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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第二章 五月七日

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21/62

もしも

 斎場の控え室は、線香の匂いがした。長机の上に、お寿司の桶と、ビールの瓶と、湯呑みが並んでいた。大人たちは低い声で何かを話し、ときどき、誰かが鼻をすする音がした。


 私は隅の椅子に座っていた。


 黒いワンピースの膝の上に、黒い鞄を載せて。


 隣には亜美がいた。亜美はずっと、私の手の甲に自分の手を重ねていた。何も言わずに。ときどき、指先で私の手の甲を撫でた。


 お焼香は、もう済ませていた。


 祭壇の上にあの写真があった。


 白い菊に囲まれて、黒い額の中で、裕太が笑っていた。


 私は、その前で、手を合わせた。


 合わせたまま、何も思わなかった。


 何も、思えなかった。


 


 八時を過ぎて、人が少しずつ帰り始めたころ、萩原くんが控え室の入り口に立った。


 黒いスーツが、ひどく似合っていなかった。大学の入学式のときに買ったものだと、あとで聞いた。袖が、少し短かった。


 萩原くんは私を見て、少し迷うような顔をした。それから、こちらへ来て向かいの椅子に座った。


「……ちょっと、いい?」


 亜美が私の手を離して、「飲み物もらってくる」と言って立ち上がった。


 萩原くんは膝の上で、自分の手を見ていた。


「俺さ、ずっと考えてたんだけど」


「……うん」


「あいつ、連休明けてすぐくらいに、変なこと言ってたんだよ」


 


 学食で、と萩原くんは言った。


 五月の、二週目くらい。裕太が、あの先輩たちとつるみ出したころ。珍しく、あいつが一人で昼を食べてて。俺が向かいに座ったら、しばらく何も言わないで、カレーをつついてて。


 それから、急に言ったんだ。


「なあ朔。もし同じ日を何回もやり直せるとしたらさ、お前どうする」


 


「……俺、ゲームの話だと思って」


 萩原くんは苦笑いのような、泣き笑いのような顔をした。


「セーブポイントどこにするか、みたいな話してさ。テストの前の日に戻ってカンニングする、とか、宝くじの番号覚えとく、とか。くだらないこと言って」


「……」


「あいつ、笑ってたんだよ。『お前らしいな』って」


 萩原くんの声が、揺れた。


「でも、目が、笑ってなかった気がする。……そう見えるの、あとからだからかもしんないけど」


 


 控え室の空気が、一瞬、止まったような気がした。


「……それで」


「それで終わり。あいつ、カレー半分残して、先に行った」


 萩原くんは顔を両手でこすった。


「あのとき、なんか、もっとちゃんと聞けばよかった。あいつ、何か言いたかったんじゃないかって。……今になって、ずっと、そればっか考えてる」


 


 私は黙っていた。


 同じ日を、何回も。


 意味が、わからなかった。


 ゲームの話。もしもの話。男の子同士の、くだらない雑談。


 それだけのはずだった。


 それなのに、胸の底で、何かが、ことりと動いた。


 あの人は、萩原くんには、そんな話をしていた。


 学食で。向かいに座った親友に。冗談めかして。


 私には、「なんでもない」としか、言わなかったのに。


「……なんで」


 声が出た。


 萩原くんが顔を上げた。


「なんで、私には」


 そこまで言って、止まった。


 続きの言葉が、喉の奥で固まっていた。熱くて、重たくて、形にならなかった。


 萩原くんは膝の上で、指を組み直した。


 控え室の奥で、誰かが湯呑みを置く音がした。それから、萩原くんが「ごめん」と言った。


 萩原くんが謝ることではなかった。わかっていた。


 わかっていたのに、「いいよ」と言えなかった。


 


 亜美が紙コップのお茶を二つ持って戻ってきた。


 私の顔を見て、萩原くんの顔を見て、何も訊かずに、私の手にお茶を持たせた。


 お茶は、ぬるかった。


 私はそれを飲まずに、両手で包んでいた。


 胸の底の、重たいもの。


 病院の朝から、ずっとそこにあったもの。


 それが、さっきより少しだけ、重くなっていた。


 


 金曜日は朝から雨だった。


 葬儀のことはあまり覚えていない。


 読経の声。焼香の列。おばさんの、冷たい指先。壁際に立ったまま、一度も顔を上げなかった萩原くん。祭壇の上の、最後の一枚。


 出棺の前に花を入れた。


 白い菊を一輪、裕太の胸のあたりに置いた。


 顔を見た。


 眠っているように見えた。


 口が半分開いて、眉間のしわがほどけて。二次試験の帰りの電車で、私の肩に頭を載せていたときと、同じ顔。


 起きて、と思った。


 数学の最後の問題、たぶん合ってる、って、寝ぼけた声で言って。


 起きなかった。


 蓋が、閉められた。


 俺がいなくなったらどうする、と訊かれたことがあった。


 答えは、まだ来ていなかった。


 訊いた人は、もういなかった。


 


 霊柩車が、雨の中を出ていった。


 クラクションが、長く一度だけ鳴った。


 斎場の玄関の前で、みんなが頭を下げていた。私も、下げた。顔を上げると、車はもう角を曲がって、見えなくなっていた。


 人の輪が、少しずつほどけていった。


 誰かが、泣いていた。


 誰もが、泣いていた。


 私だけが、泣けなかった。


「渚沙」


 亜美が隣で、私の顔を覗き込んでいた。亜美の目は、真っ赤だった。


「……夏祭り、今年こそ四人で行こうって、言ってたのに」


 亜美はそれだけ言って、唇を噛んだ。


「……ちょっと、座ろ。ね」


 私は首を横に振った。


 抱えていた黒い鞄を亜美の胸に押しつけた。


「……これ、持ってて」


「え」


「すぐ、戻るから」


 亜美は鞄を抱えたまま、何か言いかけた。


 それから玄関の脇の傘立てから、ビニール傘を一本抜いて、私の手に押し込んだ。


「……じゃあ、これ。濡れるから」


 私は傘を受け取った。


 受け取って、斎場の玄関を出た。


 


 雨が、アスファルトを叩いていた。


 傘を、開いたかどうかは、覚えていない。


 どこへ行くのかは、途中から、わかっていた。


 駅へ向かう道を一つ手前で曲がった。


 坂を、上った。


 私はあの神社へ歩いた。


 


    *


 


 チョークの粉の匂いがした。


 それから、椅子を引く音。誰かの笑い声。窓の外で、鳥が鳴いている。


 雨の音は、しなかった。


「——はい、じゃあ席替えするぞー。一人ずつ引きに来い。引いたら黒板に名前書いとけよ」


 聞き覚えのある声だった。


 聞き覚えのある、はずのない声だった。


 私は、目を開けた。


 黒板に、白いチョークで座席表が描かれていた。


 教卓の上にお菓子の空き箱が置かれていた。


 窓の外で、桜が、半分くらい散っていた。


 膝が、濡れていなかった。


 私は、自分の手を見た。


 喪服の黒い袖ではなかった。


 紺色の、ブレザーの袖だった。

つらい章だったと思います。書いている私も、何度か手が止まりました。

それでも最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます。


第二章の終わりで、この物語はようやく本当の形を見せ始めます。

ここからが、渚沙の長い五月の始まりです。

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