交換
私の番が来た。
立ち上がって、教卓まで歩いた。お菓子の空き箱に、手を入れた。
紙を一枚、掴んだ。
開く前に、目を閉じた。
開いた。
二十九。
知っていた。
三度目だった。何度引いても、この紙は、私の手に来るのだと思った。
黒板の座席表を見上げた。窓際の列の、後ろから二番目。その隣の三十番の枠には、もう「今里」と書かれていた。
少し右上がりの、急いで書いたみたいな字だった。
二度とも、私はこの字を見ていなかった。自分の名前を書いて、机を運んで、隣の机が止まる音を聞くまで、あの人がどこに名前を書いたのか、知らなかった。
チョークを取らなかった。
教卓の横に立ったまま、振り返った。
後ろの列で、黒板を見上げてため息をついている子がいた。廊下側の前から三番目の枠に、その子の名前があった。
二年前の二学期、私が座った席だった。
「……ねえ」
声をかけると、その子は驚いたように顔を上げた。
同じクラスになって一週間。話したことは、一度もなかった。
「……席、交換しない? 私、窓際なんだけど」
その子は目を丸くした。
「え、いいの? 窓際だよ?」
「……うん。前のほうが、黒板見やすいから」
「山吹さん、目悪いんだっけ」
「……うん」
嘘だった。
宮下先生は紙を交換する私たちを見て、少し眉を上げたけれど、何も言わなかった。
その子が前に出てきて、自分の名前を黒板消しで消して、二十九の枠に書き直した。
私は廊下側の前から三番目の枠に「山吹」と書いた。
指先に、白い粉が残った。
字は、震えていなかった。
机を運んだ。
廊下側の、前から三番目。窓の外の桜は、ここからはほとんど見えなかった。
代わりに廊下の窓ガラス越しに、隣のクラスの掲示板が見えた。色の褪せた画鋲が、四隅に一つずつ刺さっていた。
椅子を下ろして、座った。
机の天板に、小さな傷があった。前の年の誰かが、コンパスの針で彫ったらしいイニシャルだった。指でなぞると、ざらりとした。
背中のほうで、机を引きずる音がした。
窓際の、後ろから二番目。
その隣に、別の机が、がたん、と音を立てて止まった。
「よっ、と」
声がした。
振り返らなかった。
振り返らないように、机の木目を見ていた。
「よろしく。……あれ、山吹さんじゃないんだ」
背中の遠くで、あの人が言った。
教卓の横で、紙を交換する私たちを、見ていたのだと思った。
窓際の、自分の名前の隣を。
二度、見た。
二度とも、あの人は私のそばで変わっていった。
どちらも、私から離れていった。離れていった先で、いなくなった。
理由は、わからない。
わからないけれど、わかっていることが、ひとつだけあった。
あの人はいつも、私から離れようとしていた。
だったら。
最初から私がそばにいなければ。
あの人は私から離れなくていい。
四月の最初の週末、机の引き出しの奥を開けた。
部屋の窓から、午後の日が斜めに入っていた。下の階で、母が掃除機をかける音がしていた。
水色のノートは、使われないまま、そこにあった。一ページ目は、真っ白だった。
私はそれを、閉じた。
何も書かなかった。
書くことが、もうなかった。
五月七日の朝、あの人に何が起きるのか。私は二度見て、二度とも何もできなかった。止める方法を書き並べても、どれもあの人を止められなかった。
だから、今度は何も書かない。
何も止めない。
ただ近づかない。
「渚沙、どうしたの、最近」
四月の終わり、昼休みに、亜美が言った。
廊下側の前から三番目の私の席まで、弁当を持ってやってきて。
「なんか、ずっと下向いてるし。話しかけても、上の空だし」
「……そうかな」
「そうだよ。……ねえ、窓際の席、なんで替わったの。あそこ、いい席じゃん」
「……黒板、見やすいから」
「目、悪くないじゃん」
亜美は弁当の蓋を開けながら、私の顔をじっと見た。
「中学から一緒にいて、渚沙が嘘つくの、初めて見た」
私は答えられなかった。
箸を持ったまま、自分の弁当の、冷めた卵焼きを見ていた。
窓際の、後ろのほうから、笑い声が聞こえた。
萩原くんが隣のクラスから購買のパンを持ってやってきて、あの人の机の前に座っていた。
「裕太ー、コロッケしかなかった」
「え、焼きそばパンは」
「瞬殺」
二年前と、同じ会話だった。
あの四つの机は、今年は二つだけだった。
亜美は萩原くんとは同じ委員会になっていた。委員会の帰りに話すようになったらしく、四月の終わりには、もう「朔」と呼んでいた。
私のいないところで、亜美の四月は、ちゃんと進んでいた。
亜美はそっちを一度だけ見て、それから私に視線を戻した。
「……まあ、いいけど」
いいけど、と言った亜美の声は、少しだけ寂しそうだった。
五月に入って、中間テストが近づいてきた。
放課後、図書室には行かなかった。
校門を出て、駅のほうへ、一人で歩いた。
住宅街の中を抜けていく道。垣根から、つつじの花がこぼれている。どこかの家から、夕飯の匂いがした。
後ろから、足音が近づいてきた。
「山吹さん」
呼ばれた。
足が、止まりかけた。
止めずに、歩いた。
「山吹さんってさ、帰り、どっち?」
隣に、あの人が並んでいた。
少し息が上がっていた。走ってきたのだとわかった。
二年前と、同じ問いだった。
四年前と、同じ問いだった。
私は前を向いたまま、答えた。
「……反対」
あの人は瞬きをした。
「え」
「……駅と、反対」
嘘だった。
交差点が、近づいてきた。
まっすぐ行けば、駅。右に曲がれば、坂の上の神社。
私は交差点で、左に曲がった。
家とも、駅とも違う、知らない住宅街のほうへ。
細い道の両側に、同じような形の家が並んでいた。ブロック塀の上で、猫が一匹、目を細めて私を見ていた。
あの人は交差点の真ん中で、立ち止まっていた。
私は振り返らなかった。
十歩ほど歩いたところで、背中のほうから、声がした。
「……じゃあ、また明日」
それだけだった。
私は答えなかった。
知らない住宅街を、ぐるりと遠回りして、三十分かけて駅に着いた。ホームのベンチに座って、電車を二本、見送った。
ベンチの鉄が、夕方の風で、少し冷たかった。向かいのホームで、塾の鞄を提げた中学生たちが、何かを言い合って笑っていた。誰かの落としたレシートが、風に押されて、線路の上を転がっていった。
あの人はあの交差点を、右に曲がったのだろうか。
一人で坂を上って、あの石段に座ったのだろうか。
楠の葉の音を聞きながら、誰かを待つみたいに。
三本目の電車に乗った。
窓に、自分の顔が映っていた。
乾いた顔だった。
これでいい、と思った。
これで、あの人は私から離れなくていい。
窓ガラスの中の私の顔の上を、知らない家の明かりが、ひとつずつ通り過ぎていった。
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