二十九番
紺色の袖口から、自分の手首が出ていた。
細かった。
大学に入ってから、いくらか肉がついたはずの手首が、高校生のころの細さに戻っていた。爪の形も、指の節も、見覚えがあるのに、どこか違っていた。
私はその手を、膝の上で握ったり開いたりした。
感覚は、ちゃんとあった。
夢ではなかった。
「——出席番号順な。相沢から」
宮下先生の声がした。
前の席の子が立ち上がって、教卓へ歩いていく。お菓子の空き箱に手を入れて、四つ折りの紙を一枚引く。開いて、黒板の座席表を見上げて、チョークで自分の名前を書き込む。
同じだった。
空き箱の角のへこみも、チョークが黒板を擦る乾いた音も、窓から入ってくる風の、少し土の混じった匂いも。
二年前に、見た光景だった。
いや、二年前ではない。
私が知っている二年前は、もうどこにもない。これは、今だった。
何が起きているのか、わからなかった。
わからないのに、体の奥のほうで、何かが覚えていた。
雨の神社。膝の下で水を吸っていく喪服のスカート。本殿の正面で、組んだ指。声に出さずに投げた問い。
——裕太は、本当に私のことが好きだったんですか。
あの問いのあとに、雨の音が、一瞬だけ遠くなった。
そして、ここにいた。
「渚沙、何番?」
顔を上げると、亜美がくじを握ったまま、私の席の横に立っていた。
高校三年の、亜美だった。
髪が、短かった。大学に入ってから伸ばし始めて、会うたびに色が変わっていった髪が、まだ肩の上で揃っていた。
「……亜美」
「ん? なに、その顔。……え、ちょっと待って。渚沙、泣きそうじゃない? 大丈夫?」
目の奥が、熱かった。
斎場でも、病院でも、雨の神社でも、どうしても出てこなかったものが、今、すぐそこまで来ている気がした。
来なかった。
熱いまま、出てこなかった。
「……大丈夫。ちょっと、寝ぼけてた」
亜美は疑わしそうに私を見ていたけれど、自分の番が呼ばれて、「あとで話聞くから」と言って前へ出ていった。
私の番が来た。
教卓まで歩いて、空き箱に手を入れた。
開く前から、わかっていた気がした。
二十九。
窓際の列の、後ろから二番目。
チョークを取って、二十九の枠に「山吹」と書いた。
字が、震えていた。
机を運んで、窓際の列に椅子を下ろした。
窓の外では、校庭の桜が半分くらい散っていた。花びらが、風に乗って二階の高さまで上がってくる。
膝の上で両手を固く握った。
次に何が起きるのか、わかっていた。
隣の机が、がたん、と音を立てて止まる。
「よっ、と」
声がした。
息が、止まった。
隣を見ることが、できなかった。
視界の端で、背の高い影が、机の端を両手で押さえて、位置を微妙に調整していた。一度前に出しすぎて、また少し引いた。
制服のシャツの袖を、肘のところまで捲っていた。
腕に、薄く、日焼けの跡が残っていた。
私は、ゆっくりと、顔を上げた。
裕太がいた。
白い包帯もなかった。口元の透明な管もなかった。赤黒く腫れた頬もなかった。
黒い額の中でもなかった。
白い菊の中でもなかった。
四月の光の中で、少し眠そうな目をして、裕太が、生きて、そこにいた。
目が合った。
「よろしく。山吹さん、だよね」
私は何も言えなかった。
わかってしまう。この人が、次に何を言うのか。この人がどんなふうに私の返事を待つのか。三日遅れの「ありがとう」も、石段の上の「渚沙って、呼んでいい?」も、校門の前の最後の一枚も。
全部、知っていた。
この人は何も知らなかった。
私の名前を、座席表で見たばかりの、ただの同級生の顔をしていた。
口が、勝手に動いた。
「……裕太」
裕太が、瞬きをした。
「……え」
それから、首を傾げた。
「いきなり下の名前? ……え、俺ら、話したことあったっけ」
顔が、熱くなった。
違う、と思った。この人は、まだ、何も。
「……ごめん」
声が、かすれた。
「……今里くん。……人違い、じゃなくて。……ごめん、寝ぼけてた」
自分でも、何を言っているのかわからなかった。
裕太は瞬きを二度して、私の顔を見ていた。
それからふっと笑った。
「いいよ、別に。裕太でも」
私は、立ち上がった。
「……ちょっと、トイレ」
宮下先生に聞こえないくらいの声で言って、教室の後ろの扉から廊下に出た。
走った。
上履きの音が、ぱたぱたと鳴った。
女子トイレの一番奥の個室に入って、鍵をかけた。
制服のポケットに、スマホが入っていた。
大学に入ったときに買い替える前の、古い機種だった。画面の端に、高二の冬に落として入れたひびがあった。
四月。高校三年の、四月。
月曜日。
写真フォルダを、開いた。
遡った。
指先が冷たかった。
高三の四月から先の写真は、一枚もなかった。
卒業式の日の写真も。
校門の前の、何枚も撮り直した写真も。
照れくさそうに笑っている、最後の一枚も。
どこにも、なかった。
私は、個室の壁にもたれて、スマホを胸に押し当てた。
あの写真は、まだ撮られていない。
撮られていないから、黒い額にも入っていない。
それが、嬉しいのか、怖いのか、わからなかった。
遠くで授業の始まりを告げるチャイムが鳴っていた。
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