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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第三章 二度目の春

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二十九番

 紺色の袖口から、自分の手首が出ていた。


 細かった。


 大学に入ってから、いくらか肉がついたはずの手首が、高校生のころの細さに戻っていた。爪の形も、指の節も、見覚えがあるのに、どこか違っていた。


 私はその手を、膝の上で握ったり開いたりした。


 感覚は、ちゃんとあった。


 夢ではなかった。


「——出席番号順な。相沢から」


 宮下先生の声がした。


 前の席の子が立ち上がって、教卓へ歩いていく。お菓子の空き箱に手を入れて、四つ折りの紙を一枚引く。開いて、黒板の座席表を見上げて、チョークで自分の名前を書き込む。


 同じだった。


 空き箱の角のへこみも、チョークが黒板を擦る乾いた音も、窓から入ってくる風の、少し土の混じった匂いも。


 


 二年前に、見た光景だった。


 いや、二年前ではない。


 私が知っている二年前は、もうどこにもない。これは、今だった。


 何が起きているのか、わからなかった。


 わからないのに、体の奥のほうで、何かが覚えていた。


 雨の神社。膝の下で水を吸っていく喪服のスカート。本殿の正面で、組んだ指。声に出さずに投げた問い。


 ——裕太は、本当に私のことが好きだったんですか。


 あの問いのあとに、雨の音が、一瞬だけ遠くなった。


 そして、ここにいた。


 


「渚沙、何番?」


 顔を上げると、亜美がくじを握ったまま、私の席の横に立っていた。


 高校三年の、亜美だった。


 髪が、短かった。大学に入ってから伸ばし始めて、会うたびに色が変わっていった髪が、まだ肩の上で揃っていた。


「……亜美」


「ん? なに、その顔。……え、ちょっと待って。渚沙、泣きそうじゃない? 大丈夫?」


 目の奥が、熱かった。


 斎場でも、病院でも、雨の神社でも、どうしても出てこなかったものが、今、すぐそこまで来ている気がした。


 来なかった。


 熱いまま、出てこなかった。


「……大丈夫。ちょっと、寝ぼけてた」


 亜美は疑わしそうに私を見ていたけれど、自分の番が呼ばれて、「あとで話聞くから」と言って前へ出ていった。


 


 私の番が来た。


 教卓まで歩いて、空き箱に手を入れた。


 開く前から、わかっていた気がした。


 二十九。


 窓際の列の、後ろから二番目。


 チョークを取って、二十九の枠に「山吹」と書いた。


 字が、震えていた。


 


 机を運んで、窓際の列に椅子を下ろした。


 窓の外では、校庭の桜が半分くらい散っていた。花びらが、風に乗って二階の高さまで上がってくる。


 膝の上で両手を固く握った。


 次に何が起きるのか、わかっていた。


 隣の机が、がたん、と音を立てて止まる。


 


「よっ、と」


 


 声がした。


 息が、止まった。


 隣を見ることが、できなかった。


 視界の端で、背の高い影が、机の端を両手で押さえて、位置を微妙に調整していた。一度前に出しすぎて、また少し引いた。


 制服のシャツの袖を、肘のところまで捲っていた。


 腕に、薄く、日焼けの跡が残っていた。


 


 私は、ゆっくりと、顔を上げた。


 


 裕太がいた。


 


 白い包帯もなかった。口元の透明な管もなかった。赤黒く腫れた頬もなかった。


 黒い額の中でもなかった。


 白い菊の中でもなかった。


 四月の光の中で、少し眠そうな目をして、裕太が、生きて、そこにいた。


 目が合った。


「よろしく。山吹さん、だよね」


 


 私は何も言えなかった。


 わかってしまう。この人が、次に何を言うのか。この人がどんなふうに私の返事を待つのか。三日遅れの「ありがとう」も、石段の上の「渚沙って、呼んでいい?」も、校門の前の最後の一枚も。


 全部、知っていた。


 この人は何も知らなかった。


 私の名前を、座席表で見たばかりの、ただの同級生の顔をしていた。


 口が、勝手に動いた。


「……裕太」


 


 裕太が、瞬きをした。


「……え」


 それから、首を傾げた。


「いきなり下の名前? ……え、俺ら、話したことあったっけ」


 顔が、熱くなった。


 違う、と思った。この人は、まだ、何も。


「……ごめん」


 声が、かすれた。


「……今里くん。……人違い、じゃなくて。……ごめん、寝ぼけてた」


 自分でも、何を言っているのかわからなかった。


 裕太は瞬きを二度して、私の顔を見ていた。


 それからふっと笑った。


「いいよ、別に。裕太でも」


 


 私は、立ち上がった。


「……ちょっと、トイレ」


 宮下先生に聞こえないくらいの声で言って、教室の後ろの扉から廊下に出た。


 走った。


 上履きの音が、ぱたぱたと鳴った。


 女子トイレの一番奥の個室に入って、鍵をかけた。


 制服のポケットに、スマホが入っていた。


 大学に入ったときに買い替える前の、古い機種だった。画面の端に、高二の冬に落として入れたひびがあった。


 四月。高校三年の、四月。


 月曜日。


 


 写真フォルダを、開いた。


 遡った。


 指先が冷たかった。


 高三の四月から先の写真は、一枚もなかった。


 卒業式の日の写真も。


 校門の前の、何枚も撮り直した写真も。


 照れくさそうに笑っている、最後の一枚も。


 どこにも、なかった。


 


 私は、個室の壁にもたれて、スマホを胸に押し当てた。


 あの写真は、まだ撮られていない。


 撮られていないから、黒い額にも入っていない。


 それが、嬉しいのか、怖いのか、わからなかった。


 遠くで授業の始まりを告げるチャイムが鳴っていた。

お読みいただき、ありがとうございます。


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