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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第二章 五月七日

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黒い鞄

 五月二十七日、火曜日の朝、五時十二分。


 電話が鳴る前に、目が覚めていた。


 眠れていなかったのだと思う。枕元の腕時計を握ったまま窓の外が白んでいくのを見ていた。


 スマホが鳴った。


 おばさんからだった。


 出る前から、わかっていた。


 


 病院に着いたのは六時過ぎだった。


 集中治療室の、一番奥のベッド。機械の音は、もうしていなかった。口元の管も、外されていた。


 裕太は、眠っているように見えた。


 日曜日には、遠いところにいるように見えた顔が、今は、ただ眠っているように見えた。口が半分開いて、眉間のしわがほどけて。二次試験の帰りの電車で、私の肩に頭を載せていたときの顔に、どこか似ていた。


 おばさんがベッドの横で、裕太の手を握っていた。


 おじさんがその肩を抱いていた。


 私はベッドの足元に立っていた。


 おばさんが顔を上げて、私を見た。


「渚沙ちゃん。……手、握ってあげて」


 私はベッドの横に回った。


 日曜日に握ったのと、同じ右手だった。点滴の管はもう外されていた。手の甲に、テープの跡が四角く残っていた。


 触れた。


 冷たかった。


 日曜日は、温かかった。ロータリーでハンドルを握っていた手の、まだ続きのような温かさだった。


 今は、違った。


 握っても、握り返してこない。握っても、温度が移ってこない。私の手のほうが、少しずつ、冷えていくだけだった。


「……裕太」


 呼んだ。


 声に出して呼ぶのは、三度目だった。


 ロータリーで一度。日曜日の集中治療室で一度。そして、今。


 二年かかってやっと呼べた名前を、この人は、一度も聞き返してくれなかった。


 泣かなかった。


 泣けなかった。


 目の奥が、熱かった。喉が、焼けるように痛かった。それなのに、何も出てこなかった。


 胸の底に、何か、重たいものがあった。


 それが、涙の出口を塞いでいた。


 


 それからの一日は、ほとんど覚えていない。


 誰かが私の肩を抱いた。亜美だったと思う。誰かが温かい飲み物を持ってきてくれた。萩原くんだったかもしれない。母が迎えに来て、車に乗せられて、家に帰った。


 部屋に入ってベッドに座った。


 手の中に腕時計があった。


 秒針が、回っていた。


 持ち主が、いなくなっても。


 


 水曜日の昼、おばさんから電話があった。


『渚沙ちゃん、ちょっと、いい?』


 おばさんの声は、日曜日よりも、落ち着いていた。落ち着いているぶん、ひどく疲れていた。


『遺影の写真をね、決めなきゃいけないんだけど』


「……はい」


『あの子のスマホに入ってたの。一枚だけ、すごく、いい顔してるのが』


 おばさんは、そこで言葉を切った。


『卒業式の日の。……校門の前の。あれ、渚沙ちゃんが撮ってくれたんでしょう』


 


 息が、止まった。


 校門の前。卒業の看板の横。何枚も撮り直して。緊張した顔、歯を見せすぎた顔、目をつぶった顔、変な方向を向いた顔。


 それから、最後の一枚。


 首の後ろに手をやって、眉を下げて、はにかんでいる顔。


 俺、こんな顔してんだ、と裕太は言った。


 渚沙といるとき、と。


 それ、あとで送って、と。


 私は、その夜、送った。卒業式の夜に、あの一枚だけを。


 裕太は、あれを、ずっと持っていたのだ。


『あの写真にしようと思うの。……いいかな』


 いい、と言わなければいけなかった。


 あの一枚以外に、あの人の、本当の顔はないと思った。


 でも、あの一枚が、白い菊に囲まれて、黒い額に入るのを想像したとき、手が震えた。


 私が撮ったのだ。


 もっと普通に笑って、と言ったのは、私だった。


「……はい」


 やっと、声が出た。


「あの写真が、いいと思います」


 電話の向こうでおばさんが、小さく息を吐いた。


『ありがとう。……あの子も、きっと、そう言うわ』


 


 通夜は木曜日の夕方だった。


 葬儀は、金曜日。天気予報は、雨だった。


 水曜日の夜、母が黒いワンピースを買ってきてくれた。大学生になってから、喪服を着る機会は一度もなかった。それまでは、高校の制服で済ませていた。もう、それは着られなかった。


 ハンガーにかかった黒い布を見ていた。袖口から、切り忘れた値札が白く垂れていた。


 それからクローゼットの奥から、黒い小さな鞄を出した。親戚の法事のときに、母が用意してくれたものだった。一度しか使っていない。


 いつもの鞄から中身を移した。


 財布。ハンカチ。ティッシュ。


 内ポケットに手を入れたとき、指先に、何かが触れた。


 小さくて、少しだけ硬い、布の手触り。


 取り出さなくても、わかった。


 高三の夏祭りの夜。「おそろい」と言って、差し出された、紺色の。


 引き出しの奥から出して、高校の通学鞄の内ポケットに移したのは、高三の十月の夜だった。なくさないように、しまっておくんじゃなくて。そう思って。


 大学に入って鞄が替わっても、これだけは、そのたびに内ポケットへ移してきた。


 一日も、手放したことはなかった。


 私は、それを、取り出さなかった。


 指先で、一度だけ、形をなぞった。


 黒い鞄の内ポケットにそっと移した。


 


 腕時計は机の上に置いた。


 持っていくかどうか、迷った。


 返してあげて、とおばさんは言った。目を覚ましたら、と。


 もう、返す相手はいなかった。


 秒針が、回っていた。


 私は腕時計を、机の引き出しにしまった。


 閉める前に、もう一度だけ、文字盤を見た。


 十一時四十八分。


 明日も、明後日も、この針は回り続ける。


 あの人が、どこにもいなくなっても。


 引き出しを、閉めた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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