。


 


 三本目の電車に乗った。


 窓に、自分の顔が映っていた。


 乾いた顔だった。


 これでいい、と思った。


 これで、あの人は私から離れなくていい。


 窓ガラスの中の私の顔の上を、知らない家の明かりが、ひとつずつ通り過ぎていった。

お読みいただき、ありがとうございます。


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